rev3-37 香るもの
吐息が荒くなっていた。
遠くから夜空に上がる花火の音が聞こえる。花火の音の方がはるかに大きなもののはずなのに、その音よりも自分が吐き出す呼気の方が大きく聞こえていた。
うだるように熱かった。
気温が高いというわけじゃない。
日本の夏ほど酷いものじゃないけれど、湿気はそれなりにある。
それでも、ここまでのものでは、全身を焼き尽くすようほどじゃない。
滝のような汗がひっきりなしに浮かび上がる。
体温調整のためのものとはいえ、ここまでの量の汗を搔くことはあまりなかった。
そのあまりなかったはずの量の汗をいま、俺は搔いている。
着ていたオーベリはとっくに脱いだ。
それはいま俺の下で横たわるルクレも同じだ。
ルクレは俺にしがみつくようにして、俺の背にと腕を回していた。
普段は肩に掛け流している髪──ルーズサイドテールと呼ばれる結い方をしている髪は、いまやルクレが着ていたオーベリの上で広がっていた。
色素が薄めなルクレの髪が広がる様は、真っ白な生地のオーベリの上で広がる様は、雪原の中に人知れず存在する湖のようだ。その湖を見れるのは俺だけ。
女王としてこの国を導いてきたルクレ。誰もが認める美少女にして、誰もが敬う女王。そのルクレはいま女王としての姿ではなくなっていた。
かといって、ベティの前のような優しい「おかーさん」としての姿でもない。
いま俺の前にいるのは、ひとりの女でしかない。
女王でも、母親でもない。
快楽に喘ぐ、ルクレという名の女でしかない。
その女を俺は抱いている。
なにをしているんだろうとは思う。
こんなことをしている場合じゃないとわかっている。
いまごろ、ルリたちは集合場所で俺たちを待っているだろうに。
特にベティは俺もルクレもいないことで、寂しがっているかもしれない。
泣きじゃくることまではしないだろうけれど、あの甘えん坊のあの子が、いつまでも耐えられるとも思えない。
娘の泣き顔なんて見たくない。
ただでさえ、あの子は辛い目に遭っていた。
ひどいトラウマを抱え込んでしまっているんだ。
そんなあの子をこれ以上苦しめるようなことはしたくない。
だから、さっさと切り上げて、あの子の場所に帰るべき。
理性はさっきからそう叫んでいる。
けれど、そんな理性はいまや歯止めにもなりはしなかった。
「だんな、さま」
荒い呼吸を繰り返しながら、ルクレが俺を呼んだ。
耳元で「どうした?」と声を掛けると、ルクレは少し体を震わせてから、背に回してくれていた腕により力を込めた。
それが意味することは、ひとつだけ。
もう何度となく行われたこと。「もう一度」というオネダリの合図。
「またしてほしいの?」
くすりと笑いかけると、ルクレは火照りとは違うもので、耳を紅く染めていた。かわいいと思う一方で、狂おしいほどに目の前の女を抱きたくて仕方がなくなってしまう。
もし俺が男だったら、きっと今夜でルクレのお腹に宿らせていたかもしれないと思うほどの、自分でもどうしようもないほどの情欲が俺を突き動かしていた。
その情欲はそれこそルクレを傷つかさせないほどに強く荒々しい。下手に感情の思うままに動けば、本当にルクレが大変なことになりかねない。
抑えろ、と自分で歯止めを掛けたい。
これ以上大切な人を喪うのはごめんだ。
もう誰ひとりとて喪いたくない。
大切な人を看取ることなんてもうしたくなかった。
だからこそ、もう作りたくなかったのに。
大切な人を得たくなかったはずだったのに。
いま俺はこうして大切な人を得てしまった。
その人をいま俺は抱いている。
理性が効かないほどに、荒ぶる感情のままに動いてしまっている。
つくづく、なにをしているんだろうと思う。
なんでこんなことをしているんだろうとも思う。
それでも、自分を止めることはできなくて、できるのは獣のように、ルクレという獲物を喰らうだけ。
「……ごめん、なさい。こんなに堕ちてしまって」
