rev3-14 重なる音
残響が聞こえる。
遠くから聞こえる声。
夜に鳴く鳥の声。
「巨獣殿」の周囲には木々はない。
あっても眼下というのも憚れるほどに、遠い地上にあるくらいですか。
この鳥の声も、その木々に止まっているものなのでしょう。
もっとも、どの木に止まっているかまではわかりませんけどね。
なにせ、夜というのもありますけど、地上からもだいぶ離れているから木々は小さな粒のようにしか見えません。まぁ、木々の幹自体は見えないんですが。見えても木々の葉くらい。それもひとつひとつではなく、いくらかの纏まりとしか見えないのです。
そんな木々の集まりさえも、ここからでは粒のようにしか見えません。
そんな粒のなかの一本の木に止まっているであろう鳥の姿なんて見えるわけがないのです。
それでもぼんやりとしながらも、私は用意された部屋の隅のベッドに腰掛けながら、すぐ目の前にある窓から遠い地上を見やっていました。
「……まま」
舌っ足らずな声が聞こえた。
視線を下げると私の膝を枕にして眠るプロキオンちゃんがいる。その腕の中にはプロキオンちゃんに抱きつきながら眠るベティちゃんもいます。
少し前まではふたりで横になってお喋りをしていたんですけど、気づいたときにはすっかりと眠ってしまっていました。
少し前まであれば、プロキオンちゃんが合流するまでであれば、ベティちゃんの寝顔なんて見たら、発狂しかねないほどに興奮していたことでしょう。
でも、いまはそうでもない。
むしろ、ベティちゃんを見ても、いままでのように興奮することはなくなりました。いや、いまでも十分にかわいい子ではあるんですが、以前ほどには思えなくなりました。
その理由が私の膝を枕にしているプロキオンちゃんなのは言うまでもないでしょう。
夢の中でも私と一緒にいてくれているのか、嬉しそうに笑いながら、「まま」って舌っ足らずに呼んでくれるのです。
ですが、最初に呼んでくれたときは、右手をあちらこちらへと動かしていましたし、お顔も少し不安げだったんです。
窓の外をぼんやりと眺めていただけでしたけど、プロキオンちゃんがなにかを求めていることははっきりとわかりました。とりあえず試しにとプロキオンちゃんの右手をそっと握ってあげると、プロキオンちゃんの顔から不安の色が消えてなくなったんです。
それからはずっと手を握ったままです。一度お手洗いに行くために手を離したとき、笑顔が一転して元の不安げな顔になってしまいましたけど。だから急いでお手洗いをすましてから戻りましたけどね。
……まぁ、戻る際にちょっと、いえ、だいぶ、かな。胸が苦しくなりましたが。
あぁ、言っておきますけど、運動不足とかそういうことじゃないですよ。
単純に。いえ、単純にと言えるのかな?
決して単純とは言えないことではありましたね。私個人的には。
はっきりと聞こえたわけじゃないです。
でも、かすかに、ほんのかすかに漏れ聞こえてきたんです。
レンさんとルクレティア陛下のお部屋の物音が。
正確には、ルクレティア陛下の艶やかな声が聞こえてきたんです。
「もっと」とか「旦那様」とか、そんな普段のルクレティア陛下が口にしそうな単語くらいでしたけど、その単語を口にする声は平常ではありえないくらいに上擦っていたし、熱に溺れているようにも思えたのです。
あぁ、そういうことかって、声を聞いてわかりました。
とても小さな声だったし、かすかに漏れ聞こえてくる程度でしたけど、それでも部屋の中でなにが起こっているのかは確認するまでもなく理解できました。
レンさんとルクレティア陛下のお部屋は私たちの部屋からふたつ隣の部屋でした。
その間にはあえてなのか、誰もいない空き部屋でした。
でも、それはレンさんたちだからではなく、ほかの全員も同じなんです。私たちの部屋からふたつ先にはルリさんの部屋があり、そのふたつの先はイリアさんですから。
全員が同じように等間隔で部屋を用意してくださっているんです。
まるでそれぞれのプライベートを守るかのようにです。
実際、そういう理由なんでしょうけどね。
加えて、部屋の中は防音になっているみたいで、試しに私たちの部屋の扉に耳を当ててみましたけど、中の物音は聞こえませんでした。
本来なら部屋を離したうえで、防音もしているのであれば、プライベートは守れるはずでした。
ですが、レンさんとルクレティア陛下の部屋からは、部屋の中でなにを行っているのかがわかるほどに漏れ聞こえていました。
その理由はとても単純でした。おふたりの部屋の扉はかすかに開いていたんです。そこから物音が漏れていた。その物音を私は聞いてしまった。
ただそれだけ。
それだけのことが私の胸を締め付けてくれました。
旦那様と喘ぐルクレティア陛下の声がこびりついたみたいに離れてくれなかった。
プロキオンちゃんが待っているということも相まって、私はそそくさと部屋に戻りました。その際に部屋の防音がどうなっているのかを確認したんです。
私たちの部屋の扉に耳を当てても、プロキオンちゃんたちの寝息は聞こえてこなかった。
じゃあなんでと思い、レンさんたちの部屋を見て、うっすらと灯りが漏れているのが見えて、扉が完全に閉まっていないのがわかったんです。
扉を閉めてあげるべきだろうかと思ったけど、少し考えてやめることにしました。
部屋の扉がどれほど空いているのかはわからないけど、もし中から私の姿が見えてしまったら。そう思ったら、扉を閉めに行こうとは思えなかったんです。
