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rev3-76 絶望の音

 星々の光が海上を照らしていた。


 少し前まであった海上を多う炎はとうに消えている。


 同じように、海上にその身を露わにしていた大蛇の姿もない。


 けれど、その代わりのように、大蛇がいた、大蛇の顔があった場所。本来ならなにもなかったはずの虚空において、それは行われていた。


 硬質的な音が鳴り響き、烈風が吹き荒れる。


 傍で見ているだけなのに、鳴り響く音にわななき、吹き荒れる風に体が持っていかれそうになってしまう。


 そんな私を守るようにベティちゃんが、かわいい愛娘が私の盾になるように立ってくれている。情けないことに私はその小さな背に縋るようにしていないと、その場にいることはできなかった。


 ベティちゃんに縋っているのは、私だけ。


 私とベティちゃん以外にも、この場にいる人はいるけれど、その誰もがみずからの力のみで、その場にいた。


 私だけが自分の力だけではどうすることもできないでいた。


 劣等感に苛まれそうになる。


 でも、盤上はそんな私の内面を置き去りにして進んでいく。


 裂帛の気合いが響いたのだ。


 見れば、蛇のような鱗を覆ったひとりの少女が、私を嬲り続けてきたあの方が、余裕など欠片もない表情を浮かべて、ただ怒りのままに右腕を振るっていた。


 肘から先は見えなかった。


 私なんかの目では追うこともできない速度。


 危ないと思ったときには、本能的にあの人の名を叫んでいた。


 だけど、そんな私の危惧は無用でしかなかった。


 あの人は、あの方の一撃をあっさりと受け流した。


 雷を帯びた黒い剣を以て、まるで流れの中の芦のように、体勢を入れ替えるようにして受け流す。


 あの方の体勢は崩れていた。


 だけど、あの人はどういうわけか、追撃を行わなかった。


 行ったのは、その場から数歩離れること。


 なぜと思ったときには、あの人がそれまでいた場所へ鋭い氷の塊が現れた。


 それはまるで地面から生えた氷柱のようであり、あの人とあの方を隔てる壁でもあった。


 その壁を乗り越え、あの人は再びあの方に向かっていく。


 あの方も、あの人に向けて鋭く伸ばした爪を振りかぶり、再び全身がわななく音と吹き荒れる風の応酬が始まる。


 私自身、女王でありつつも大将軍としての地位を得ている。いわば、国主でありつつも軍人でもある。


 だから、一騎打ちの戦いというのはわりと見慣れていた。


 私自身が一騎打ちに挑むことはない。


 そもそも、そうなる前に戦いを終わらせる。


 私の戦いの本分は、あくまでも指揮を執ることにある。


 その指揮でも、そこまで上手いというわけじゃない。


 そこそこにできる程度で、決して伝説に聞く六聖者のひとり「軍神」様のような指揮官にはなれない。


 そんな私でも、わかるものはわかる。


 いま目の前に行われている一騎打ちは人智を凌駕しているのだ、と。


 それこそ神と神の戦いが行われているのではないかと思えるほどの戦いなのだ、と。そう思った。


 そんな人智を凌駕しきった戦いを、私は傍らで固唾を呑んで見守っている。


(私であったら)


