rev3-53 ゼロになる
ゆっくりと大きく息を吐く。
肺の中に溜まっていた熱い呼気が、口を通して吐き出されていく。
コサージュ村やアルトリウスであれば、真っ白に染まっていたであろうそれを見ることはできない。
海上を進めばアヴァンシアの隣国ではあるけれど、陸伝いであれば隣国とは言えない距離にあるリヴァイアクス。
その首都であるリヴァイアスは、コサージュ村やアルトリウスよりも、だいぶ気温は高い。高いと言っても熱帯というわけではなく、あくまでも雪国であるアヴァンシアと比べればという話。
コサージュ村やアルトリウスを始めとした、アヴァンシアの各市町村とは違い、リヴァイアスは半袖でいられる時期がかなり長い。さすがに一年中というわけではないみたいだけど、一年の半分は半袖でも問題ない。
アヴァンシアにいた頃は、昼も夜も寒かったし、時折吹きすさぶ嵐のような大雪に見舞われることがある。あの大雪が降っているときは、基本的に外に出ることはできない。下手に外に出ようものならば、待ち受けているものがなんであるのかなんて考えるまでもない。
それでも、何度か、そう、何度かは外に出たことはある。
吹きすさぶ極寒の中で、崖際まで歩み寄り、空を眺めていた。
体どころか、魂さえも凍えてしまいそうな中にいるというのに、寒さは不思議と感じられなかった。
いや、あの寒さでさえもまだ足りないと感じられていた。
どんなに寒くても、まだ足りなかった。
喪ったものを忘れるには、ちっとも足りなかった。
なにもかもが足りなさすぎていた。
「……ふー」
大きく肩を動かしながら、静かに息を吐いた。
夜空を彩る月が、ちょうどいい灯りとなってくれている。
その灯りの下で、俺はひとり汗を搔いていた。
ルクレとの居室にあるバルコニー。
そのバルコニーであまり派手にならない程度に、体を動かしていた。
すでに体は汗に塗れている。
どれだけ繰り返したのかもわからない。
そもそも、なんでやろうとしたのかもわからない。
気づいたらバルコニーに出て、ミカヅチを手にして型をなぞっていた。
最初は素振りだけでもいいかと思っていたのだけど、なぜか兄ちゃんに教わった型を、うちの流派の型を何度も何度もなぞっていた。
それが終わったら、今度は一心さんに教わった、うちの流派の素手での型をなぞった。
日本にいた頃は、欠かさずしていたことだったけれど、こっちの世界に来てからはずいぶんとしていなかった。
そのしていなかったはずのことを、なぜか今夜はしていた。
どうしてそうしたのかはやっぱりわからない。
わからないけれど、必要なことだとなぜか思った。
そう思った理由もやっぱりわからない。
わからないことだらけ。
それでも教わってきたことを、体に染みついた動きを、何度も何度も執拗なほどになぞり続けた。
繰り返すうちに、最初はどこか自分でもぎこちないと思っていた動きが、徐々に最適化されていった。
重たい体が少しずつ軽くなっていた。
なんでこんなことをという思考が、ゆっくりと霧散していった。
拳を突き出すことに、刀を振ることに、思考も体も最適化していった。
そうしていくつもの型をなぞり始めて、どれだけの時間が経っただろうか。
もともと汗だくであった体は、滝のような汗を搔いていた。
見れば、バルコニーには汗の水たまりができあがっており、その水たまりの中に立ち尽くしながら、俺はまだ体を動かしていた。
だけど、それもそろそろ終わりのようだった。
「……旦那様、お疲れ様です」
眠っていたルクレが、苦笑いをしながらバルコニーに出てきた。
俺がバルコニーに出たときは、なにも身に付けていなかったはずだったのに、いまはナイトガウンを羽織っている。ただ、ガウンでも隠しきれない場所に紅い花が刻まれているのがなんとも言えない。
「起こしちゃったかな?」
「いえ、喉が渇いて目を覚ましたので」
「そっか」
にこやかに笑うルクレ。ただ、なんとも返し辛い内容ではあった。
喉の渇きを覚える程度には、頑張って貰ったのだから、夜更けでも目を覚ますのは無理もない。
それくらいに無茶をさせてしまった。
「……あー、その、ごめん。ちょっと、いや、かなり無茶させたよね」
「いいえ、そのようなことは。むしろ、いつもよりも求めてくださって嬉しかったですよ」
ふふふ、と口元に手を当てて笑うルクレ。その仕草はなんとも言えないほどに色っぽい。
単純に、体を動かすまでは、ルクレの艶やかな姿を見ていたせいなのかもしれない。
ルクレは日に日に淫らになっていく。
でも、その姿を見られるのは俺だけ。
俺しか知らないルクレの姿。
清楚な元女王陛下が、ベッドの上では想像もできないほどに乱れる姿は、これ以上となく俺を夢中にさせる。
体つきに関して言えば、カルディアたちには及ばない。だけど、カルディアたちを凌駕するなにかがルクレにはあった。そのなにかに俺はのめり込んでしまっているような気がした。
それが愛情ゆえなのか、それとも肉欲ゆえのものなのか。
いまいち判断はつかない。
でもそれとは別に、たしかな愛情をルクレに向けていた。
ベティに向ける愛情とは似て否なるもの。
その愛情は、こうして向かいあっているだけでも、胸いっぱいに広がってくれる。
