rev4-17 神獣の慚愧
窓の外から差し込む光が、薄暗い部屋の中を淡く照らしていく。
部屋の中の燭台に火を灯せば、もっと明るくなる。
だが、そんな気分じゃなかった。
だから、火を灯すことなく、薄暗い部屋の中でひとり杯を重ねていた。
杯を重ねても、いつものような高揚感はない。
普段であれば、杯を重ねていけば高揚感はあった。
だが、今日はいくら杯を重ねても高揚する素振りさえない。
ただただ、どうしようもない悲しみに包まれていく。
その悲しみを押し流すようにして杯を重ねる。
途中からは杯に満たすのが面倒になり、酒壺に口を付けて飲んだ。
そのせいだろうか、四のが用意してくれた酒はもう残り少なくなっていた。
四のが気を利かせてくれたからか、用意してくれた酒はだいぶ大きな甕に入れられていた。その甕から酌めるようにと小さな壺も用意してくれていた。
大きな甕が三つあったが、そのうちの二つの中身は空になっていた。残りは一つしかない。その残りの一つも半分を切っていた。我ながら飲んだものだと思う。
それでも、ちっとも酔いが訪れることはない。
むしろ、飲めば飲むほど空虚さが広がっていく。
その空虚さに抗うようにして杯を重ねていた。
酒壺を満たして呷る。
それだけを何度も繰り返す。
満たされた壺の水面が揺れ、揺れた水面には眩い月が照らされていた。
水面に映し出された月ごと飲み干すようにして、酒壺を呷った。
普段身につけている仮面は外していた。
酔ったわけじゃないが、ひどく邪魔だと思ったからだ。
邪魔な仮面をベッドに放り投げ、ひとり酒を呷り続けて、どれだけの時間が経っただろうか。
「……その概念さえどうでもよかったんだがなぁ」
そう、どれだけの時間が経ったかなんてことさえも、我にはどうでもいいことだった。
神獣として生み出され、もとより寿命とは無縁だったこともあり、ことさら時間という概念には疎かった。
だが、この体ではそういうわけにはいかない。
元の体はすでに滅んでしまっている。そのせいで神器はひとつ減ってしまっている。いや、兄者の分も入れるとふたつ減っていた。そこに原初の神器である「空破」と「ベルフェスト」が加わり、一般的に神器は七つとされているが、実際は我と兄者、そして一のを含めて十の神器がある。そこから二つが失われてしまっているのが現状だった。
その現状からさらに一つが失われる可能性が生じてしまっている。
世界的に見れば、大損害と言ってもいい。
だが、我の目から見れば、神器が失われるということではない。
我にとっては弟が死ぬということだ。
今日初めて会った弟ではあるものの、それでも肉親の情はあった。
いや、思い出したと言う方が正しいのか。
かつては度々会いに来てくれた兄者にしか抱けなかったもの。
それがいまは会ったこともない弟妹どもにも抱けるようになった。
それもすべてはこの体の持ち主に、カティに会えたからだろう。
カティと出会ったことで、愛というものを思い出すことができた。
それまでは憎悪と怨嗟しか我の中にはなかった。
その憎悪も怨嗟もまだ我の中にはある。あるけれど、容易に抑え込むことができるようにはなったのだ。いや、抑え込むというわけではないか。取るもたらないほどに小さくなったと言う方が正しいな。
カティに出会えた。
それが我にとっては救いだった。
あの子と触れ合うことで、我の中にあったものはほとんど浄化されてしまっていた。
だからこそ、いまは弟妹どもにも愛情を向けることができていた。
その弟妹どものひとりが、死のうとしている。
それは決して肯んずることなどできぬこと。
だが、本人が死ぬつもりなのだから、どうすることもできなかった。
「……なぜ生きようとせぬのだ、四の」
この世界とともに我らは生じた。
それほどの永い月日を生きてきたがゆえというのもわかる。
だからといって、そう簡単に命を投げ出すものではない。
それも緩やかな死を選ぼうなんて、到底許せるものではなかった。
「……まぁ、わからぬわけでもないのだが」
四のが自死を選んだ理由は納得することはできないが、理解することはできた。
要はいまの体を捨てたくないということだ。
四の体はこの世界が生じたときのもの。
耐久限界を超えた体だ。
本来なら、とっくの昔に体を新しく造り替える転生を行っていなければならなかった。
だが、四のはいまの体のままで通したかったのだろう。
母神が手ずから生みだしたいまの体のままで。
その気持ちはわからないわけでもない。
たとえ、あの女が我らのことをなんとも思っていなかったとしても、あの女が我らの母であることには変わりない。その母がくれた体を捨てることが、四のにはできなかった。それだけのことだ。
だが、それは決して「それだけ」で片づけられないものである。だからこそ、他の弟妹どもは転生を行ってきた。これ以上神器を失うわけにはいかぬからだ。四のもそれはわかっていたはず。
しかし、それでもあやつはいまの体を捨てることができなかった。
マザコンと吐き捨てることは簡単だ。