 見守りながら思ったのは、つい先ほどの攻防だった。


 あの方の攻撃をあの人が受け流し、そのまま追撃を仕掛けなかったことだ。


 もし、あのままあの人が踏み込んでいたら、間違いなくあの氷柱に胸を貫かれていた。


 誰が見ても、あれは明確な隙だった。


 戦いというのは、より上位者になればなるほど、相手の隙を衝くことになる。それは一騎打ちにおいても、軍と軍同士の戦いでも同じこと。


 だから私はあそこが絶好の機会だと思った。誘いだとは思わなかった。


 もし、あそこにいるのが、あの方と戦っているのが私であれば、間違いなく死んでいた。


 そもそも、いまのやり取りどころか、それまでのやり取りひとつを取っても、私なんかでは対応できないものだった。


 私であれば、もうどれほどの命を奪われていたのかもわからない。


 命を奪われなかったとしても、瀕死の重傷を負わされていたはず。そのうえであの方に犯され、嬲られていただろう。


 けれど、いまあそこにいるのは私じゃない。私の良人である旦那様だった。


 旦那様は私であれば、とっくに瀕死の重傷を負わされている状況下であって、いまだに傷を負っていなかった。


 それはあの方──リヴァイアサン様も同じ。


 お互いに爪と剣、ときに拳や蹴りを以て交錯し合うも、どちらも一進一退の攻防を繰り返していた。


 ただ、お互いに浮かべる表情には差があった。


 リヴァイアサン様の表情は先ほどと同じく、一切の余裕は見受けられない。


 それも当然か。


 いまのリヴァイアサン様は弱体している。


 私と彼女の歌によって、力の大部分を封じられてしまっている。


 それでもなお、私なんかではどうあっても、背伸びをしても勝ち目などないほどの強さを誇っておられている。


 そんなリヴァイアサン様と旦那様は互角に切り結んでいる。


 いや、表情だけを見れば、旦那様が優勢なのかもしれない。


 なにせ、旦那様のお顔はとても涼しげだった。


 普段お顔を隠している仮面は外され、素顔を露わにされている。


 非常に整った、まるで天上の美とも言うべきお顔には、一切の曇りはないし、汗ひとつとて搔かれてはいない。


 私の目には旦那様がいずれ押し切られるだろうという風に映っていた。


「……まずいのです」


 しかし、そんな私の予想を嘲笑うように彼女は──死んだはずのプーレリアは言う。


 だが、その言葉は見当違いも甚だしい。


 いったいどこを見れば、まずいというのかが私にはわからない。


「なにを言って」


「簡単なことなのですよ、ルクレちゃん」


「る、ルクレちゃん?」


 おバカなことを言い出したプーレリアに一言言ってやろうとしたのだけど、かえって黙らされてしまった。


 なにせ、私のことを「ちゃん付け」で呼んだのだ。


 いままでの人生で私を「ルクレちゃん」と呼ぶような人はいなかった。……あくまでも人族という括りにおいては。魔族にまで括りを広げれば、例外はいた。


 だけど、彼女はその例外ではない。


 むしろ、彼女はその血筋を辿れば、私と同じ王族の一員だ。


 あくまでも血筋を辿ればであり、王族と言っても遠縁の中の遠縁。もはや他人同然と言ってもいいくらいに、血の繋がりなどほぼ皆無と言っていい相手。


 そんな子が私を「ルクレちゃん」と呼んだのだ。


 もし臣下が聞けば、「無礼者」と叫びかねない所業。


 けれど、いまの彼女は私と同じ「水の巫女」だ。


 同じ「水の巫女」という括りにすれば、彼女は私と同じ地位にいると言ってもいい。


 だからこそ、呼び捨ては問題なかった。


 ただ、まさか「ルクレちゃん」なんて友人を呼ぶような言い方をされるなんて思ってもいなかったので、どう反応するべきなのかわからなくなってしまう。


 そんな私の動揺を悟っているのか、はたまた無視しているのかは定かではないが、プーレリアは続ける。


「決定打がないのです」


「決定打?」


 オウム返しをすると、プーレリアは頷いた。


「いまの状況ははっきりと言って長く続きません。このままだと旦那様は負けてしまうのですよ」


 プーレリアはとんでもないことを言ってくれた。


 旦那様が負けると彼女は言う。


 どう考えても優勢な旦那様が負けると宣ったのだ。


 いったいなにを見て、どう考えれば、そうなるのだろうか。


 誰がどう見ても、いずれ旦那様が押し切られるのは明白だった。


 でも、そんなプーレリアの呆れる一言に、ベティちゃんはおろか、二の姫君もそして本来のお姿となられたらしいルリ様もなにも反論されなかった。


「いったい、どういうことですか? だって旦那様は優勢で」


「……あれは見せかけ、いえ、いまだからこそそう見えるだけですよ、陛下」


 二の姫君はプーレリアの言葉を受け継いだかのように言う。


 私はもう一度「どういうことですか」と尋ねた。


 彼女は苦々しげに顔を歪めると言った。


「いまのレン様はリヴァイアサン様と互角のように見えます。それどころか、リヴァイアサン様の表情との差異を見れば、レン様が優勢だと見えることでしょう」


「実際に、優勢ではないのですか?」


「……たしかに現時点では、です。ですが、その均衡は長引けば長引くほど崩れていきます」


「なぜ、です?」


 意味がわからなかった。


 現時点では均衡を保っているのに、それも旦那様が優勢な形での均衡を保っているのであれば、いずれ押し切れるはず。そう言う意味では均衡が崩れるというのはわかる。


