rev3-23 幸せの形
──1週間前。
それはルクレティア陛下が漏らした一言から始まりました。
「フェスタ?」
「ええ、1週間後にちょうどあるのです」
ニコニコと笑いながら、ルクレティア陛下はいつも通りにお膝の上にベティちゃんを乗せて、ベティちゃんのきれいな灰色の髪を優しく手櫛で梳かれておりました。
当のベティちゃんは「ばぅ~」と心地よさそうにまぶたを細めて尻尾をふりふりと振りながら、ルクレティア陛下にされるがままでした。むしろ、積極的にルクレティア陛下の手に頭をぐりぐりと押しつけていましたね。
そんなベティちゃんのおねだりを、ルクレティア陛下は微笑ましそうに見やると、頭の上の立ち耳にと触れられると、右手の親指と人差し指の腹でこりこりと擦られました。すると、ベティちゃんはそれまで以上に心地よさそうな声で「ばぅぅ~」と脱力されたではありませんか。
あぁ、なんてことをと当時の私が思ったのは言うまでもありません。できればその場所を替わってください、お願いします。お金ならいくらでも払います。足りなければこのナイスバディでいくらでも支払いますのでお願いします。私もベティちゃんの耳をこりこりとしたいですし、そのまま、ぐへへへ。
「……おい、こら、ロリコン女。人の嫁と愛娘にふざけた視線を向けるんじゃねえ」
スパーンと大変いい音を立てながら、レンさんは私の頭を叩かれました。しかもよりによって後頭部です。私がその場で蹲ったのは言うまでもありません。後頭部を叩くなんて、下手したら殺人事件ですよ。その場合どちらが被害者で加害者なのは周知の事実。つまり、私は悪くない。悪いのはどこぞの暴力おとーさん兼暴力旦那さんです。私はなにひとつとて悪くない!
「……人前なのに嫁だなんて言われるのは、いささか恥ずかしいですが、なんというか幸せな気分ですね」
「ばぅ、おかーさん、おかおまっかなの。かわいいの」
「べ、ベティちゃん。おかーさんをからかっちゃダメですよ。め、です」
「でも、ほんとーのことなの」
「べ、ベティちゃんったら、もう」
「おとーさんもそうおもうよね?」
「え? あ、あぁ。そう、だね。まぁ、その、なんだぁ。ルクレ、あ、いや、おかーさんはかわいいよな。うん」
「だ、旦那様まで。恥ずかしいですから」
楽しそうに笑うベティちゃんと、顔を逸らしながら頬を搔かれるレンさん、そしてそんなおふたりに対して顔を真っ赤に染め上げられるルクレティア陛下という三者三様な有様を見せつけてくださるレンさんたちご一家。直前にレンさんが私相手に殺人未遂事件を犯したというのにも関わらず、そんな非道が行われたことなんてなかったと言うかのような光景が繰り広げられていました。
その当時私たちは食堂でお昼ご飯を食べ終えて、食後のお茶を楽しんでいたのです。当然その場には私たち以外にもメイドさん方がおられたというのに、そのメイドさん方は微笑ましそうにレンさんたちを見つめはするものの、私に対する非道を糾弾される方は誰ひとりとておられませんでした。
むしろ、私を視界に納めまいとするかのように、完全スルーされていましたね。それどころか、「あ、いたんですね」とでも言うかのように、私と目が合うと若干驚かれている始末でした。
……なんですかね。私はこのお城のメイドさん方にとって、汚物に近い存在とでも言うんですか? 視界に納めたくもない存在だと言うんですかね、ちくせう。
「ところで、おかーさん」
「な、なんですか?」
「ふぇすた、ってなぁに?」
ひとり悲しみに暮れていた私の耳に、ベティちゃんの舌っ足らずな問いかけの声が聞こえてきました。その声に「あぁ、そうでしたね。ベティちゃんにはわかりませんよね」と笑いながら、ルクレティア陛下はベティちゃんの頭を優しく撫でられると──。
「わかりやすく言いますと、お祭ってことですね」
「おまつり! おかーさんのところでもおまつりするの?」
ルクレティア陛下がベティちゃんにもわかりやすく一言で言い換えられると、ベティちゃんは勢いよくルクレティア陛下に振り返り、見上げるようにして陛下を見つめられていました。残念ながら私の位置からではベティちゃんの背中しか見えませんでしたが、そのときのベティちゃんがどんなお顔をされているのかはわかりません。
ですが、私の類い希な脳細胞の前では、その程度は障害にもなりえません。そのときのベティちゃんは間違いなく、お目々をキラキラと輝かせて期待一色とでも言うかのような満面の笑みを浮かべられていたに違いないのです。うは、たぎる。たぎってきますよぉぉぉと当時の私は心の底からのパッションに打ち震え──。
