rev3-Ex-2 変わらぬ答え
波が見えた。
船が進むことで生じた波。
でも、その波には潮の香りはない。
あるとすれば、あまり嗅ぎ慣れていない水草の香り。
海とは明らかに異なる水。
だけど、見た目だけで言えば、まるで海のようにも見える。岸が見えないほどに広いここは、まるで海原のよう。
けれど、ここは海原ではない。
すでに海は遠く離れてしまっている。
大河「ルダ」──いま私たちがいる場所。そしてこれから向かうベヒリアの首都「リアス」と「リヴァイアス」を繋ぐ交易路でした。
その交易路を王家所有の快速船が進んでいく。
ただ、海と川ではやはり事情が少し異なるためか、王家所有の快速船であっても、あまり速さを感じられない。
「リリアンナ」を指揮していた経験を活かしたくても、同じ水でも海と川では勝手が違うというのはわかりきっているため、口出しはしないでいます。
そもそもの話、私はこの船の長というわけでもないのだから、私が下手に口出しをすると、指揮系統が乱れてしまい、かえって船足に影響が出てしまいかねなかった。……とはいえ、相手が相手だから問題はないのでしょうが。
「いかがですかな、陛下」
不意に声を掛けられ、振り返るとそこにはこの快速船の船長がおられました。その顔を見ると回顧の念を催させてくれます。
「なんの問題もありませんよ、総帥」
「もう総帥ではありませんが?」
「では、お師匠様と」
「そうお呼びいただけるのは光栄ではありますが、ほんの数年であなたに追い越された老兵でしかありませんので、さすがにその呼び名は」
そう言って苦笑されるのは、この船の船長であり、かつてリヴァイアス軍を指揮していた総帥その人でした。
もっともすでに退役されて、いまはこの快速船の船長として、その腕を振るわれています。
軍人ではなくなっても、陸の生活よりも水の上で生きることを選ぶのは、船とともに半生を過ごしたからなのでしょう。その気持ちはなんとなくわかります。
私も城の中で執務や政を行うよりも、海上で指揮をしていると不思議と落ちつきます。好き嫌いで言えば、軍の指揮は嫌いですが、船に乗って海上を進むことは好きなのです。それも自分の指揮で行うのであればなおさらです。
「……わかりました。では、船長とお呼びします」
「はい、その呼び名でお願いいたします」
総帥もとい船長は朗らかに笑われました。
お召しになっているものは、かつての軍服ではありません。ですが、よく似た真っ白な制服でした。しかし、かつては纏われていた外套も、腰にはかれていた剣もない。なによりも顔立ちがかつてとは異なり、とても穏やかなものになっています。正直似ているだけの他人に見えてなりません。
だけど、目の前にいる人がかつての総帥であることには変わりありません。なにせ、少し前に新人のクルーらしき方を怒鳴られていましたからね。その姿はかつてのそれを想わせるには十分すぎるものでした。
「船長は、変わっておられませんね」
「七十に手が届くどうかの老輩ですぞ? そう簡単に変わりませぬ」
「そうでしたね。もうそのお歳に」
「ええ。時が経つのは早うございます。時折、こうして舳先に立っていると思い出します。かつてあなたに教導をしていた頃のことを。海原で軍を指揮していた頃のことを」
船長はすっと目を細め、かつての日々を思い出しているのか。その横顔には哀愁を感じられました。
「……いまでも軍の指揮はできるのでは?」
「いえ。もう無理でしょうな。仮に行えたとしても、陛下の足下にも及びますまい。先日のリヴァイアサン様との戦の詳細に目を通しましたが、もし私であったら、被害はもっと甚大だったでしょう。いえ、リヴァイアサン様の初撃で艦隊が全滅していたことでしょうな」
「そんなことは」
「あります。教導していた頃から度々思っていましたが、陛下には神がかっているというか、私とはまるで別のなにかを見ているように感じられることがありました。それがリヴァイアサン様相手に戦死者をひとりも出さずに耐えきるという偉業を成し遂げられた理由なのです」
船長ははっきりと告げられましたが、私には「そうだろうか」としか思えないことでした。指揮をしていたらぼんやりとですが、隙やどんな攻撃が来るのかがわかるだけなのです。それはゆらりとした影のようなもので、その影の動きに合わせて指示をする。私の指揮とはその程度のことなのですが、どうやらそれが船長やほかの将軍たちにとってはありえないもののようです。
