rev3-65 嵐の向こう側
いまはいつだろうか。
頭の中はひどくぼんやりとしている。
なにもかもが曖昧だった。
時間も、場所も、そして自分自身でさえも。
すべてが曖昧になっていた。
それでいて、なにもかもがどうでもよく感じられた。
肌に触れる風も、耳朶を打つ水も、それらをすべて感じる自分自身でさえも。
やはりどうでもいい。
どうでもいいのだ。
なにかもがどうでもいい。
目に映るすべてがどうでもいい。
それらすべてがどうなろうと知ったものか。
そんなものよりも大切なものが我にはあるのだから。
『──ご機嫌麗しゅう存じます。リヴァイアサン様』
頭の中に響くのは、幻聴だった。
だが、ただの幻聴ではない。
この世界でたしかに存在していたものの、すでに命尽きた者のかつての声だ。
その者の名はリリア。
現在のリヴァイアクス王家の元となった女王。
もともと彼女は王族だったが、主流派ではなく、傍流中の傍流だった。どうにか王族を名乗れる程度でしかなく、そのうえ確たる後ろ盾もなければ、親もいない。そんな娘だった。
当時の我にとっては、忌々しい小娘でしかなかった。
それでも彼女はなぜか定期的に我の元に訪れていた。
いつも素朴な味のクッキーを手土産に訪れていた。
その手土産を持参するというのは、彼女の晩年まで、体が不自由になっても続いた。
いつも手土産と称しておいていくくせに、なぜかいつも緊張した面持ちだった。
どうして緊張しているのかは、当時の我には我にはまるで理解できないことだった。
理解できないまま、彼女の手土産を受け取っていた。
いま思えば、それが彼女との唯一の繋がりだった。
その唯一の繋がりは、素朴な味ではあるものの、まずいわけではなかった。
とはいえ、手放しで「美味い」と褒められるようなものでもない。
好物にはならなくても、口慰みであれば食べる程度のものでしかなかった。
だが、それでもどうしてか時折無性に食べたくなるようなものでもあった。
いま思えば、たぶん、我はあのクッキーが好きだったのかもしれない。
いや、好きだったのだろう。
だが、それを口にするどころか、自分でさえも気づいていなかった。
ただ、当のリリアは気づいていたのだろう。
謁見が終わるたびに、「前回の手土産はいかがでしたか?」と尋ねていた。
手土産の味を尋ねるとき、彼女はいつも同じ顔をしていた。
いつも、緊張と不安、そして期待が入り混じった顔で我を見つめていた。そのときだけは、彼女は粛々とした表情ではなく、ありのままの彼女としてそこにいた。それは初めて会った頃から老いさらばえた晩年までなんら変わることはなかった。
どうしてそんな顔をするのか。
やはり我にはわからなかった。
彼女も真相を話すこともないまま、息を引き取った。
彼女が亡くなってから、あの素朴な味のクッキーは一度も口にしていない。
彼女がどこであのクッキーを調達していたのかもわからない。
かといって、方々に手を尽くすほどのものでもない。
口慰みにちょうどいい程度のものに、そこまで尽力するのも馬鹿げていた。
だから、あえて彼女が調達していたであろう菓子屋を探すことはしなかった。
そうしているうちに気づけば、彼女が没して千年近い時間が流れてしまった。
さすがに千年も続くような菓子屋などあるわけもない。
廃れていると考えるのが妥当だった。
もう二度とあの味を口にすることは叶わない。
それがなぜか無性に物悲しく感じられた。
だが、その理由はついぞわからなかった。
そう、ほんの少し前までは。
『リリアは、姉が産んだあなたの娘です』
プーレリアの体に宿した彼女の祖先──レイアーナが言うには、リリアは我とレリアーナの間に産まれた娘だった、そうだ。
いまでも信じることはできない。
だが、その言葉で腑に落ちたこともあった。
リリアは定期的に、我の元に参じたのだ。
どんなに邪険に扱おうとも、時には罵声を浴びせようとも、リリアだけは我の元に参じた。
ほかの王族たちは理由を付けては参じないことなどざらにあったというのに、彼女だけはみずから「大蛇殿」まで足を運んでいた。
王位継承者など夢のまた夢という状況だった幼子の頃から大量の執務をこなさねばならない女王となってからも。一度たりとも彼女は我の元に姿を見せなかったことはなかったのだ。
どうしてだろうと当時は思ったが、ついにその理由を尋ねることはなかった。
だが、レイアーナの言葉を事実だと仮定すれば、その理由がわかる。
彼女は神獣に謁見しに来ていたのではなかったのだ。
彼女は、リリアはただ父に会いに来ていただけだったのだ。
たとえ、邪険に扱われようとも。
たとえ、罵声を浴びせられようとも。
唯一の肉親だった我に会いに来ていたのだ。
みずから手作りした土産を持って、だ。
