rev3-64 嫌いだけど得意とするもの
──数時間後。
「ルクレティア陛下。どうやら避難はだいたい終わったようですよ」
三の姫君からの報告が上がった。
本来ならまだ活気の残る時間帯であるリヴァイアス。
その街中はいまはすっかりと人気を失っているようだ。
「……承知しました。ご苦労様です、三の姫君」
「いえいえ、このくらいは」
三の姫君に礼を告げると、恭しく頭を垂れてきた。
言動だけを見れば、恭順しているように見える。
だけど、その腹の中がどうなっているのかまではわからない。
人の心の中など、空模様同然だ。
その時々で移り変わってしまう。
ちょうどいまの空のようにだ。
会議中、空の色は緋色だった。
でもいまは真っ暗な空へと移り変わっていた。
眩い星々が照らす真っ黒な空。
三の姫君が時折見せる笑顔を見る限り、三の姫君の心の中は星々のないこの空と同じ色をしているのだろう。……私も人のことは言えないのだろうけれど。
「後はお手並み拝見、でよろしいのですよね?」
「ええ。この国は私の国ですから」
「たしかにその通りですね。では、後はお任せいたします。私の出番がないことをお祈りしますよ」
背後からは、なんとも挑発的な物言いが聞こえてくるものの、その言葉をあえて無視するようにして、私は甲板の舳先から踵を返した。振り返った先には私たちがいる旗艦の乗組員のほぼすべてが揃っていた。その向こう側には、この旗艦を中心とした船団がいる。その船団の乗組員の顔まではわからない。
だが、その顔に不安の色はない。現に目の前にいる面々の顔には不安がないのだから、おそらくは向こう側の船団の乗組員たちの顔も同じようなものになっているはずだった。
(……こうして指揮をするのは、やはりあまり好きではありませんね)
私としては、戦の指揮をするのは好きじゃなかった。むしろ、嫌いと言ってもいい。
リヴァイアクス王は、代々リヴァイアクス軍において大将軍の地位を得る。だいたいはお飾りの地位であり、実質の軍のトップはその時々の総帥となる、のだけど、なぜか私の代はお飾りの地位であった大将軍が名実ともに軍のトップとなってしまっている。つまりは私がリヴァイアクス軍のトップだった。
正直「なんで?」と思わなくもない。
本来のトップであった総帥は、何年か前の模擬戦で私がたまたま勝ってしまったことを契機に退役してしまった。その際に総帥はなぜか「陛下がおららればなんの問題もない」と宣ったことで、私に軍の指揮権をすべて譲渡するという意味のわからないことをしてくれた。
当時から思っていたことだけど、「なんで?」としか私には思えない。
あの模擬戦は本当に偶然の賜でしかない。たまたま総帥の指揮する部隊に隙が見えたから、その隙を衝いたというだけ。当時は「誘いかな?」と思ったのだけど、軍指揮なんて面倒なことを早々に終わらせたかったから、その誘いにあえて乗ったら、トントン拍子で話が進んでしまったというのが事の顛末。
なのに、なぜか総帥は私に軍才があると思い込み、次期総帥の指名どころか、事実上軍をすべて私に預けるという、とんでもない珍事をやらかして退役してくれた。
しかも、困ったことにそのときの模擬戦が原因で、新しい総帥を指名しようとしても、どの将軍にも固辞されてしまうという状況だった。
おかげで先代が退役してから何年も経つというのに、リヴァイアクス軍の総帥はいまだに決まっておらず、軍人でもなんでもない私が軍のトップまで行うという、とんでもない助教が続いていた。
重ねて言うけれど、私は軍の指揮なんて嫌いだ。
こんなことをしているくらいなら、まだ城のキッチンでお菓子作りをするか、ベティちゃんとお昼寝やお絵かきなどして一緒にすごしていたい。もっと言えば、旦那様のおそばにいたい。
だけど、いまはそれはできない。
だから嫌いな軍の指揮を、ひいては戦をこれから行わなければならない。
相手取るのは、この国を事実上支配されてきた神獣リヴァイアサン様だ。
普通、神獣様を相手に戦をするなんて言えば、正気を疑われるだけ。
だけど、いまはその正気を疑われることをしなければならない。
なにせ、私がこれから対峙するリヴァイアサン様ご自身が、正気を失っている。正気を疑われる戦の相手が、正気を失った神獣というのは、なんとも皮肉が利いている。
そのうえで、この戦は難しいという言葉さえも生ぬるい、まさに地獄のようなもの。そんな戦がこれから待ち受けていると考えると、背筋に冷たい汗が伝っていく。
すでに首都の民たちには避難の指示を出してある。
避難指示の前に、水柱の正体については伝えた。
本当なら、嘘を入り交えるべきだっただろうけれど、今回はあえて事実を伝えた。多少の脚色はしてあるけれど、ほぼ紛れもない事実を発表している。
その事実に民たちは絶句したけれど、「未来を勝ち取るための戦である」と伝えると、誰もが鬨をあげてくれた。今回ほど、「聖大陸の二大軍事国家」とリヴァイアクスが謳われていることをありたがく思ったことはない。
避難先は、もうひとつの軍事国家であるベヒリアだった。
エルヴァニアは論外としても、聖大陸でも有数の大国のひとつであるアヴァンシアではなくベヒリアなのは、地理的な理由によるからだ。