 けれど、二の姫君の言い方では、均衡の崩れ方は私の予想している通りではなく、旦那様が劣勢になるという風に聞こえてしまう。


 どうしてそうなるのか。まるでわからなかった。


「……陛下は指揮をしていないと、戦いがわからないのですね」


「それは侮蔑ですか、二の姫君?」


 私の疑問に二の姫君はそう返した。その言葉はどう好意的に捉えても侮蔑のものとしか感じられなかった。


「いえ、そういうわけではありません。ただ、あれほどの見事な指揮をされる方なのに、こと一騎打ちにおいては目が曇られてしまうのだなぁと思ったのです」


「目が曇る?」


 いったいなんのことを言っているのやら。私の疑問への返答は、二の姫君からではなく、予想外のところから返ってきた。


「おかーさんは、おとーさんのことがだいすきすぎるからわからなくなっているの」


 そう、私の疑問への返事はベティちゃんがした。


 ベティちゃんからの思わぬ一言に私は困惑してしまう。


「あのね、おかーさん。いまのしんじゅーさまは、ほんとうのしんじゅーさまじゃないの」


「本当のリヴァイアサン様じゃない?」


 本当もなにもあそこにいるのは、リヴァイアサン様ご本人だ。そのことを私はこの場にいる誰よりも、骨身にしみて知っている。だからいま目の前にいるのがリヴァイアサン様じゃないと言われても余計に疑問符が浮かぶだけだった。


「……その言い方だと余計にわからなくなるぞ、ベティ。よいかの、女王殿。いま、あそこにいる七の、リヴァイアサンは本来の力を発揮できなくなっておる。その理由はそなたが、そなたとプーレリアがよくわかっておろう?」


 ベティちゃんの言葉にルリ様が若干呆れながらも、ベティちゃんの代わりをしてくださった。その言葉でようやく彼女たちの言っていた内容を理解できた。まさに絶望的な状況を、だ。


「……そういうこと、ですか」


「うむ。わかったようだの。いまのリヴァイアサンは力を封じられ、レンと互角にまでなっている。だが、それはいつまでも続くわけではない。アレのことだ。レンとやり合いながら、封じられた力を解放しようとしている。ゆえに長引けば長引くほどレンにとって不利な状況となってしまう」


 そう、リヴァイアサン様であれば、封じられた力を解放しようと躍起になることだろう。それも旦那様と戦いながらだ。つまりリヴァイアサン様はいまマルチタスクを行いながら旦那様と戦っている。


 そもそもの前提が異なっていた。


 しかもリヴァイアサン様であれば、そう遠からず封印を解除することだってできる。たしかに長引くほどに旦那様が不利になるというのもわかる。


「で、ですが、また封印すれば」


「……一度解除したものがあやつに通じることはない。ゆえにアレが封印を解除するまでにレンは決着させなばならん。しかし、そのための決定打がいまのところないのだ。ゆえに、このままではレンは勝てん」


 ルリ様がはっきりと告げられた。


 その言葉を皮切りにしたように、リヴァイアサン様の一撃がいままでよりも速く重たそうな一撃が旦那様に振るわれた。旦那様はその一撃を受け流すことができず、その身を大きく後退させられてしまう。


 その姿を見てリヴァイアサン様がにやりと口元を歪めた。


「潮合いが満ちたなぁ、カレン?」


 余裕のある一言を告げるリヴァイアサン様に対して、旦那様は剣を斜めに構えられた。旦那様の口から発せられる言葉はなかった。


「先ほども言ったが、おまえは中途半端だ。自分よりも弱い奴にしか勝てん。だからおまえは僕に勝てないんだ」


 リヴァイアサン様の一言に、旦那様は答えなかった。答えずにいままで同様にリヴァイアサン様にと斬りかかっていく。


 でも、斬りかかりはしたが、それまでのような互角の打ち合いにはならなかった。リヴァイアサン様はただ羽虫を払うような仕草で旦那様の剣を受け止める。旦那様の表情が露骨に歪んでいく。


「……まずい。完全に解除しきれておらぬが、解除が始まっている。あのままでは」


 ルリ様の言葉を証明するように、それまでの一進一退の攻防は崩れた。リヴァイアサン様が一方的に攻撃を仕掛けていく。旦那様から攻撃を仕掛けることはなくなっていった。


「そらそら、どうした? 守っているだけじゃ僕には勝てないぞ?」


 あははは、と哄笑が響く。


 その最中でも旦那様の表情は変わらない。


 だが、わずかに眉間に汗の珠が浮かび上がっているのが見える。


「旦那様」


 私は祈ることしかできない。


 でも、祈りも空しく、旦那様は少しずつ手傷を負っていく。


 致命傷はない。いや、致命傷を与えないようにリヴァイアサン様が加減されていた。


 このままだと。


 そう思ったとき、リヴァイアサン様はひときわ大きく笑った。


「そろそろ飽いたなぁ。では、さよならだ、カレン!」


 リヴァイアサン様の姿が消える。


 旦那様の目が大きく見開かれた。それと同時にリヴァイアサン様は旦那様の背後に立っていた。


 旦那様が気づいたときには、リヴァイアサン様はその鋭い爪を振り抜かれていた。


「旦那様っ!」


 私は堪らず叫んでいた。


 でも、その叫びに旦那様からの返事はなく、ただ肉を裂く音が代わりにこだました。

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