rev3-73 最後のプレゼント
そこはとても冷たいところでした。
冬の日に真水に触れているみたいに。
それこそ体の芯からあっさり熱を奪い取っていく冬の水のように。
その冷たさが私の体を覆い尽くしていた。
リヴァイアサン様にすべてを捧げてからどれほどの時間が経ったのでしょうか。
あの日、あのとき、旦那様にお別れを告げてから、リヴァイアサン様に命を捧げてからどれだけの時間が経ったのでしょう。
私は私自身の終わりを受け入れていた。
私自身が終われば、私という存在もいなくなるはずだった。
でも、その後はすべての命は母神様の元へと旅立ち、癒やしを受けてから新しい命を与えられる。それが私の知る死後の世界というもの。
だけど、実際は違うのです。
この世界には神様はいる。
神様はいるけれど、その方は世界中に語られる母神様という存在ではありません。この世界にいる神様はかつての母神様だけど、実態はもう邪神とも言うべき存在になり果ててしまっているのです。
その邪神の目的は、母神様との再会を果たすことと、おふたりのお母様である創造神様に会うことでした。
でも、この世界の神話では母神様こそが創造主であり、母神様以外の神様はいないはずでした。
だけど、実際は違っている。現在の邪神、かつての母神様は創造神様にこの世界を任されたのです。
その成り立ちをすべて私は知っている。
リヴァイアサン様を通して、その真実を知ったのです。
でも、それを知ったのはリヴァイアサン様に命を捧げてからであり、リヴァイアサン様にこの体を乗っ取られたときからなのです。
それまではかつての母神様が邪神となり、そして旦那様のお母様が母神様だということしか知りませんでした。
……まぁ、それだけでも十分すぎるほどに禁忌なのですが。
だけど、リヴァイアサン様を通して知ったのは、それ以上の禁忌だったのです。
この世界における最大の禁忌を死後に私は知ることになったのです。
本来なら知るはずのないことでしたが、それを知ったのは私自身の意識がまだこの体に残っていたからなのです。
私の意識が残っていたことをリヴァイアサン様さえ、私と同化したあの方でさえも知らないことだったのです。
どうして私の意識が残っていたのかは私にはわかりません。
たぶん、知っている人なんていないでしょう。
ただ、意識が残っていたから私は、私が死んでからのことをすべて知っているのです。
リヴァイアサン様が、私の体を乗っ取り、海王と名乗り、リヴァイアクスを支配したこと。
本来のリヴァイアクス王であるルクレティア陛下──私の遠縁の親戚である彼女に乱暴を働いていたこと。
ルクレティア陛下……言いづらいのでルクレちゃんでいいか、ルクレちゃんに指示を出して旦那様と関係を持たせたこと。
カルディアさんの妹のアンジュさんを利用して、私に私のご先祖様を宿らせようとしていたこと。
そしてそれが失敗したこと。正確には私の遺体にご先祖様を宿らせることはできたけれど、そのご先祖様はリヴァイアサン様が求めていたレリアーナ様じゃなく、その妹のレイアーナ様だったということ。
そのうえ、かつて冷遇していた、いまの王族の元になった、ルクレちゃんにとっては大昔のおばあさんにあたるリリア様が、ご自分の娘であったことを知り、リヴァイアサン様は絶望し、暴走を始めた。
それらのことを私は知っている。
意識が残っていたからこそ知っているのです。
それはいまも同じなのです。
旦那様は苦悩されていました。
レイアーナ様の言葉に、レイアーナ様から伝えられた「巫女の継承」のシステムに悩み苦しんでいました。
「水の巫女」の片割れである私を蘇らせるための「再誕」を使用することに、誰かの命を用いて私にかりそめの命を与えることに。
旦那様は苦悩していたのです。
旦那様はすっかりと雰囲気が変わってしまっていました。
私が生きていた頃は、春の日だまりのような人だったのに、いまは冬の嵐のような、とても冷たい目をしているのです。
シリウスちゃんから貰った紅い右目には、もうかつての旦那様のような温かみは感じられなかったのです。
旦那様は変わってしまったのだと思いました。
でも、違っていました。
いまの姿はあの頃となにも変わりません。
あの頃も時折こうして苦悩されていたのです。
たとえば、命を奪った夜、眠ることなく一晩中起きていたように。
たとえば、命を奪ったことを思い出して、そのまま眠ることができなくなったように。
表情に出すことも、言葉として発することもないけれど、旦那様は苦しんでいたのです。目には見えない涙を流しながら、ひとり苦しんでいたのです。
それはいまも同じなのです。
だからわかりました。
旦那様はなにも変わってなんかいないのだと。
ただ、これ以上傷つかないように、何重にも殻を被ってしまっているだけなんだと。
それもすべては私たちがいなくなってしまったから。
旦那様がすべてを失ってしまったからなのです。