盗み聞きしていたのかと思われるのは嫌でした。
たとえ善意で部屋の扉を閉めても、その物音がふたりに聞こえたら気まずくなるだけだし。
なによりも、もしルクレティア陛下が私に気づいたら。
そう思うと脚は動かなかった。
同時に頭の中である光景がよぎりました。
それはかつての光景。
コサージュ村が滅んだときに、レンさんたちと初めて一夜を共にしたときのこと。
レンさんに抱かれていたイリアさんが私に気づいて、薄らと笑みを浮かべたときのこと。
私が起きていることに気づいたイリアさんは、あの夜一晩中私に念話をして語りかけていた。
これは私だからしてもらえるのだ、と。
当時はなんでそんなことをするのか理解できなかった。
理解できないまま、理不尽な目に遭わされ続けた。
けれど、いまなら理解できるのです。
あのときのイリアさんの行動の理由が。
私を蹴落とすために、私の胸の内に宿った想いを足蹴するためだけにあんなことをしていたのだと。
当時はそのことに気づけなかった。
だから、「なんで」としか思えなかった。
でも、いまは違う。
いまはあのときの行動の意味がわかる。
だからこそ、ルクレティア陛下に気づかれたくなかった。
もし、あのときのイリアさんのように薄ら笑いを浮かべられたらと思っただけで、胸が痛くなる。膝が震えてしまいそうになる。
あのときのように念話で「この人は私の旦那様なんですよ」なんて言われたら、きっと私はいままで通りにレンさんたちと接することはできなくなる。この想いを閉じ込めておけなくなってしまう。
あまりにも遅すぎる自覚。
もっと早かったら。
それこそ「アヴァンシア」でアーサー陛下に求婚されたときに気づいていれば、もしかしたらいまとは状況が異なっていたのかもしれません。
レンさんと一夜をともにするのがルクレティア陛下ではなく。
そこで私は考えるのをやめて、部屋に戻った。
それ以上を考えてなんの意味もないのです。
だって、もう結果は出てしまっている。
レンさんはルクレティア陛下とご結婚されているのです。
私なんかを相手してくれることはないのです。
もう終わった想い。
成就することのない想い。
そんなものを抱いても仕方がない。
そうわかっているのに、私の胸の内には燻る想いがある。
その想いは自分の想像よりも大きかった。
部屋に入ってすぐに私は、蹲って泣きました。
泣きながら「どうして」と口にしていた。
その「どうして」がどういう意味なのかなんて、考えるまでもない。
だけど、どれだけ「どうして」と口にしても意味はないのです。
どれだけ口にしても答えは変わらない。
もう答えは出てしまっている。
結果も出てしまっている。
もう変えることのできない答えと結果が出てしまっている。
それでも、それでもと私の想いは止まらない。
止まらないまま、「どうして」と呟いていた。
そうしてひとしきり呟いてから、涙が止まってから私はプロキオンちゃんの元へと戻りました。それがほんの数分ほど前のこと。
それまでプロキオンちゃんには寂しい想いをさせてしまっていた。とても悪い「まま」です。
でも、少し前までの私は「まま」じゃなかった。「まま」ではいられなかった。
申し訳ないことをしてしまっていた。
本当にひどい「まま」です。
でも、いまはひどいことをしてしまっていた分まで、プロキオンちゃんを愛してあげたい。
私の分まで幸福でいてほしい。そう思います。
……私が掴めない幸福を、この子には掴んで欲しい。そう願わずにはいられないのです。
もしかしたらエゴかもしれない。
自分は手に入れられなかったから、子供にというのは親のエゴなのかもしれません。
エゴだったとしても、そう願わずにはいられなかった。
私の願いはどうあっても成就することはないけれど、プロキオンちゃんは違う。この子には可能性がある。未来がある。だからこそ、せめて私の分まで──。
『残念だけど、その子には未来はないよ』
「……お姉ちゃん?」
──私の分まで幸せになってほしい。
そう願った矢先のこと。
久しぶりに聞いたお姉ちゃんの声が、ささやかな願いを否定してくれました。
「未来はないって、どういうこと?」
お姉ちゃんにどういうことかと尋ねると、お姉ちゃんは申し訳なさそうな声で、でもはっきりと言ってくれたのです。
『その子はもう寿命が近いんだよ』
「……え?」
『もう一年もないんだよ、その子の命は』
「……うそ」
『……ううん、本当。何事もなく過ごすのであれば、一年。荒事に巻き込まれながらなら半年。それがその子の寿命。その子のタイムリミット』
お姉ちゃんの告げた一言はあまりにも無情なものでした。その一言を聞いて私は頭の中が真っ白になりました。
でも、頭の中が真っ白になっても鳥の鳴き声は止まらない。
一定の間隔で鳴いている。それはまるで時計の針の音のよう。
プロキオンちゃんの終わりへのカウントを刻んでいるかのように。
「……どうして」
私は少し前までのように「どうして」と呟いていた。
その言葉にお姉ちゃんはなにも言わなかった。
私はただ「どうして」と呟いていく。
その呟きに合わせて鳥の鳴き声が響く。
遠い残響と私の呟きは重なっていく。
重なるふたつの音に合わせるかのように、私の頬を熱いものがこぼれ落ちていく。
けれど、その滴を拭うことはできなかった。
拭うこともできないまま、私はただままならない現実に打ちのめされていくのでした。