「……教導していただいていた頃から言っていましたが、私にはただ影が見えるだけですから」
「その影が私には見えないのです。ゆえに陛下を超えるどころか、肩を並べられる指揮官などおられないのですよ。それこそ「軍神」様くらいではないと、肩を並べることはできないかと思います」
「それは言いすぎですよ」
「いいえ、私はそう確信しております」
船長が自信ありげに頷かれました。軍神。「英雄ベルセリオス」の仲間である「六聖者」のひとりで、百戦百勝を成し遂げた伝説の将軍。その伝説の方でようやくと言われても私には身に余りすぎることですが、どうにも船長は肯んじてくれません。まぁ、いつものことと言えばそうなのですが。
「私などでは軍神様の足下にも」
「いいえ、そのようなことは」
「ばぅ、いたの」
船長との話が好ましくない方向で盛りあがりそうになった頃、かわいらしい声とともに小さな足音が聞こえてきました。
振り向くと、ちょうどぽすんと私の胸の中に飛びこんでくる小さな影がありました。頭の上にある耳をぴこぴこと動かしながら、ぐりぐりと胸に頭を埋めてくるかわいらしい子。かわいい娘がいました。
「どうしました? ベティちゃん」
「おかーさんといっしょにいたくなったの」
「そうですか。じゃあ、一緒にいましょうか」
「いいの?」
ちらりと腕の中から船長を見遣るベティちゃん。船長は笑いながら頷かれました。
「構いませんぞ、ご息女。この老いぼれのことなど気になされずとも、お母上との一時を存分に楽しまれるとよろしい」
「でも、おはなししていたの」
「そうですな。ですが、この老いぼれよりもご息女が優先されるべきかと。でなければ、お母上に怒られてしまいそうですからのぅ」
喉の奥を鳴らしながら笑われる船長。別にそのくらいで怒ることはしないはずです。まぁ、ベティちゃんを優先したいと思っていることは事実ですけど。
「おかーさん、そのくらいじゃ、おこらないよ?」
「はい。存じております。ですが、母と子の一時を邪魔するというのは憚れますゆえ。あとはごゆるりとお楽しみください」
「いいの?」
「ええ、構いません。お母上にめいっぱい甘えられるとよろしい」
「わかったの。ありがとう、おじーちゃん」
「ほっほっほ、これはこれは光栄ですなぁ」
ベティちゃんの言葉に船長はとても嬉しそうでした。船長からしてみれば、ベティちゃんは孫くらいの年齢でしょう。まぁ、私も十分に孫の年齢と言えば年齢なんですが、ベティちゃんよりも孫感は少ないかもしれません。もっと言えば、遅くにできた娘と言うべきなのでしょうかね。
もっとも仮に娘扱いだったとしても、ベティちゃんと一緒だと若干見た目の年齢が合わないのですが。
「それでは陛下。私はこれで」
「はい、船長。お仕事頑張ってくださいませ」
「ええ。存分に」
一礼をして船長はゆっくりとした足取りで立ち去られて行く。その背中を見送っていると、不意に船長は振り返られると──。
「陛下」
「はい?」
「さきほど、私は変わっていないと仰っておられましたが、私からしてみれば、陛下は変わられましたよ」
「え? そう、ですか?」
変わったと言われても実感はありません。むしろ、どこがどう変わったのか。よくわからなかった。
「雰囲気がとても穏やかになられました。以前も穏やかではありましたが、どこか悲壮感のあるものだった。ですが、いまはその悲壮感はなく、まるで慈母のような穏やかさをあなたからは感じられます」
「褒めすぎです」
「それはご息女にお聞きされるとよろしいかと」
船長がベティちゃんを見つめていた。その視線につられてベティちゃんを見ると、ベティちゃんは満面の笑みで「ばぅ!」と力強く頷いてくれました。
「おかーさん、まえよりもずっとずっとやさしい匂いがするの! だから、ベティはまえよりもずっとずっとずーっとおかーさんがすきなの!」
ベティちゃんらしい、なんとも言えない褒め言葉。その言葉に「なんですか、それ」と私は苦笑いしました。ベティちゃんは「ばぅ、ダメなの?」とお耳を少し垂らしてしまい、私は慌てて「そんなことないですよ」とフォローしました。
