rev3-78 再会
体中が痛かった。
切創に始まり、火傷、打ち身など。
この体に様々な痛みが走り抜けていく。
それはいままで生きてきた日々で、ほぼ初めてと言ってもいい痛みだった。
正確に言えば、人間ごときに対して受けるのは初めてのものだった。
神代の頃であれば、まだ姉上たちと一緒に生活をしていた頃ならばまだしも、まさか神代からはるか降った現代で、こんな傷を負わされるなんて思ってもいなかった。
それも相手は人間。いや、人間と神の合いの子というべき存在。忌々しき妹であるカレンの手によってだ。
だが、カレンなど取るに足らない存在だったはずだ。
それこそ吹けば飛ぶ程度の存在で、その気になればいつでも殺せる程度の存在だった。
だが、その「いつでも殺せる存在」を殺せる気がしなかった。
それどころか、我がいまその立場になっている。
狩るはずの我が、まさか狩られる側にとなってしまっていた。
キィンと澄んだ音がした。
まるで氷が解けるような音だ。
それだけであれば、いくらでも聞いてきた。
たとえば、グラスの中の氷が溶ける際だったり、剣などの金属に我が爪を振り下ろしたときだったりと。様々な場所で聞いてきた。
だが、いまはその音がなによりも恐ろしく聞こえてならなかった。
なにせ、その音の出所が我にはまるで見えないのだから。
我にできることは、その後に続く衝撃から身を守ることのみ。左腕だけでどうにか体の前面を塞いだ。
しかし、左腕だけで塞げる面には限りがある。どうしても空いてしまう面が存在する。その面にと滑り込むようにして、カレンの剣は走った。その軌跡はまさに閃光のようで、この目では捉えることはできなかった。
捉えられたのは、カレンの持つ黒い剣が我の血で紅く染まった後、つまり奴に斬られてからだった。斬られたのは、最初に斬られた場所と同じ。×の字に斬られた胸。その片側に沿うようにして、傷をより抉るようにして胸を斬られていた。
喉の奥から血が逆流し、堪らず吐き出すのと同時に、左腕の防御が下がってしまう。そこに「待っていました」とばかりに奴は、その場でくるりと回転し、左脚での回し蹴りを放ってくる。
防ごうと思ったが、体の動きが遅かった。なぜだと思ったときにようやく気づいた。カレンの黒い剣がわずかに帯電していることに。
(まさか、我を斬ったと同時に!?)
体を斬ったときに、ついでとばかりに我が身に雷を流し込んだということだ。それもご丁寧なことに傷を抉り斬る熱で、雷の熱をごまかすようにしてくれたおかげで、雷に体が焼かれたのだというのがすぐにはわからなかった。
ただ焼かれたと言っても、そこまでのものじゃない。わずかに体をしびれさせる程度だ。そのわずかが致命的な結果を生じさせた。
「これは、いままでの王族の、あなたに食い物にされてきた人たちの分」
カレンがぼそりと呟いた。それと同時に我の胸に奴の回し蹴りが飛び込んできた。防ぐことはおろか受け止めることさえもできず、ただがら空きになった胸にその一撃が叩き込まれた。
「がっ!」
自分の口から出たとは思えない呻き声を聞きながら、わずかに後ずさりしてしまう。だが、カレンの攻撃はまだ終わってはいなかった。
「これはあなたのせいで、あなたが殺した人たちの分!」
カレンは奥歯を噛み締めながら、苛立ちを露わにした顔で、飛び上がった。まるで見えない階段でもあるかのように空中を駆け上がりながら、奴は右脚の膝を我が顔面へと向けて振り抜いた。
さきほどの回し蹴りの衝撃が抜けていなかったこと、それ以前の雷に体を焼かれたせいでまだ体のしびれも抜け切れていなかった。そのふたつが祟り、奴の膝蹴りをもろに顔面に受けてしまう。視界に一面の星空で埋め尽くされていく。
夜の海のような、真っ黒な空を照らす淡い光を放つ星々の光。その光をぼんやりと眺めていると、猛々しい炎が視界を染めた。
「これは、あんたにいいようにされてきた、ルクレの分!」
透き通った炎の剣が振り下ろされる。痛みが、様々な痛みが我の体を蝕み、決して受けてはいけない一撃を、防ぐことはおろか避けることもできずに、その一撃を我は受けた。
黒い剣で抉り斬られたように、炎の剣でもやはり同じように抉り斬られた。それも黒い剣で斬られたのとは逆側の傷を、最初に受けた×の字の傷を再び抉り斬られてしまう。そのうえ、さきほどの雷に体を焼かれたように、炎で再び体の内部が焼かれていく。
「そして、これはあんたのせいで、死んだプーレの分だ!」
体中が痛む。内部までもが痛んでいた。そこにトドメとばかりにカレンは再び飛び上がり、頭を思いっきり引いていた。そしてその引いた頭を全力で叩きつけてきた。それまでの様々な傷と痛みのせいで、体は動かなかった。
カレンの一撃をまたもやもろに受けた。加えて、カレンが飛び上がった際の勢いに押されて、そのまま我は後ろに押されて、そのまま倒れ込んでしまった。
だが、倒れ込んだのは我だけではなく、カレンもまた同じだった。ついでに攻め疲れがあったのだろうか、すぐには奴も起き上がらない。
(いまだ!)
