rev4-10 無自覚と否定
ベヒモス。
地球の神話にも登場する巨大な生物。
曰く神々の食物とも呼ばれる、地上においてどこまで成長することを許された存在。
その姿は、カバのような見た目だったり、象のような鼻や牛のような角を持っていたりと様々。俺にとっては巨大なカバのような見た目に、巨大な牙を持った存在という印象だった。
その点、実際のベヒモス様はその印象通りの姿をしている。
加えて言えば、本当に気苦労の絶えない人なんだなぁということかな。
いままで会った神獣様たちの話から、ベヒモス様は常識人や神獣様たちのストッパー的な立場にあるって話だった。その分、気苦労の絶えない人なんだろうなぁと思っていたけれど、ルリやリヴァイアサン様のやり取りを見て、印象通りの人だったと確信してしまった。
それでいて、いままで会った神獣様たちの中で、一番まともな人だった。お布施を宴会代と称したり、性格が破綻していたり、人のことをいきなり「妹ちゃん」呼ばわりしたり、いろいろとこじれていたりなど。いままでの神獣様たちは問題児的な要素を抱えていたけれど、ベヒモス様にはいまのところそういう要素は皆無だった。
あえて言うとすれば、アンジュの前で「神子様」呼びは勘弁してほしいことくらいか。別に隠すことでもないけれど、言いふらす必要もない。アンジュに俺のことを伝える必要はない。というか、巻き込みたくない。
俺の正体についてもアンジュには知らせる気はない。でも、いつかは伝えなければならない。アンジュが俺たちと行動を共にする限り、いつかは俺の正体を教えなければならない。でも、そのいつかはいまじゃない。もっと先のことだ。……それまであいつが俺たちのそばにいるかはわからないが。
……いや、はっきりと言えば、それまでにあいつが自分の意思で俺たちのそばから離れてくれればいいと思う。
ルクレと式を挙げるまでは、アンジュをカルディアと重ねてしまっていた。だから、アンジュが誰かのものになるってことがどうにも我慢ならなかった。
でも、いまはルクレがいてくれる。
だから、アンジュへの執着はだいぶ薄れていた。
それでも、アンジュとカルディアを重ねて見てしまうこともあるが、だいぶ回数は少なくなっていた。
以前は日に何度もアンジュのことをカルディアと呼びそうになっていた。でも、呼ぶことはしなかった。呼びかけそうになってもとっさのところで抑えることができたからだ。
だけど、それはもう過去の話だ。
いまはルクレがいてくれる。
さらにはプーレも戻ってきてくれている。……さすがにいまは近くにはいないけれど、会おうと思えば、いつでも会うことができる。人恋しさというか、恋煩いみたいな感情はだいぶ薄れてしまっている。
だからアンジュへの執着はもうほとんどなくなっている。なくなっているけれど、時折アンジュが誰かと結ばれると考えると、おかしな気分になることがある。そういうときは、大抵ルクレに頑張ってもらっている。身を焦がすほどの仄暗い感情が収まるまで、ルクレに溺れることにしていた。ルクレには決して言えないことではあるけれども。
「神子様、いかがなされましたか?」
「……え?」
「なにやら、深く悩まれておいででしたが。差し支えなければ、お聞きしてもよろしいかな?」
「……いえ、聞いていただくようなことでは」
「左様ですか。ですが、ご無理はなさらぬよう。あなたを心配する者もおられるのです。その者の顔を曇らせたくないのであれば、なおさらのこと」
「……ぁ」
ベヒモス様に言われて、視線にようやく気づけた。
ルクレの視線だった。
俺を責めているわけじゃない。
むしろ、逆だった。
俺を気遣うような目をしている。それでいて、自分を責めているような目でもある。きっと俺を完全に支えられない自分自身への憤りがあるんだろう。ルクレ自身が悪いわけじゃない。単純に俺が悪いだけ。だけど、ルクレは自分を責めてしまう。自分に力が足らないからと。彼女はそういう女性だった。
なんでもないんだ。そう口にしようとしたとき。不意に袖が引っ張られた。見ればベティが下から俺をじっと見上げていた。いや、ベティだけじゃない。その後ろにはどう反応すればいいのか迷っているプロキオンもいる。
