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rev4-23 ルリの怒り

 広大な謁見の間は、静まりかえっていました。


 正確に言うと、少し離れた場所でプロキオンちゃんとベティちゃんが楽しそうに遊んでいる声は聞こえてくるんです。


 まぁ、遊ぶというには少々無理がある音が聞こえてきますけど。なんか、パーンとか、ヒュボっとか、そんなよくわからない音が、単純に走り回っているだけではしないような音が聞こえてくるのです。


 一度ふたりの方を見ましたけど、ふたりは同じように走り回っているだけで、ベティちゃんが先を行き、プロキオンちゃんが追いかけるという、鬼ごっこをしているだけ。普通の鬼ごっこでは到底するはずのない音が響いているのです。いったい、あの子たちはなにをしているのだろうかと思うほどに、それはあまりにも意味のわからない光景でした。


 私の灰色の脳細胞を以てしても理解不能な光景に、私は早々に理解を諦めて、改めてベヒモス様の方を見やったのです。


 それ以降もふたりのはしゃぐ声は聞こえてくるのだけど、それ以外の物音はなにひとつとて聞こえてこない。


 それだけベヒモス様の仰った内容は、重たい話でした。


 ベヒモス様の死。


 その理由は、一言で言えば、お母君にあたる母神様との絆のため。


 もっとも、ベヒモス様が仰る限り、母神様からのご寵愛を受けていたわけでないそうですが、それでもいまのベヒモス様のお体は、母神様がご用意されたもの。ベヒモス様にとっては、母神様から受け取った唯一無二の贈り物。


 とっくに限界を超過していたとしても、贈り物である体を捨てられるわけがない。


 それがベヒモス様がご自身の最期を口にされた理由。


 あまりにも切実で、とても澄み切った想い。その想いにベヒモス様は殉じようとされている。


 そのお言葉に私はなにも言うことができませんでした。


 本来ならなにか言うべきなんでしょう。


 この世界の頂点である神獣様のおひとりが、そんな理由で自死されるなんて許されるわけがないでしょう、と。


 そんな理由で死ぬなんて、バカも休み休み言ってください、とも。


 他にもあれこれと言えることはあります。


 ですが、そのすべてを実際に口にすることはできませんでした。


 ベヒモス様の怒りを買うという可能性もあるからということもありますが、それ以上にベヒモス様の理由があまりにも純粋すぎる想いだから。あまりにも純粋なその気持ちを踏みにじるような言葉なんて口にできるわけがなかった。


 だから、私はなにも言えませんでした。


 それは私だけではなく、この場にいるほぼ全員が同じ想いなのでしょう。


 親からの贈り物。


 値段なんて関係ない。


 どんなに子供じみたものであっても。


 親が子のために選んでくれたものは、とても大切なものです。


 私だって母さんから贈ってもらったものはあります。


 子供の頃の誕生日に贈られた、小さな人形。いまはコサージュ村の実家に置いてありますけど、大切に保管はしているのです。もうそれで遊ぶ歳ではないけれど、それでも母さんが贈ってくれた物であることには変わらない。


 私にとっての人形がそうであるように、ベヒモス様にとって、いまのお体こそがその贈り物。スケールに差がありますけど、ベヒモス様がいまのお体を大切になさっていることは悲しいくらいに理解できるのです。


 だからこそ、なにも言えません。大切なものを捨て去ること。それがどれほどまでに辛いことなのか。その辛さが想像できるからこそ、私は、いや、私たちはなにも言うことができなくなってしまいました。


 きっとアリシア陛下も、ベヒモス様のお気持ちを理解しているからこそ、少しでも長生きして欲しいからこそ、食糧をお送りされているのでしょうね。


 人であろうと神獣様であろうと、生きとし生けるものは、誰かの子供であることは否定できないことですから。


 その親との思い出の品を処分できないというのは、どうしようもない──。


「……くだらん」


 ──どうしようもないことだと思った矢先、不意に吐き捨てるような一言が聞こえてきました。


 その言葉を口にしたのは、ルリさんでした。


 ルリさんは露わになっている口元を忌々しそうに歪めながら、鋭く牙を剥きながらベヒモス様を睨み付けておられました。


「母からの贈り物だと? バカも休み休み言え。あんなド腐れババアがそんな殊勝なことなぞ考えるはずがなかろう? あのド腐れババアはな。自分の想定よりも強く産まれたというだけのことで、産まれたばかりの子を牢獄に放り込むような女ぞ? しまいにはその子を「最悪の化け物」と称するような腐りきった性根の持ち主だぞ? そんな女からの贈り物? は! そんなものさっさと捨ててしまえばいいだけだ!」


 ルリさんは一息に叫びました。


 荒々しく肩を上気させながら、苛立ちをそのまま言葉に乗せていました。


 それだけルリさんにとって、ベヒモス様のお言葉は、母神様への想いは、我慢できないものだったのでしょう。


 ただ、それは同時にルリさんの正体を口にするようなものでした。


 ルリさんが口にしたのは、どう考えてもご自身のことでしょう。


 ルリさんは母神様から「最悪の化け物」と呼ばれていたということ。


 そしてそれが意味することはひとつだけ。


 私も大昔の伝記で、父さんの書斎にあった本で知った知識でしかないのですが、かつて神代には「最悪の化け物」と呼ばれる存在がいたそうです。その名も魔狼「フェンリル」という巨大な狼の魔物でした。