痛む体に鞭を打ち、我はその場で立ち上がった。カレンのおかげでいくらかの距離ができたうえに、幸いなことに奴はまだ起き上がれていない。またとない好機だった。
「くらえ、蛇流砲!」
左手に渾身の魔力を込めて術を放つ。本来は両手で放つものだが、さすがに右腕を再生する余裕まではなかった。
それでも、左手だけでも奴を滅するには十分だろう。
ついでに奴の背後にいる連中も滅してやる。
後悔するがいい。そう心の中でほくそ笑みながら、蛇流砲を放とうとした。そのとき。
不意に、ルクレティアが視界に映った。
それまでもほかの連中と同じように奴の背後にいたはずだった。
なのに、なぜかいまになってルクレティアの姿が視界に入る。
いや、ルクレティアじゃない。
ルクレティアを通して、我はあの子を、リリアを見ていた。
「……リリア」
どうしてだろう。
ああ、どうしてだ?
どうしていまになって、ルクレティアとあの子を重ねてしまっているのか。
ルクレティアを散々嬲ってきたくせに、なぜいまになってリリアと重ねてしまうのだろうか。
あの儚かった子を。
どれほどまでに手ひどく扱っても、笑顔を浮かべ続けてきたリリア。
我が、僕がどれだけ罵声を浴びせようとも、どれほどに手をあげても、決して泣き顔を浮かべなかった。
いつも笑顔を浮かべていた。
笑顔を浮かべながら、いつもあの素朴な味のクッキーを持ってきてくれていた。
当時はただ気味が悪かった。
なんで僕なんか相手に、ここまで笑顔を浮かべるのかと思っていた。
わからなかった。
その理由が僕にはまるでわからなかった。
だけど、その理由を本当につい少し前に知った。
あの子は、リリアは僕とレリアーナの間に産まれた子だった。
つまりはリリアは僕の娘だった。
僕の血を引いた実の娘だった。
だからこそ、あの子は実の父である僕に対して笑顔を浮かべていた。
どれだけ手ひどく扱われようとも、いつも笑顔を浮かべてくれていた。
レイアーナは言っていた。
リリアは、レイアーナがともに暮らしていた頃のリリアは、僕のことが大好きだったのだと。
だからこそ、頑張ってくれた。
それこそ、老いさらばえて体もまともに動かせなくなっても、僕と謁見する際にはあのクッキーを、手作りだったという素朴な味のクッキーを持ってきてくれていた。
老骨に鞭を打っていたのも、すべては僕のため。変わることなき僕への想いを込めてくれていたのだ。
それを知ったとき、不覚にも涙が零れそうになった。
レイアーナの言葉が嘘だったかもしれないのに。
その場限りのでまかせかもしれなかったのに。
だけど。
だけど、どうしてか、レイアーナの言葉が真実だと思えた。
むしろ、そうでもなければ、リリアの態度の理由の意図がわからなくなってしまう。
けれど、あの子が僕の実の娘であり、すべては僕に喜んで貰うためだったとすれば、つじつまが合ってしまう。
あの子は僕のために、その人生のすべてを使ってくれた。
あの子を実の娘だとも思わずに、手ひどく扱った最低の父親なんかのために。
僕は最低な父親だ。いや、最低なのは父親だけじゃないか。
夫としても僕は最低だ。
だって最愛の妻のことにも気づけなかった。
気づかず、その身を永遠の牢獄とも言うべき肉の塊にと変えてしまった。
娘からの愛情にも、妻からの愛情にも気づけず、僕はただいたずらずに喚き、そして傷付けるだけだった。
そのうえ、娘の子孫たちにも手を掛けてきた。
僕は最低だった。
その最低な僕が、娘の子孫の最後の子にも手を掛けるのか。
そう思ったときには、蛇流砲の矛先は大きくずれていた。
あらぬ方向へと青い大蛇は駆け抜けていく。
しまった、と思ったときには、目の前にカレンがいた。
両手の剣をそれぞれに振り抜いてくるカレンがいた。
「これは、リリアさんとレリアーナさん。あんたの家族の分だ」
カレンが口にした言葉。
なぜ、それをと思ったが、プーレリアを見て、レイアーナが伝えたのだろうとわかった。
家族。
僕が得た家族。
あぁ、なら受けるしかないか。
最低な夫で、最低な父親だけど、ふたりからの叱責は受けないといけない。
たとえ、その結果死んだとしても、それまでの悪行を思えば無理もない。
(……ここまで、か)
僕は自分の死を受け入れ、そっとまぶたを閉じようとした。そのとき。
「ぼぇぇぇぇぇぇ!」
突如として大きな声が聞こえてきた。
カレンも振り抜いた腕を止めて呆然としていた。
でも、それもそのはずだ。
だって、現れたのは、ホエールだった。
僕がこの手で変えた最愛の妻の、レリアーナの変わり果てた姿だった。
「レリ、アーナ」
なぜ、ここに。
そう呟こうとしたとき、もう理性などなくなっているはずのレリアーナと目が合った。そして彼女は穏やかに笑って──。
「ようやく、会えましたね。あなた」
──あの頃と同じ声で僕に語りかけてくれたんだ。