ルクレがなぜか謝った。
ルクレが謝ることじゃない。
そう思うのに、ルクレはまるで懺悔をするかのように、みずからの罪を告白するかのように、心の底から申し訳なさそうに謝っていた。
水色の瞳が涙に濡れている。涙に濡れながらも、その瞳の奥には隠しようのない情欲の色に染まっていた。
清楚という言葉が似合う彼女を、ここまで堕としてしまった。
鈍器で殴られたような衝撃もあるけれど、それ以上の快楽があった。
清楚な女王を、淫らな女に堕とした。そんな後ろ暗い快感が背筋を伝っていく。
その快感がより一層俺を突き動かした。
謝罪の言葉を遮るように、彼女の唇を奪う。
呼吸さえも許さないというくらいに、執拗に絡めていく。
ルクレはまぶたをぎゅっと閉じながらも、俺に合わせてくれた。
ううん、それどころか、もっともっとと言うように、とんとん、と。とんとん、と背中に回された手で俺の背中を叩いている。
最初は苦しいとか、もうやめてって意味だと思って離れたのだけど、離れるとルクレに「……え?」と不満げな顔で首を傾げられてからは、より彼女を求めることにした。それこそ、窒息する一歩手前くらいまで彼女を求めた。
窒息する手前まで彼女を求めてから離れると、ルクレはとても幸せそうに笑ってくれる。その笑顔を見るのが好きだ。
いや、笑顔だけじゃない。
ルクレを構成するすべてが堪らなく好きだ。
水色の髪も、同じ色の瞳も、整った顔も、真っ白な新雪のような肌も、若干小ぶりな胸も、なにもかもが好きで堪らない。もっともっとルクレが欲しい。身も心も俺の色に染まらせたい。誰が見ても、ルクレが俺の女だというのをわからせたくて仕方がない。
『請われるままに壊れればいい。喰らいたいようにぞんぶんに喰らえばいい。遠慮することはない。完全に殺し尽くして、おまえの女にすればいいじゃない。そういうことは、女をそういう意味で殺すことはおまえが最も得意とすることじゃない』
化け物の声が頭の中で響く。
いつもなら嫌悪感を憶えるけれど、いまは不思議と嫌悪はない。どこか甘い響きがあった。まるでルクレから香る花の香りのように。とても甘ったるいのに、とても心地よく感じられた。
(女の、ころしかた?)
『そうよ。蛇王に散々教えて貰ったでしょう? 女を殺す方法。いままで散々してきたことでしょう? いつものようにやればいいじゃない。いつものように、殺し尽くせばいい』
(……いつもの、ように)
『そうよ、いつものように殺せばいいの。殺して殺し尽くせ。その女に自分が誰のものなのかを完全にわからせればいい。それはおまえがもっとも得意とすること。いや、いまおまえがなによりも優先して行うことでしょう? だから安心して──』
『──壊れてしまえ、偽物』と化け物が囁いた。
その声に突き動かされるように、なにかがごとりと動く音が聞こえた。
重たいものがゆっくりと動いていく。
その音を聞きながらも、俺はルクレを求めて──。
『──っ、いい加減にさっさと起きろ、このボケ姉がぁぁぁぁ!』
──いこうとしたところに、久方ぶりに聞いた声が、懐かしい妹の声が聞こえてきた。大音量で。
あまりの声量に、俺はとっさにルクレから離れて、頭を抱え込んだ。
「……だんな、さま?」
ルクレが驚いたような声を上げる。「なんでもない」と言おうとしたのだけど、それよりも早く妹の声が、恋香の声がまた響いた。
『このアホんだら! 少しばかり人が眠っている間に、なぁにぃ新しい女とねんごろしていますか!? ちょっとばっかし目を離していただけで、まんまと術中にはまるとは嘆かわしい! わかったらそこを退きなさい! 私が代わってその女とギシアンと』
「ふざけんな、このぼけぇぇぇぇぇ!」
あまりにも変わらない恋香の言葉に、以前のように叫び返してしまった。ルクレは俺がいきなり叫びだしたことで、唖然となって何度も瞬きを繰り返している。かわいい。
