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rev4-19 劇物と笑顔のお嫁様

「……様」


 声が聞こえる。


 静かな優しい声。


 声が聞こえた後、鼻孔を甘い香りがくすぐり、全身を包み込んでいくように広がっていった。


 甘い香りに包まれてすぐに、体が揺さぶられる。


 揺さぶられると言っても、そこまで強いわけじゃない。


 せいぜい、体が軽く動かされているという程度。


 寝相の方がはるかに体が動く。


 その程度に体を前後に揺すられていた。


「旦那様」


 また声が聞こえる。


 今度はさっきよりもはっきりと聞こえてきた。


 聞き慣れた、優しい声。


 その声に止まっていた思考が、少しずつ加速していく。


「……ん」


 自分のものとは思えないような、低めの声が響く。


 重たいまぶたをゆっくりと上げていく。


「おはようございます、旦那様」


 まぶたを上げて、真っ先に見えたのは、湖のような薄い青の瞳。


 青い瞳から少しずつ全体の姿が見えた。


 瞳と同じ色をした、色素が若干薄めの青い髪。その青い髪は肩で掛け流すようにして纏められている。……たしかルーズサイドテールだったかな? アニメや漫画では主人公やヒロインの死んだ母親がよくしている髪型。もっと言えば、薄幸キャラがよくする髪型だった。


 ルーズサイドテールで髪を纏めながら、彼女はニコニコといつものように笑っている。いつものように清楚という言葉を体現したかのような、穏やかな笑み。


 そんな彼女に向かって俺は、まだぼんやりとしながら口を開いた。


「……おはよう、ルクレ」


 いつもよりも思考が纏まる速度が遅い気がした。


 いつもなら、とっくに頭が動いているだろうに、今日に限ってはどうにも動きが鈍い。いや、重い気がする。


 そのうえ、なんだか妙に痛いような気もする。


 鈍痛というべき痛みがずっと頭を襲っていた。


(……頭、殴られたんだっけ?)


 外的要因による痛みかなと思ったけれど、いま俺たちがいるのはベヒモス様の座す「巨獣殿」だ。「巨獣殿」内で誰かに襲われるなんてことは早々起こりえるわけがない。


 ……まぁ、完全にないというわけじゃない。実際、「炎翼殿」では襲われたうえに攫われてしまったし。もっともあのときは、ガルーダ様があえてそうしていたというだけ。つまりそういう状況だったんだ。


 だけど、今回は違う。


 いまのところ、きな臭いものはなにもない。


 まぁ、面倒事というか、厄介事に巻き込まれてはいるわけだけど、あのときとは状況が異なっているから、「巨獣殿」内で誰かに襲われるなんてことはないはずだ。


 となると、この痛みは外的要因によるものじゃないってことだ。


(……じゃあ、この痛みはいったい)


 額を軽く抑えながら、大きくため息を吐いた。


 ため息ひとつ取っても、なんだか重たく感じられた。


 いったい俺の体どうしたんだろう。


 そう思っていたそのとき。


「……旦那様、呑みすぎです」


「……へ?」


 ルクレが顔を顰めながら、唇を尖らせていた。


 が、言われた側としては、「なに言ってんだろう」としか思えなかった。


「……呑みすぎって」


「そのままの意味です。深酒しすぎですよ」


「……深酒?」


 意味がさっぱり理解できず、はてと首を傾げる。


 ルクレはため息を吐きながら、「どうぞ」と言って、目の前にコーヒーを差し出してくれた。牛乳入りの薄茶色のコーヒーだった。


「アスラン様からのお話を聞いて、いろいろと用意いたしましたので」


 よく見ると、ルクレはバスケットを持っていた。その中からパンやら果物や野菜やらを次々に取り出してテーブルに広げていく。


 広げられていくバスケットの中身をぼんやりと眺めつつ、用意してくれていたコーヒーを手にして啜る。コーヒー特有の苦みが口の中に広がっていく。


 そうしてコーヒーを口にしている間も、ルクレはせっせと準備に勤しんでいる。いまはバスケットから取り出した野菜をミキサーに似た器具の中に放り込んでいた。ある程度の量になったら、器具の蓋を閉めてスイッチを入れると、中に放り込まれた野菜が音を立てて砕けて混ざっていく。


(……完全にミキサーじゃん、これ)


「魔大陸」では見かけたことはなかった。これも「聖大陸」ならではのものなのだろうかと考えつつ、コーヒーを再び啜る。


 その間もルクレは次の作業をしていた。


 今度は取り出した果物の皮を剥いたり、切り分けたりしている。剥かれて切り分けられた果物は皿の上に置かれていた。ついでに添え物としてパンもあった。


(……そういえば、二日酔いって全粒粉がいいんだっけ?)