そう、あのクッキーは菓子屋で調達したものではなかった。
リリアが我のために作ってくれたものだった。
レイアーナが口にした事実に、我は愕然となった。
口慰みにちょうどいいとしか思っていなかったものが、娘が想いを込めて作ってくれていたものだった。
あの子は邪険にしか扱わない我を。
罵声を浴びさせてばかりの我を。
父として愛してくれていた。
なにせレイアーナは言ったのだ。
リリアは我を愛していたのだと。
大好きなお父様のためだったからだと、そうレイアーナは言っていた。
そう伝えられたとき、脳裏に蘇ったのは、リリアとの短くない日々のこと。
あの子は常に笑顔を浮かべていた。
どんなときでも穏やかに笑っていた。
一度たりとも辛そうな顔や泣き顔を見せたことはない。
どんなときでも笑顔だったのだ。
その笑顔に我の胸は、いま張り裂けんばかりになっていた。
「……辛かったろうに。悲しかったろうに。それでもなぜそなたは笑顔だったのだ?」
リリアの笑顔。
その笑顔に胸が痛くなる。
張り裂けんばかりの痛みに襲われてしまう。
目頭がひどく熱い。
どうしてこんなにも熱いのか。我にはわからない。
「教えてくれ、リリア。そなたはなぜいつも」
込み上がる想いに対する答えは、我の中にはない。
あるのはただどうしようもない悲しみだけ。
その悲しみの根源はわかるのに、その悲しみをどうすればいいのかがわからない。
「……我が人であればわかったのだろうか?」
もし、真っ当な人であれば、この目頭の熱さの理由も、この悲しみをどうすればいいのかもわかったのだろうか?
たらればなど意味はない。
そう思っても、一度抱いたものをなかったことにすることはできない。
できないまま、ただどうしようもない悲しみに晒されていた、そんなとき。
風を裂く音が聞こえた。
纏っていた水の防壁になにかが衝突する。
それも一度だけではなく、何度も続けてだった。
どうでもいいものではあるが、煩わしくはあった。
防壁越しに音の聞こえた方へと顔を向けると、そこには数十隻からなる艦隊があった。
「……あれは、ルクレティア、か?」
艦隊の中央にある旗艦には、ルクレティアの姿があった。
ルクレティアは次々に指示を飛ばしているようだった。
その指示から数拍を置いて、また音が聞こえる。
音の正体はどうやら砲弾のようだった。
つまりはルクレティアが我に戦いを挑んでいるということ。
(正気の沙汰とは思えんな)
自分が寵愛を受けているとでも思ったのだろうか?
たとえ寵愛を授けていたとしても、弓引くのであれば、敵対者でしかない。
そんな敵対者相手に我が手心を加えるとでも思ったのだろうか。
どちらにしろ、甘く見られたものだった。
「……目障りだ」
我に敵対する愚を呪わせるべく、加減はしなかった。
加減はしないといっても、せいぜい「流」の力程度で抑えた。「水」の上位であるのは事実だが、せいぜい中位程度の力。その中位程度で人で扱える力にしては破格の力だった。その「流」の力で為した大蛇を以て、目障りな虫けらを断罪しよう。
「ゆけ、流水大蛇」
防壁の向こう側へと何匹ものの水の体の大蛇を召喚した。大蛇たちはとぐろを巻きつつも、自身が定めた獲物へとまっすぐに飛来する。
これであとは時間の問題だ。
瞬く間に艦隊は全滅する。
どうせならば、ルクレティア以外はすべて殺し尽くすのものいい。
みずからの行いを後悔させながら、自身が指揮した兵たちの亡骸の前で嬲ってやろうか。
たとえ、あれがリリアの子孫であったとしても、敵対するのであれば容赦はせぬ。
「……リリアの、子孫」
あえて考えようとしなかった事実が、顔を覗かせた。
そのせいでわずかに、そう、わずかに流水大蛇の動きが鈍った。
だが、鈍ったとしても、すでに大蛇どもは獲物を求めてルクレティアの艦隊に迫っている。
その牙がルクレティアの兵どもを食い散らかすまで、さほど時間は掛からない。
(……相手が悪かったと思うがよい)
ただそれだけを考えて目を閉じた。じきに聞こえてくるであろう幾重もの断末魔が聞こえてこないことを祈りながら。
実際に断末魔は聞こえてはこなかった。代わりに聞こえてきたのは、砲弾の雨の音だった。
「なに!?」
思いもしなかった音に、まぶたを広げると、そこには無傷の艦隊から無数の砲弾が飛び交う光景が広がっていた。しかも、あろうことか流水大蛇はすでに掻き消えている。
「……バカな」
なにがあったというのか。
わからないまま砲弾の嵐は防壁に食らいついていた。
その嵐の向こう側に、嵐を放つ中心に立つ、鋭い目つきで我を見据えるルクレティアが印象的だった。
「いったい、なにがあった?」
なにもわからないまま、我はただ嵐に身を晒されていた。