だが、その想いを穢すことは誰にもできない。
わかるからこそ、その気持ちを理解できるからこそ、我にはもうどうしてやることもできなかった。それがただただ悔しかった。
「……ずいぶんと深酒をされておられますな、大姉上」
不意に声が響く。
見れば、部屋の入り口に四のが立っていた。
その手には干し肉を炙ったものや魚の切り身、野菜の煮物などのつまみが乗ったトレイがあるし、肩には追加の酒甕が吊られていた。
「……なんじゃ、おまえも飲むんか?」
「いえいえ、これは大姉上の分です」
「酒だけでよい」
「なりませぬな。その体は大姉上のものではないのでしょう?」
「……気づいていたか」
「気づかぬわけがありますまい。その体は大姉上の体にしてはあまりにも脆弱すぎる。その体では全力の戦闘どころか、長時間の戦闘さえもおぼつかないでしょう? せいぜい三十分、ある程度抑えながら戦えれば御の字というところかと」
「……ふん、それはお互い様であろうに。いまのおまえの体では、おまえも全力で戦うことはできぬだろうに。できるといえばできるだろうが、一度戦ってしまえばもう保たぬだろうに」
「……お見通しですか」
「ふん。わからぬわけがあるまい」
元々あった甕から酒を新しく満たしていく。その間に四のは我の目の前にテーブルを運び、その上につまみを置いていく。ひどく衰えた手でだ。
「……ひどい手だのぅ」
「そう言ってくださるな。これはこれで気に入っているのですから」
「だがなぁ、四のよ。その体はもう」
「……ええ。もう直に最後となるでしょうな。神子様が間に合ってくれて本当によかった」
「……だが、間に合ったところで神器はまたひとつ失われてはな。それでも間に合ったと言えるかのぅ」
四のが死ぬ前には間に合った。
だが、手遅れの時点で訪れたところで、はたして間に合ったと言えるのかは微妙なところなのだが。
「いえ、大姉上。我が死んでも神器は失われることはありません」
四のが口にしたのは思わぬものだった。
その想定外すぎる言葉に、「……は?」と素っ頓狂な声が漏れ出した。そんな我を見て、四のはしてやったりという風に笑っていた。
「いや、貴様なにを言っている?」
わずかにだが回っていた酔いがすっかりと醒めてしまった。それほどの一言だったのが、当の四のはあっけらかんと笑っている。
「そのままの意味ですよ、大姉上。この身が滅びても神器が失われることはないのです」
「どういうことだ? 神獣とは神器そのものであるぞ。その神獣が死せば、神器も失われる。原初の二振り以外では例外はない」
「ええ、その通りです。ですが、方法がないわけではない」
「方法だと?」
四のがなにを言っているのかがさっぱりと理解できなかった。
それとも、四のは知っているが、我が知らぬことがあるということなのだろうか。
四のが言いたいことがまるで理解できないでいると、四のは笑いながら答えてくれた。
「実に簡単なことなのですよ。ただ、相応の痛みと覚悟が必要ではありますが」
「痛みと覚悟?」
言っている意味がやはりわからない。わからないが、自然と脳裏にはアスランの姿が浮かび上がった。その理由はまだわからない。しかし、アスランの存在こそが四のが言う神獣が死しても神器が失われないというトンチの答えのような気がした。
「……それはアスランに関係があることか?」
「さすがは大姉上。慧眼ですな」
「ふん、わかったのはそこまでよ。それ以上先はとんとわからぬ。我には貴様がトンチを口にしているようにしか聞こえぬ」
「トンチ、ですか。まぁ、間違いではありませんな。担い手が神獣となるなんてね」
「……まさか」
「ええ。アスランこそが新しい神獣です。そして同時に彼女は神器の担い手でもある。そうなるように造り替えましたからのぅ」
四のが言う。その言葉同様に、その顔も非常に重苦しかった。いや、重苦しいというよりかは責任を感じているという方が正しいだろうか。
「……四の。いや、ベヒモスよ。なにをしたのだ?」
「……いま言った通りです。我は造り替えたのです、アスランを。それも彼女の姉を犠牲にする形で。……そうする以外に助ける方法がなかったということもあるんですが」
「……詳しく話せ」
「……本人の了承を得たいところですが、これも姉上命令なのでしょう?」
「あたりまえだ」
「では、仕方がありませぬな」
ベヒモスは苦笑いしていた。だが、話の内容はどう考えても笑えるものではない。それでも聞かぬわけにはいかない。
「あぁ、聞かせて貰おう。アスラン、いや、風の竜王の補佐であったサラとその姉である風の竜王の最期をな」
「……やはりお見通しでありましたか。わからぬようにしたつもりだったのですがね」
ベヒモスはそう言ってまぶたを閉じた。その顔は苦渋に満ちており、いまの衰えた体と悲しいくらいに似合ってしまっていた。
ずきりと胸が痛む。
その痛みははたして我のものなのか。
それとも時折生じるカティの思念によるものなのか。
判断はつかない。
判断がつかないまま、我はベヒモスの慚愧に耳を傾けていった。