 ですが、その巨狼は母神様の手によって滅ぼされたという話でしたが、ルリさんの口振りを踏まえると、「フェンリル」はいまもなお生きていたようです。私たちの目の前に、「ルリ」という名前を名乗ってです。


「……ルリさんが、「フェンリル」なんですか?」


 恐る恐るとルリさんに尋ねると、ルリさんは瞳孔の裂けた目で私を見やると──。


「だったら、どうしたという? 我の正体がなんであろうと、そなたに関係があるというのか?」


 ──いままで聞いたことない声を、二重に聞こえる声を出して私を威嚇されたのです。その威嚇にによって、心臓が止まるのがはっきりとわかりました。心臓が止まったのはどれだけの時間かはわからなかった。一瞬か、それとも数十秒は経っていたのか。


 時間の概念さえもわからなくなるほどに、ルリさんの発した威嚇に、恐ろしいほどの殺気が籠められた威嚇に、私は文字通り殺されそうになりましたが──。


「……落ち着け、ルリ」


 ──私とルリさんの間に立つようにして、ルリさんの視線をレンさんが遮ってくださったことでことなきを得ました。


「黙れ、我に命令するつもりか?」


 ですが、視線を遮られたとしても、ルリさんの怒りは収まらず、矛先は私からレンさんにと移り変わりました。背中越しにルリさんからの殺気がはっきりと伝わってきました。なにせ、ルリさんが言葉を発する度に空気が震えているのです。いや、大気そのものが震えているかのようでした。


 そんな殺気を真っ正面から浴びているというのに、レンさんは慌てる素振りを見せるどころか、平静とした様子でルリさんを見つめ返しているようでした。


 そんなレンさんを私は下から、いつのまにか腰が砕けてしまっていたことで、見上げるようにしてレンさんの背中を見つめることしかできずにいました。そんな私をルクレティア陛下とイリアさん、それにアスランさんたちが介抱してくださいました。


 なにか声を懸けてくださっていましたけど、私の耳に届いていたのは、ルリさんとレンさんの会話だけでした。


「命令なんざしてねえ。ただ落ちつけと言っている。この場にはアンジュだけじゃない。ベティやプロキオンもいる。そしてなによりもカティはおまえが以前のおまえになることなんざ望んじゃいないはずだ」


「……カティが」


「そうだ。カティは望んじゃいない。それはおまえが一番わかっているだろう? おまえの体に眠っているカティに聞けばわかるはずだ」


「……」


 レンさんのその言葉で、ルリさんから発せられていた殺気はゆっくりと萎み萎えていきました。


 ルリさんがいまどんな状態になっているのかは、私には見えません。ですが、普段のルリさんに戻りつつあることはなんとなくだけど理解できました。


「ルリおねーちゃん、おこっちゃ、ダメだよ?」


 そこにそれまでプロキオンちゃんと一緒に遊んでいたベティちゃんまでやってきたのです。プロキオンちゃんはいつのまにか、私のそばで私の手を強く握ってくれていました。プロキオンちゃんは「まま、しっかりして」と何度何度も声を懸けてくれていた。まだルクレティア陛下たちの声は聞こえないけれど、プロキオンちゃんの声だけははっきりと聞こえていました。


「……ごめんね」と言ってプロキオンちゃんの頭を撫でてあげようとしたのですが、腕が震えてしまってうまくできませんでした。


 そんな私に「無理しないで、まま」とプロキオンちゃんは気遣ってくれました。殺気を浴びたことがないわけじゃない。でも、あれほどに濃密なものは初めてだった。そのせいで、体が一時的に麻痺を起こしてしまっているようでした。まぁ、心臓が止まっていたみたいですし、無理もないんでしょうけどね。


 私を一瞬でそこまで追いやったルリさんはというと──。


「……すまぬ。感情を抑えきれなんだ。アンジュ殿にも悪いことをした。申し訳ない」


 ──ベティちゃんの声でようやく冷静さを取り戻されたようで、いつものかわいらしい声で謝ってくれました。その声を聞いて、レンさんも私の前から動かれました。レンさんという壁がなくなり、私の目に映ったのはいつも通りのルリさんでした。まぁ、いつも通りというには、申し訳なさそうに尻尾や耳を垂らしているのが、なんとも愛らしいのですが。


「大姉上も、孫のような子には敵いませんな」


「……そうだな。我も寵児には敵わぬ。すまぬな、四の。そなたの気持ちを無碍にしてしまった」


「いえ。大姉上からしてみれば、当然でしょう」


「そう言ってくれるか? だが、それでもそなたの気持ちを無碍にしたことは謝らせてくれ」


「……律儀ですなぁ」


「くそ真面目なそなたに言われたくない」


「はっはっは、一本取られましたなぁ」


 ルリさんとベヒモス様はとても穏やかな会話をされました。


 その内容を聞く限りは、ルリさんは冷静さを取り戻されたようです。


「とにかく、我のこの身はもう限界を超過しております。ゆえにいつ死ぬかもわからぬ身であるのです」


 ベヒモス様は改めてレンさんを見やると、そう締めくくられたのです。その言葉に再び無言が流れようとした、そのとき。


「あの、ベヒモス様」


 恐る恐るという具合に、ルクレティア陛下が手を挙げられたのです。全員の視線がルクレティア陛下に集まる中、ルクレティア陛下が口にされたのは──。


「ベヒモス様がお亡くなりになるということは、神獣様がおひとりいなくなられるということでしょうか?」


 ──といういままで誰も口にしなかったのが不思議にもほどがある内容でした。

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