rev3-30 揺れ動きながら
星が見えていた。
眩い光を放つ星とその星々に寄り添うようにして金色の月が浮かんでいる。夜空というと、月か星々のどちらかがメインになる。
もっぱらメインになりやすいのは星だろうか。星空ということはあれど、月空ということはないから、基本的には夜空=星空というのが俺の認識だった。たぶん、大半の人も同じ認識だとは思うけれど、他の人がどう思っているのかまではわからない。
そんなとりとめもないことを考えながら、俺はひとり星空を見上げていた。この世界に来てから幾度となく見上げてきたもの。だというのに、不思議と飽きることがない。
(……考えてみれば、日本にいた頃もこうして夜空を見上げていたっけ?)
まだ二年も経っていないというのに、すっかりとこの世界にいることが当たり前になってしまった。日本にいた頃を思い出すことさえ稀になってしまっていた。
(あぁ、違うか。もともと思い出すこと自体していなかったかな)
最初、この世界に来たときは、どうにかして元の世界に、日本に帰りたいと思っていた。
だけど、気付いたときにはこの世界でたくさんの大切なものを抱え込んでしまっていたし、元の世界に戻りたかった理由のひとつでもある希望もこっちの世界に来てしまっていた。だからだろうか、元の世界に戻りたいという思いがより希薄になってしまった。
その希望とはこの世界で一緒に過ごせたのはほんの数週間程度だった。しかもそのことに気づきもせずに、偽物を希望と思い込まされていたんだから、とんだお笑いぐさだと思う。
(まだ二年も経っていないのに、望郷の念がすっかりと薄れてしまっているのか)
こうして日本にいた頃のことを思い出しても、懐かしさを抱けるけれど、帰りたいって気持ちは一切沸き上がらなかった。悲しいくらいに帰りたいという気持ちを抱くことができなくなっていた。
もともとそうだったのか、それともこの世界に来て得たものをすべて失ってしまったからなのか。判断がつかなかった。
ただ、ひとつだけ確実にわかるのは、いまのままで帰るわけにはいかないってことだけ。俺からすべてを奪い取った奴らに、あいつらが存在しているこの世界に、目に物を見せるまでは絶対に帰れない。帰って堪るものか。
(そうだ。俺はこの世界を──)
自分の目的を改めて確認しようとした、そのときだった。不意に目の前に半透明な瓶に入ったジュースを差し出された。視線を追えば、そこには笑顔のドアンさんが立っていた。
「──助かりました」
「いえ、お気になさらずに」
差し出された瓶を受け取りながら、感慨に耽りすぎていたな、と自嘲した。
少し前になってようやくドアンさんの店じまいが終わったんだ。話があるからと店じまいを手伝っていたら気付けばすっかりと暗くなってしまっていた。
当然、近くにルクレたちの姿は見えないし、仮に近くにいたとしても暗くなってしまっているから、見つけることは難しそうだ。
まぁ、ベティがいれば、「おとーさん!」と言って背中にぴょんと飛びついてきそうだけど。わがままを言ってもいいと最初に言ってからというもの、ベティはわがままを言うようにはなってくれたことは、最初のまるで人形のようだった状態を考えれば成長と言ってもいいのかもしれない。
(そのわがままも取るに足らないような、とてもかわいらしいものばかりだから、叶えてあげることはたやすいんだけどね)
ベティのそういうところは、いや、ベティ自体が俺にはとても好ましく、愛らしかった。いなくなってしまったシリウスやカティと比べても遜色ないほどに。血の繋がりなんて一切ないけれど、それでもあの子たちが俺の大切な娘であることには変わりない。
「……やはり、その目をされている方がお似合いだと思いますよ」
「え?」
また不意を衝かれた。ドアンさんはじっと俺を見つめていたんだ。見つめていたけれど、その目はとても柔らかかった。
「……どちらでお呼びすればいいのかはわかりませんが、少なくとも以前のあなたであれば、プーレお嬢さんを娶られた頃のあなたであれば、そのような目をいつもされていたのでしょう?」
「……俺が誰なのかわかっているんですね?」