 果物に添えられたパンは、よく見ると全粒粉らしい見た目をしていた。茶色のパンだけど、表面がごつごつしていた。地球の全粒粉のパンもこんな見た目をしていたし、ルクレ自身が「用意してきた」と言っていたから、たぶんこのパンは全粒粉のものなのだろう。


 加えて、コーヒーや果物、あといまも調理されている野菜ジュースなんかもぜんぶ二日酔いにいいものばかりだったはず。


「……そっか、俺二日酔いしているのかぁ」


 やけに頭が重くて痛いなぁと思っていたけれど、どうやら外的要因なんてものじゃなく、ただ単に二日酔いしてしまったがゆえのもののようだ。


 考えてみれば、俺たちがいまいるのは「巨獣殿」の中庭だった。昨夜にアスランさんと一緒に月見酒をしていた場所だ。途中でルクレは潰れてしまったけれど、俺はそのままアスランさんと付き合っていたはずだった。


 だけど、途中から記憶がない。アスランさんといろいろと話をしていたはずだったんだけど、その話をしていた内容はどうにも思い出せない。記憶が途中から飛んでしまっていた。それだけしこたま呑んだということ。そりゃ二日酔いにもなるか。


(……俺、地球だと未成年なんだけどなぁ)


 地球にいた頃は、きっちりと法律は守っていたし、この世界に来ても一応は守っていた。まぁ、プーレと挙式するときまでだけど。あれから箍が外れてしまい、飲酒するようになった。といっても二日酔いになるほどにしこたま呑んだことはなかったのだけど──。


「……そっか、これが二日酔い、かぁ」


 よく二日酔いで頭が痛いとか言う人がいるけれど、うん、これはたしかに痛いわ。というかしゃれになっていないくらいに痛い。


 大人ってこんな痛みが待ち受けているかもしれないのに、どうして酒がみんな好きなんだろうかといましみじみと思う。……正直いまさらではあるのだけど。


「旦那様、いつまでも、ぐでってしないでください。ほら、しゃっきとしてくださいな」


「……むぅりー」


「無理じゃないです。ほらほら」


 ぐでっとテーブルに突っ伏す俺だったが、ルクレは許してくれず、調理し終わった野菜ジュースをグラスに注いで目の前に置いてくれた。ルクレの野菜ジュースはどちらかというと青汁という方が正しい見た目をしている。


 具体的に言うと、純粋な緑色だった。深緑色といってもいいくらいだ。要は鮮やかじゃない緑色。食欲がまったく沸かない色合いをしている。まぁ、当然か。だってルクレってば、ミキサーに果物一切入れてくれなかったし。つまり純粋100パーセントの野菜汁ということだ。それを俺は決して野菜ジュースとは認めない。認めたくない。


「さぁ、旦那様ぐいっと」


 だというのに、ルクレはこの酷い頭痛と戦っている俺にその野菜汁を飲めと言う始末。なんてひどいお嫁様だろうか。もう少しこうなんと言いますか、手心を加えていただけないものですかねと言いたいところだ。


「やです。飲んでください」


 ルクレはニコニコと笑いながら、「飲め」と言ってくれた。どう考えても地獄のような味をしているのは間違いない。けれど、ルクレは笑っている。笑いながら俺を地獄においやろうとしている。


 本当になんて嫁なんだろうか。いったい俺がなにをしたというのか。


「二日酔いになるまで深酒をしたでしょう?」


「……いや、違うんですよ。ちゃうんすよ、ルクレさん。これには事情というものがございましてね」


「ふふふ、問答無用です」


 体を起こすのも大変な俺の顔をがしっと力強く掴むルクレ。あ、まずい。そう思ったときにはもう時遅し。ルクレは俺の口の中に無理矢理野菜汁を注ぎ込んだ。注ぎ込まれた野菜汁はまさに野菜汁だった。もっと言うと、一切のうまみや甘みなどがなく、ただただ青臭いだけの液体が次々に流し込まれていく。まさに拷問だ。


 そんな拷問を仕掛けながらもルクレは笑っている。笑いながら俺の口の中に野菜汁を流して込んでくれた。


 頭の中が真っ白になるのを感じながらも、俺は声にならない悲鳴を上げながら、次々に流し込まれていく劇物を飲み干すことしかできなかった。

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