「おとーさん、ぽんぽんいたいの?」
「ぱぱ上、無理しないで」
ベティとプロキオンが俺を気遣ってくれていた。いや、ふたりだけじゃない。ルリとイリア、そしてアンジュもまた俺を気遣っている。唯一していないのは、リヴァイアサン様くらいだろうか。
そのことに気づいたルクレがリヴァイアサン様の本体である杖を思いっきりに地面に叩きつけてから、ぐりぐりと踏みつけているけども。リヴァイアサン様が「ちょ、やめ、ぎゃー!」とか叫んでいるが、ルクレはリヴァイアサン様を一切見ることなく、俺をじっと見つめているが、誰も気にはしていない。
せいぜいベヒモス様とルリが「自業自得だ」と言うくらいだろうか。なかなかの惨状になっている気はするけれど、いままでがいままでだったから致し方がないんだろうということにした。
「神子様。あなたはあなたが思っているよりも、大切に想われているのです。ご自覚なされよ」
「……そう、みたいですね」
「そうみたいではなく、そうなのです。周囲にいる者たちのことを考えてという姿勢は素晴らしいと思いますが、時にその気遣いはその者たちを傷付ける刃と化すこともあります。「自分たちは悩みを共有させてもらえる資格がないのだ」と思えば、誰だろうと陽気でいられるわけがない」
「……それは」
「ゆえに、あまり抱え込まれないことです。もっと気楽かつ気軽に構えられればよろしい。まぁ、時と場合を考えてもらうこともありますが、ひとりで抱え込んでもいいことなどなにもないのです。誰かの手を借りる。それもまた必要なことですから」
耳の痛い話だと思った。
ベヒモス様が言うことに心当たりがありすぎる。
俺はいつも自分のことを抱え込みすぎる。
誰かの手を借りるっていうのがどうにも苦手だった。
「魔大陸」にいた頃はそうでもなかったのに、いまはもう誰かの手を借りるっていうのが苦手になってしまった。正確には手を貸して貰えるほどの相手を作るのが苦手になってしまった。また親しい誰かを目の前で喪うのが怖くなったからだ。
その原因のひとりであるプーレは奇跡的に戻ってきてくれた。でも、ほかのみんなが戻ってくる可能性はない。
唯一あるとすれば、それは──。
「……なにか?」
「いえ」
──アスランさんがもしかしたらサラさんかもしれないってことくらい。
可能性としては低いかもしれない。
だけど、どうしてもアスランさんとサラさんが重なってしまう。まだプーレが戻ってきていなかったときであれば、「ありえないか」と一蹴することだけど、プーレが戻ってきてくれたことでわずかな希望を抱いてしまっていた。……そんな奇跡が何度も起こるはずもないというのにも関わらず。
「……ふむ。神子様は我が世話役が気になる模様ですが、なにか粗相でも?」
「いえ、そういうわけではないのです。ただ、喪った人に似ているなって」
「左様ですか。まぁ、似た者は世界に数人はいるとも言いますからな」
「……そう、ですね。さすがにありえないか」
「申し訳ありませぬ。少々言葉が過ぎました」
「いえ、お気になさらずに。それよりも、私になにか話があるようですが」
「そうでしたな。では、その話をいたすとしましょうか」
アスランさんがサラさんじゃないか。
そう思っていたのだけど、間接的にベヒモス様に否定されてしまった。
ただ似ているだけだと。
神獣であるベヒモス様がそう言うのだから、アスランさんとサラさんは別人なんだろう。似ているだけの別人ということだった。
わかっていたつもりだった。
でも、それが思いのほか響いていた。
ベヒモス様が申し訳なさそうに謝罪されてしまったけれど、ベヒモス様が謝られることじゃない。悪いのは全部俺だ。かつての俺が弱すぎたせいだ。だから守れなかった。かえって守ってもらうことしかできなかった俺が全部悪いのだから。
「さて、それでは話をさせていただきましょうか。話というのはほかならぬ我自身のことなのです」
ベヒモス様は咳払いをしてから、俺への話を始めたのだった。