「いいえ。私が知っているのはあなたがレンさんという方であることです。それ以外の名前のあなたを私は知りません。なにせ、以前のあなたとお会いしたことはないのです。会ったことのない人を知っているなんて言うことはできませんからね」
ドアンさんは屁理屈みたいなことを言っているけれど、間違っているとは言い切れなかった。実際俺は以前の姿でドアンさんと出会ったことはない。だからドアンさんが知らないというのもわからなくはない。
「……面白い人ですね、あなたは」
「ゼーレ親方にも同じことを言われましたよ。「おまえの考えは面白いな。だからといってプーレをやるつもりはないからな、この野郎」って」
「ゼーレさんらしいですね」
特に後半はまさにゼーレさんらしい。とはいえ、俺自身、あの人のことをほとんど知らない。でも、愛娘であるプーレを溺愛していたことは知っている。
「……最初、お目に掛かったとき、陛下とお嬢さんを見間違えてしまいましたが、それくらい陛下とお嬢さんはよく似ておられました」
話題が変わったと思ったけれど、実際には変わってはいないのかもしれない。そもそも、この人が話したいという内容はプーレのことだ。そこに今回のプーレとルクレを見間違えたことが絡んでいるんだろう。
「……俺を軽蔑しますか?」
「なぜでしょう?」
「……そのルクレと俺は関係を持っています。プーレを喪って一年も経っていないというのに、俺はプーレとは別の女を抱いている。そんな俺を軽蔑しますか?」
渡された半透明の瓶を、その中で揺れ動く自分自身を見つめていた。いまの俺そのままの姿だった。そんな自分の姿を嘲笑うことしかできなかった。
「……いいえ、軽蔑はしないですよ」
自分自身を嘲笑っていると、ドアンさんは自身の分の瓶を開けると、一気に呷った。それから静かに首を横に振っていた。
「そりゃあ、まったくなにも思わないとまでは言いませんよ。けれど、あなたはあなたで大変なものを背負っておられるのでしょう。私などでは考えられないほどのものをその身で背負っておられる。そんなあなたをどうこう言える筋合いは私にはありません。だから軽蔑は致しません。なによりも、あなたはあのゼーレ親方が見込んだ方です。そんなあなたがそうなったということは、それだけのなにかがあったということでしょうからね」
ドアンさんは微笑みながら、「どうぞ」と俺の持つ瓶を見遣る。「ありがとうございます」とお礼を言って瓶を開け、中のジュースを流し込む。ジュースの味はラムネの味によく似ていた。炭酸の刺激と喉を潤わす清涼感がとても心地よかった。
「……とても美味しいですね」
「この国特有のもので、「レリアーナ」という名前らしいですよ」
「レリアーナ?」
「ええ。なんでもこの国でかつて在位していたという女王陛下のお名前らしいです。詳しいことはわからないのですけど」
聞き覚えのある名前だった。というか、その名前はたしかリヴァイアサン様が固執していた女性と同じ名前だった。
だけど、たしかその人はプーレのご先祖様じゃなかっただろうか。リヴァイアサン様もそんなことを言っていたはず。
でも、おかしくないか?
プーレのご先祖様がその女王様であれば、その女王様が「エンヴィー」に移り住んだということなんだろうけれど、その女王様がなんで「エンヴィー」に移り住むということになるんだろうか。
というか、そもそも女王様が移り住むということ自体がおかしい気がする。仮に隠居されたとしても、なんでわざわざ国外に移り住むことになったのか。それも遠く離れた「魔大陸」にだ。
考えれば考えるほど、なにかおかしくなっていく。
むしろ、なにか根本的な部分が違っている気がしてならない。
そう、たとえば、プーレのご先祖様は本当にレリアーナという人なのかと。
もしかしたらプーレのご先祖様はレリアーナではなく、別の人だったとか。
(……まさかな)
自分でもありえないことを考えてしまった。
さすがにリヴァイアサン様がそのことを認識していないわけがないから、その考えはありえないだろう。
「それで、話とは、プーレのことでいいんですよね?」
「ええ。実は」
ドアンさんはもう一度瓶の中身を呷ってから、その口をゆっくりと開いていった。
ドアンさんに続いて中身を呷りながら、脳裏に浮かんだありえない妄想を掻き掻して、俺は彼との話に心を傾けていった。