『む。たしかにかわいいですね。ですが、搦め手を使う相手というのは、少々いただけませんね。やはり、ここは私が代わって、その女とげへへへ』
「だから、ふざけんなっての!? おまえ、本当に変わんねぇな!?」
『そういうあなたは変わりましたね。見る影もなく弱くなった。加えて、その女の術中にまんまとはまっていますし。嘆かわしい限りです』
呼吸をするかのように自然と出るセクハラ発言。どう考えてもこれが恋香であることは間違いない。ただ、さっきからおかしなことばかり恋香が言っているのが気になった。
「術中ってなんだよ?」
言っている意味がわからなかった。けれど、その言葉になぜかルクレが息を呑んだ。すると恋香は「は、この程度で尻尾を掴ませるなんて、半人前もいいところですね」と俺だけではなく、ルクレにもその声が聞こえるように話し始めた。
ルクレはいきなり聞こえてきた俺と同じだけど、まるで違う声に「この声は?」と困惑を隠せないでいる。
『自己紹介くらいはしてあげます。私の名前は恋香。そちらにいるあなたの旦那様とやらとは比べようもなく、出来がよすぎる妹というところでしょうかね』
「出来の悪すぎるセクハラ妹の間違いだろうが」
『なにを失敬な! 私のどこがセクハラ妹だと』
「存在そのもの」
はっきりと存在ごと否定してあげると、恋香は『ぐはぁ』とダメージを負ったようだ。なんとなく頭の中で恋香が血を吐いている姿が見えた。俺の頭の中で吐血すんなと言いたいが、きっと聞いて貰えない。
「……たしかに、旦那様とはその、どこまでも違うと言いますか。えっと、その、ちょっとあの、残念なところがあると言いますか」
ルクレはわずかなやり取りを聞いただけで、恋香がどのような存在であるのかを理解してくれたようだ。恋香は「なん、ですと?」とこれまたショックを受けたようだが、自業自得としか言いようがない。
「ルクレ。悪いけれど、服着た方がいい。この変態はいまごろ舌なめずりしながらルクレの体を見ている頃だろうし」
『し、失礼な! 舌なめずりなどしていませんよ! せいぜいなめ回すように、「わりといい体をしているじゃないですか」と思っているだけで』
「……そうですね。旦那様とは違って、変態さんみたいですし」
恋香がどういう存在なのかを理解し、ルクレは侮蔑の籠もった声ではっきりと切り捨てた。「な、なぜ私ばかり」と恋香がまたもやショックを受けるけれど、自業自得以外に言いようがない。
そうして恋香がショックを受けている間に、ルクレはオーベリを着直していた。首筋に珠のような汗が浮かんでいて、その汗とともに甘い花の香りが鼻孔をくすぐっていく。
『って、こら! 簡単に術中にはまるんじゃないですよ! これだから目が離せないんですよ、まったくもう!』
恋香の声で少し遠ざかっていた意識が戻った。さっきから術中と何度も言っているけれど、なんのことを言っているのかはさっぱりとわからなかった。
けれど、恋香自身そのことを口にするつもりはないようで、「自分で考えなさい」と言われてしまった。
『それよりもレン。そろそろ移動しましょう。ベティたちが待っているのでしょう?』
「え、ああ。って、なんでおまえが」
『ふん、そんなのあなたの記憶を盗み見したからに決まっているでしょうに。まったく、少し人が眠っている間に、本当に困った姉ですよ、あなたは』
ぐちぐちと恋香がなにやら言い募っていた。
ルクレは恋香のことを理解しながらも、やはり困惑が勝っているようだった。
さっきまでとは真逆と言ってもいい空気になってしまっている。
これはこれで参ったもんだと思いつつ、俺はルクレの手を取り、ベティたちの元へと、集合場所へと向かうことにした。
その間、ルクレはなぜか下を向いて真一文字に唇を結んでいた。
なにがあったのかと思いながらも、結局声のひとつさえ掛けることもできないまま、俺たちはベティたちの待つ集合場所へと向かったんだ。