「旦那様、水差しを用意しておりますので、どうぞこちらへ」
「あぁ、ありがとう」
ルクレが部屋の中へと招き入れてくれる。招かれるままに部屋の中に入ると、ベッドサイドにあるテーブルになみなみと入った水差しが置かれている。よく見ると水差しの中にはレモンに似た柑橘類が、輪切りになった柑橘類が浮いているし、水の色も少し違っていた。
「これは?」
「この国の特産品のひとつのシーリモです。そのまま食べると酸っぱいのですが、こうして輪切りにして水に漬かして飲むと、とても爽やかなのですよ」
「ほかになにか入れている?」
「はちみつを少し。本当ははちみつ漬けのシーリモが運動の後にはいいのですが、何分急だったので」
申し訳なさそうにルクレが言う。気にしなくてもいいと言おうとして、ふとルクレが手を見せていないことに気づいた。見せていないというよりも、隠しているという方が正しいかもしれない。
「手どうかしたのか?」
「え?」
「いや、隠しているみたいだからさ。ルクレは手を後ろにする癖ないだろう?」
「え、あ、あー、それは、ですね。まぁ、その、お気になさらずとも」
あははは、と視線をあからさまに逸らすルクレ。なんとなく予想していたことだけど、どうやら大当たりのようだ。
「ん」
「……えっと」
「手」
「……あの」
「いいから」
「……はい」
端から見れば成立しているのが不思議な会話を交わしながらも、右手を差し出していた。差し出した右手にルクレは躊躇しつつも、両手を差し出してくれた。ルクレの手は不格好に絆創膏が貼られている。
なにが不格好と言うと、絆創膏を張っている箇所がずれていて、若干傷跡が見えてしまっていた。
その傷痕は明らかに切り傷で、それが両手に及んでいる。寝る前には確実になかったものだった。
「……ちゃんと治療しないとダメだろう?」
「いや、その、ひとりでするのは結構難しくて」
「はいはい。新しいのを張り直すからな」
「……はい」
がくりと肩を落とすルクレを見て、吹き出しそうになったけれど、貼られていた絆創膏を剥がし、新しいのを傷跡を覆い隠すようにして貼っていく。
新しい絆創膏を貼ると、ほんのわずかにルクレは顔を顰める。どうやら傷跡がわずかに痛むようだ。まぁ、痛みというよりかは痛痒いという方が合っているかもしれないが。
「ん。これでよし」
「……ありがとう、ございます」
申し訳なさそうにルクレが再び肩を落とす。俺の世話を焼こうとして、かえって世話を焼かれてしまったことを気にしているみたいだ。
「気にしないでいい。慣れていないことは誰だって不格好になるもんさ」
「……ですが、まさかこんな失敗するなんて思っていなかったので」
「調理得意だったんだっけ?」
「それなりには、です。お菓子を作るのは好きなので。時々隙を見て作ってはいました。……まぁ、最近はすっかりとご無沙汰になっておりましたけど」
「そっか」
「ええ。でも、まさか、自分で自分の手を切るなんて思っていませんでしたが」
力なく笑って再度肩を落とすルクレ。どうやらこんな失敗をするなんて、本人は考えてもいなかったようだ。
寝起きと疲れのダブルパンチで手元を狂わせてしまったってところだろうけれど、それでもルクレ的にはショックのようだ。
「まぁ、次は気をつければいいさ。さて、ルクレが用意してくれた水を飲むとしようかな。ルクレもどうだ?」
「はい、頂戴しますね」
水差しの側にはグラスが二つ置かれていた。そのひとつを手に取り、水差しの中身を注ぎ込んでから差し出すと、ルクレはありがとうございますと受け取り、ゆっくりとグラスを傾けていく。
その様子を眺めてから俺ももうひとつのグラスを手に取ろうとした。だが、なぜかその直前でルクレに肩を叩かれた。どうしたんだろうと振り返ると、ちょうど目の前にルクレの顔があった。
え、と声を漏らしたときには距離はゼロになっていた。
柔らかなものが唇に触れた。次いで、柑橘の爽やかさとほのかな甘みが口の中に広がっていく。
体温で少し生ぬるいはずなのに、それがどこか心地よかった。
「……いかが、ですか?」
ほんのりと頬を染めてルクレが窺ってくる。
「……美味い、よ」
「そう、ですか。もう一杯いかがです?」
「……いただこう、かな」
「はい。承知しました」
にこやかに笑い、ルクレが再びグラスを傾けていく。口に含んだ半分を嚥下したところで、俺に向き合い、そっと顔を近づけてくる。合わせるように俺も顔を近づけ、そしてまた距離はゼロとなった。
喉を潤す、爽やかでほんのりと甘い味。もっともっとと求めるようにして、彼女を抱きしめる。彼女が手にしていたグラスを奪うようにして手に取り、サイドテーブルにどうにか置いた。
ベッドが軋む音とどさりとなにかを組み伏すような音が聞こえる。
頬を染める彼女を見下ろしながら、ガウンに手を掛ける。
「……汗臭いけど」
「お互い様ですよ」
「そう、だな」
「ええ」
短いやり取りを経て、再び距離がゼロになる。
ガウンの結び目をほどき、白い素肌を露わにした。
白い素肌が月明かりに照らされる。
その素肌が淡く紅潮する様を、眺めながら彼女を求めた。
重なるたびに深みへとのめり込んでいくことを自覚しながらも、愛おしいそのぬくもりをただ求めていった。