その失ったもののひとつである私を、たった一年間だけ、蘇らせる。それも誰かの命と引き換えにです。
旦那様が苦悩してしまうのも無理もないことでした。
不謹慎ではあるけれど、その姿を見られて嬉しくもありました。
だって、それだけ旦那様は私を大切に想ってくださっているのです。
私への気持ちが残っていなかったら、本当に変わってしまっていたら、きっと私を蘇らせることに躊躇はしなかったはずです。
レイアーナ様の言葉を聞く限り、水の巫女の力を、いままで二分化していた力をひとつに纏めるにはこれ以上とないほどの好機なのです。
私とルクレちゃんに子供を産ませ、その子供同士で子供を作れば、二分化していた力がひとつに戻るのです。
私を蘇らせれば、それが可能となる。
人道という意味合いでは非道と言えることでしょう。
けれど、王という超越者にとって見れば、これほどの好機を見逃すなどありえないのです。
それはルクレちゃんの夫として、王配となられる旦那様だって同じなのです。
リヴァイアクスの国益を考えれば、私を蘇らせるべきでした。
それは旦那様が一番わかっているはず。
だというのに、旦那様は揺れ動いていたのです。
悩み苦しんでいました。
もうとっくに死んでしまった私への想いをいまなお抱いてくれているからこそ。
その姿を見て、不謹慎だけど嬉しいと思いました。
同じくらいに「もう気にしないでいいのです」とも思いました。
私の人生はもう終わっているのです。
私は私の人生に満足しています。
その私に誰かの命と引き換えに、もう一年だけ新しい日々を得られる。
これ以上の幸せなどありません。
犠牲になる誰かには申し訳ないけれど、それでもまた旦那様とわずかながらの日々を歩めるのであれば、私はそれで満足なのです。
だから決断してもいい。
そう思っていました。
だけど、私には自分の体を動かす力はなかった。
ただ意識が残っているだけ。
それだけでは自分の意思を旦那様にも、レイアーナ様にも伝えることはできなかった。
どうすればいいんだろうと思っていると、不意に声が聞こえたのです。
「……いい人に出会えましたね、あなたは。だからこそ、背中を押さねばなりませんが、あの子にそれができるかしら」
その声はどこからともなく聞こえてきた。
いったいどこからと思っているうちに、レイアーナ様は旦那様を通り越して通路の影に隠れていた誰かに声を掛けられました。
その誰かは恐る恐ると通路の影から顔を出しましたが、その姿を見て私は驚きました。
そこにいたのはシリウスちゃんそっくりな人だったのです。本来の姿のシリウスちゃんそっくりな人が現れて私は驚いてしまいましたが、驚いたのは私だけではなかったのです。
でも、私と旦那様たちの驚きは違っていました。私はシリウスちゃんそっくりであることに対してですが、旦那様たちはその人が現れたことに対して。それぞれに驚いていたのです。
そうして現れたその人を旦那様は「プロキオン」と呼んでいました。シリウスちゃんではないようですが、見れば見るほどその人はシリウスちゃんと似ていたのです。
でも、わずかに違っているところはありました。髪の毛や毛並みがシリウスちゃんと比べると、くすんでいるし、口元だってなぜか隠しているし、雰囲気も違っていた。
でも、その人は自分のことを「シリウス」だと言うのです。その返答に私は困惑しましたが、そんな私の困惑に答えるようにまた声が聞こえたのです。
「……おそらくはそのシリウスちゃんを元にしたホムンクルスですね。それも製作時に失敗しているのか、もしくは故意なのかはわかりませんが、アンデット化していますね。あれではあと一年も生きられるかどうかというところでしょう。……そのうえ、迫害されてもいるのでしょうね、服で隠れている分は傷だらけですね。残酷なものです」
声の主の言葉に、私は言葉を失いました。
情報量が多すぎるということもありますが、あまりにも哀れだったのです。シリウスちゃんそっくりなあの人、いえ、あの子は生み出した相手から迫害を受けていた。あの子自身の言葉を聞く限り、その相手が誰なのかはわかりました。
あの人はシリウスちゃんを溺愛していました。でも、そのシリウスちゃんからはやっかみを受けていた。それでも、あの人はシリウスちゃんを溺愛し、そのシリウスちゃんを失ったがゆえに、代理としてあの子を生み出したのでしょう。
でも、あの子はあの人にとってのシリウスちゃんの代理にはならなかった。それがゆえの迫害。私が知っているあの人なら、アルトリアさんならたしかにそれくらいのことはしてしまうかもしれません。
アルトリアさんは悲しいほどに狂ってしまっていましたから。そんなあの人にしてみれば、シリウスちゃんを元にしているのに、シリウスちゃんとは違う存在になってしまったら、迫害をするのは目に見えているのです。