リヴァイアスから民を批難させるには、どうしても船を使わなければならない。陸路からでもできなくはないけれど、その場合ベヒリアにもアヴァンシアに行くにも、いくつかの小国を通らなきゃいけない。
でも、その小国を通るのは大規模な避難民。少数であればまだしも、万単位の人々がその小国を越えるとなれば、コストが掛かりすぎてしまうし、その分小国の負担が大きくなりすぎてしまう。
だから陸路は使えない。陸路が使えないとなると、海路ないし水路を使うことになるけれど、その肝心の海路はリヴァイアサン様がいるから使えない。そしてアヴァンシアへと船を出す場合は、海路しか方法がない。
では、ベヒリアはというと、ベヒリアはアヴァンシアとは逆で海路が使えない。というか、ベヒリアは内陸の国なので、そもそも海がない。ただ、ベヒリアはその国を二分するように流れる大河がある。その大河を遡上すると首都であるリアスにたどり着ける。そしてその水路は、リヴァイアサン様ですら手を出すことはできない。
避難先がアヴァンシアではなくベヒリア、となるのは誰の目でも明らかだった。
すでにベヒリア王には受諾して貰い、快速船のすべてを用いて、民たちをベヒリアへと輸送している。いまリヴァイアスに残っているのは、一部の貴族たちと戦に参加する者たちは当然として、この街と最後を共にすると言う者たちくらい。
そのほかの民たちの避難はすでに終わった、と三の姫君は言っていた。ほぼ終わったというのは、この街を離れようとしない一部の民以外の者たちが、すべてリアス行きの快速船に乗り込んだということだった。
軍の指揮は嫌い。戦の指揮なんてもっと嫌いだ。模擬戦ならまだしも、今回は模擬ではなく、実戦だった。命が簡単に消える実戦だった。
元は軍人だったという、海賊たちとの実戦であれば、何度も行ってきた。そのすべてで私は快勝している。
その点だけを言えば、私には軍才というものがあるのだろう。誰が相手だろうと簡単には負けないという自負も一応はある。
でも、今回の相手は神獣様だ。
神獣様に私が指揮する軍が通用するかなんてわからない。
そもそも、通用する以前に、戦闘になるのかどうかさえもわからない。
リヴァイアサン様にとっては、身動ぎ程度でも、こちらには壊滅的な被害が生じることだってありえる。むしろ、それを前提に行動するべきだ。
言うなれば、圧倒的な不利な戦だった。もはや嬲られに行くために戦場に赴くと言ってもいいくらいに。
それでも、それでも、私は軍のトップとしていま戦場に身を置いていた。
「心して聞け。此度の戦、まともにやれば我らに勝ち目などない。そもそも戦闘というものになるかどうかもわからぬ。それでも、祖国のために我らは戦場に赴かねばならない」
旗艦の舳先は甲板から一段高くなっている。その舳先に立ちながら、乗組員のひとりひとりの顔を見るように私は事実を告げていく。
あまりにも絶望的すぎる戦い。それでもなお、乗組員たちの目は絶望の色に染まっていない。それどころか、私への信頼に満ち満ちていた。
何度でも言うけれど、私は軍の指揮は嫌いだ。戦の指揮はもっと嫌い。
こんなことをするくらいなら、ベティちゃんと遊んでいたいし、旦那様のおそばにいたい。
でも、ここで私の役目を放棄するということは、私は私の求めるものを捨てるということと同意義になる。
それに約束したから。
旦那様は旦那様のするべきことをし、私は私のするべきことをする。
私のするべきことこそが、いまは戦の指揮だということ。
それもとびっきり困難で、とびっきり特殊な戦の指揮こそが、いまの私のするべきことだった。
「此度の戦は、勝つ必要はない。相手を殲滅することはできない。ゆえに普段の戦のように勝つ必要はない。いや、今回の戦の勝利は相手を殲滅することではない。今回の戦の勝利はいつもとはまったく異なる」
乗組員たちを見遣る。私の言葉に誰もが頷いていた。その頷きを眺めながら、私は腕を頭上に掲げた。天を差すように人差し指だけを伸ばしながら。
「此度の戦はただひとつ。生き残ること。なにがなんでも生き残れ。相手を翻弄し、時間を稼ぎ続け、そして生き残る。それが今回の戦の勝利である。たとえ最後の一兵になろうとも、生き残れればそれが勝ちとなる。ゆえに今回貴君たちには死を禁ずる。ただ生き残れ。それが私からの指示であり、今回の戦における指揮の基本的な考えとなる。さぁ、帆を広げよ。これより戦の始まりだ」
私の宣誓とともに乗組員たちから鬨が上がった。それは旗艦だけじゃなく、船団を形成するすべての船から上がっていた。
私の演説を聞き逃さないように、専用の魔法を使っていたけれど、それが功を奏しようだった。
軍の士気は高い。
それでも相手が相手だ。
兵の損耗は免れない。
どのくらい生き残ってくれるかもわからない。
それでも私はこうして戦場にいる。
すべては旦那様との約束があるから。
旦那様が約束を守るために死力を尽くしてくださっていることがわかっているから。
だから私も頑張る。
嫌いだけど、もっとも得意とする軍の指揮をこれから行っていく。
「我が精鋭たちよ。我とともに戦場を駆け抜けよ!」
私は腹の底から叫ぶ。その声に合わせるように、鬨がまた上がる。
その鬨とともに普通ではない戦は始まりを告げた。