「ばぅ! じゃあ、それでいいの」
フォローするとすぐにベティちゃんは、また私の胸に頭をぐりぐりと埋めてくれました。本当に甘えん坊さんな子です。そういうところがかわいいんですけどね。
「お幸せに、陛下」
「……ありがとうございます、船長」
短い船長の言葉に、私も短く返事をする。その短い言葉に込められた気持ちが、くすぐったくもあり嬉しかった。
その後、船長はすぐに踵を返されました。遠ざかっていく背中は以前よりも厚みはなくなっていた。けれど、以前よりも大きくなっているようにも見えた。そんな不思議な背中が見えなくなるまで眺めてから、私はベティちゃんを抱きしめたまま、正面を見つめた。
「リアス」はまだ遠い。けれど、「リヴァイアス」を出たときよりははるかに近くなっている。
この交易路のたどり着く先は終点である「リアス」だけど、そこが私のゴールではない。この交易路は私が歩く道のひとつ。まだゴールはほど遠いけれど、いつかはたどり着くそこはいったいどのような光景が待ち受けているのか、いまの私では想像もつかなかった。
「おかーさん?」
腕の中のベティちゃんが不思議そうに首を傾げている。そっと頭を撫でてあげながら、「なんでもないですよ。ただ景色がきれいだなと思ったんです」と伝えると、ベティちゃんは体の向きを変えて、舳先の正面を見遣る。見渡す限りの水と、はるか向こう側に見える緑が映えていた。
「たしかにきれいなの」
「そうですね」
「でも、おかーさんのほうがきれいなの」
「ふふふ、ありがとう、ベティちゃん」
ベティちゃんの褒め言葉に頬を綻ばし、その体をぎゅっと抱きしめると、ベティちゃんは嬉しそうに「ばぅ」と鳴いてくれた。
遠い、遠い道程だった。
その道程を超えて、ようやく私は幸せな日々を手に入れられた。
お節介焼きな従姉妹が、背中を押してくれて、窮屈な城からも一時的に抜け出すこともできた。
与えられた日々はとても短い。
だけど、人に与えられた時間ももともと短い。
その短い時間をどう過ごすのかは、その人次第。
では、私はどう過ごすのか。
おもむろに浮かび上がった問いかけ。その問いかけに私は──。
「ルクレー? どこだー?」
「おとーさんなの! おとーさん、こっちこっち! おかーさんはベティといっしょなの!」
旦那様の声にベティちゃんははしゃいでいました。
ベティちゃんの声を頼りに、旦那様がゆっくりと近付いてこられる。その足音を聞きながら、私は──。
「……私の愛する人たちとともに。それが私の答え。昔からなにも変わらない、私だけの答えです」
──昔からなにひとつ変わらない答えを口にする。
その答えにベティちゃんが「ばぅ?」と私を見上げていた。「なんでもないですよ」と覗き込むように笑うと、「へんなおかーさんなの」と笑ってくれました。
本当に些細なやり取り。でも、その些細なやり取りがなによりも心地よかった。
その心地よさを与えてくれた人の足音が近付いて、立ち止まった。同時に私は振り返りました。お顔を隠したままの旦那様がそこにはいたのです。
「ここにいたのか、ルクレ」
「はい、風に当たりたくて」
「そっか。ならいい」
旦那様はそう言って隣に立って、舳先から風を一身に浴びられていく。気持ちよそうな横顔を見つめながら、私はそっと旦那様の肩に頭を乗せました。旦那様はなにも言わずに、肩を抱いてくれた。
かつての私に、いまの私のありようを言っても信じてくれないでしょう。
愛する者。かつての私のそれは国に住まうすべての人たちでした。
いまの私も国に住まうすべての人を愛している。でも、その人たちよりも愛する人たちがいまはいる。
その人たちは腕の中とすぐ隣にいる。
その人たちのぬくもりを感じながら、私は空を見上げた。
青く澄んだ空。この空のように、これからは曇ることのない日々を過ごしていきたい。そう私は願うのでした。……遠くのわずかな曇りある空ではなく、いま頭上に広がる空のようにと。そう願いながら、私は愛する人たちのぬくもりに包まれながら、嗅ぎなれない水の香りとともにいまだ遠い「リアス」への旅路に身を置くのでした。
お忘れかもですが、ルクレはルーズサイドテールです。……言いたいことはわかりますね?←