その証拠にあの子は、泣きながら「ママにあいしているといってほしい」と言いました。「ほめてほしい」とも言ったのです。
逆に言えば、あの子にとって「まま上」はあの子を愛していると言うこともなく、褒めることもしていないということ。あの子にしていることは、ただあの子を傷付けることだけなのでしょう。かつてアイリスさんにしていたように、です。
そんなあの子の、プロキオンちゃんの姿を見ていたら、もう居ても立ってもいられなかった。すぐに抱きしめてあげたかった。いっぱい頑張ったね、偉かったよ、って言ってあげたかった。あの子の心を癒やしてあげたかった。
でも、私の体は動かない。
動いてくれなかった。
私にできるのはただ──。
「……ようやく悲観的ではなく、みずからの意思で生きようとしてくれましたね、プーレリア。あとはあなたの旦那様だけですが、ふふふ、そちらも問題ないようですね。まったく手のかかる夫婦の相手をするのは面倒ですねぇ。かつては姉夫婦のためでしたが、いまは遠い遠い孫娘のためなんて、私は本当に苦労人ですよ」
──ただ指を咥えて見ているだけ、そう思っていたら、また声が聞こえました。ですが、その一言でこの声が誰のものなのかがわかりました。そして同時に「もしかして」とも思ったのです。私の意識が残っていたのも、もしかして──。
「あなたにはまだわからないでしょうけど、孫というのはとても愛おしいのですよ? 自分が産んだ子供の子というのは、かけがえもない存在として見えて仕方がないのです。たとえどれほど遠く離れた子であっても、はるか遠い未来に産まれた子であっても、あなたもまた私の孫娘には変わりありません。その孫娘のためにできうる限りのことをするのが、私のようなおばあちゃんのするべきことですもの」
──もしかして、そう思っていた答えは現実のものだったのです。その答えに私はなんて返事をすればいいのかわからなくなっていた。そんな私に声の主、レイアーナ様は続けられたのです。
「さぁ、遠い遠い孫娘のために、遠い遠いおばあちゃんからの最後のプレゼントですよ」
レイアーナ様が告げられると同時に、旦那様は答えを出されました。かりそめの命でもいい、と。傷つききったプロキオンちゃんのために、プロキオンちゃんを愛するためだけに私を蘇らせて欲しいとレイアーナ様に告げられたのです。
とても傲慢な答えでした。
誰かの命と引き換えにかりそめの命を与える理由が、迫害されてきた子を、シリウスちゃんを元に造り出されたプロキオンちゃんを助けるため。あの子の心を癒やしてあげるため。
大多数の命を助けるためでもなく、大国の益となるためでもなく、あずかり知らぬところで生まれ落ちた哀れな子を、シリウスちゃんの代理品として生み出されたことを愛するためになんて。
正直言ってどうかしていると思います。
もっと言えば、おバカさんすぎるのです。
親バカなのもいい加減にしろと言いたいのです。
付き合うこっちの身にもなってほしいものなのですよ。
「でも、それがあなたの旦那様なんでしょう? 神子という立場だからこそなのかしらね、その視点は常人には理解不能でしょう。でも、その心はあまりにも人でありすぎるのね。ふふふ、あなたにお似合いな旦那様じゃない。姉様の遠い遠い孫娘にとってもお似合いな人だけど、その辺りは頑張りなさいね? 相手は女王様だからといって負けちゃダメよ? あの人にとっての一番の女になってきなさい。気張りなさいね、プーレ」
「……はいなのです、レイアーナおばあちゃん」
「ふふふ、やっと言って貰えた。嬉しいなぁ。じゃあ、本当にこれが正真正銘の最後のプレゼント、受け取ってね、プーレ」
レイアーナ様、いえ、レイアーナおばあちゃんの最後のプレゼント。それは禁じられた詞。自身の命と引き換えに、他者を蘇らせる禁術、すなわち──。
「炎よ、風よ、そして空よ。我は歌う。我は告げる。我は渡す。たとえこの命を燃やし尽くそうとも。たとえこの命が一瞬の後に消え尽きようとも。我が愛おしき者、その命を再び灯さん。大いなる炎神よ、このわななきを、この叫びを、この意思を聞け──再誕」
──究極治療魔法のひとつである「再誕」でした。
その言の葉を紡ぎきったあと、レイアーナおばあちゃんの声は聞こえなくなった。
その代わりに私は自分の体に力を込められるようになった。
肌に風を感じる。
体に熱が灯されていく。
そしてなによりも──。
「……プーレ、なのか?」
──最愛の人とまた触れ合える。
それが堪らなく嬉しかったのです。でもいまはそんなことをしている場合じゃない。
「……お久しぶりなのです、旦那様。でも、いまは再会のあいさつよりも、大事なことがあるのです。行きましょう。ルクレちゃんを助けに」
私の言葉に旦那様は表情をくしゃくしゃに歪めながらも「あぁ」と頷かれたのでした。
前々回、レイズデッドを「大蘇生」にしていましたが、正しくは「再誕」でした。つまるところ間違えていました。失礼しました←汗