「……なぁ、さっき言ったことをもう一度言わないとダメか?」
「……ごめんなさいです、はい」
──底冷えするような声のレンさんがぽんと私の肩を叩かれたことで、一気に鎮火するのでした。そのときのレンさんがどのような目で私を見つめられていたのかはわかりません。
考えられるのはきっと笑顔だったんだろうなということくらいです。なにせ、ベティちゃんをなでなでされていたルクレティア陛下も笑顔を浮かべて私を見やっておいででしたからね。
ちなみにですが、笑顔というものは攻撃性の裏返しとも言うらしいですよ。なんでも獣が牙を剥く行為に近いようです。たしかに獣は牙を剥く際に口角を上げますから、見ようによっては笑っているように見えますよね。うん、アンジュはひとつ賢くなりました! だからそんな怖い笑顔を浮かべないでくださいよ、この似たもの夫婦めと当時の私は心の底から思いました。
まぁ、実際に口にする勇気はありませんでしたけどね。だって下手なことを言って、首をかっ切るポーズで「その方は処してください」とルクレティア陛下に言われたくないですからね。ルクレティア陛下がそれほどの暴君だとは思いませんが、それを言える立場であることはたしかですし、下手な発言は物理的に首を絞めることになるのです。
ゆえに私はなにも言わずに、ただ敬礼で以て返すだけでした。そんな私をルクレティア陛下は「うわっ」と小さく漏らされると、そっと顔を逸らされ、ベティちゃんに改めてむき直されました。
「ええ、この国にもお祭はありますよ。それがフェスタなのです。ベティちゃんの知っているお祭は、アヴァンシアの王国祭ですよね?」
「ばぅん。こくおーさまにいっぱいおいしいもの、たべさせてもらったの!」
「そうですか。ん~、後でアーくんにお礼を言わないとですねぇ」
「あーくん?」
「はい。ベティちゃんがいま言われたこくおーさまのことです。私にとって、彼とその姉であるアーちゃんは弟妹のような存在でしたからね」
そう言いながらも、ルクレティア陛下のお顔は少しだけ曇られました。表向きには、つい先日にトゥーリア殿下が亡くなられたことになっていますので、当然ルクレティア陛下の耳にも訃報は届いておられるでしょう。トゥーリア殿下とアーサー陛下を弟妹のように思われていたルクレティア陛下にとって、どれほどの衝撃であったのかは想像もできません。
「……ルクレ」
「大丈夫です。アーちゃんの容態は聞き及んでおりましたからね。だから、こういう日がいつかは訪れるとわかっていました。その覚悟もしておりました。ですが、それでも、それでもまだ幼いあの子が、と思うと、どうしても」
ルクレティアは最初気丈に振る舞われていましたが、その目は少しずつ潤んでしまい、そんなルクレティア陛下にレンさんはなんて声を掛けるべきなのかを迷っておいででした。ですが、そんなレンさんにベティちゃんが一喝するのです。
「おとーさん!」
「な、なんだい?」
「おかーさんをぎゅっとしてあげるの!」
「え、でも、この場では」
「いいから、さっさとしろなの! じゃないときらいになるの!」
「は、はい!」
ベティちゃんの恫喝じみた一言にレンさんは慌てて頷かれると、その勢いのままルクレティア陛下の元まで行かれると、後ろから抱きしめられました。……嫁の尻に敷かれる旦那はおれど、娘にお尻を蹴り上げられるおとーさんとはこれいかに。そう言いたくなるような光景でしたが、まぁ、野暮だなぁと思ってあえて言いませんでした。
もっと言えば、トゥーリア殿下はご存命ですよと伝えるのも野暮でしたし、どう言えばいいのかもわかりませんでした。だからその場での正解はベティちゃんの言った通り、旦那さんであるレンさんがルクレティア陛下を慰められるということだったのでしょう。
ベティちゃんの判断は正しかったようで、レンさんに抱きしめられたルクレティア陛下は目尻に涙を溜められていましたが、レンさんの腕にそっと触れられると「ありがとう、ございます」と言って背後に立っていたレンさんにそっと寄りかかられました。
その光景は絵になるものでした。とても微笑ましい一家のやりとり。一般的とは言えないものだけど、たしかな絆と繋がりを感じられるものでした。
「おかーさんのところのおまつりは、どんななの? たのしい?」
「……そう、ですね。オーベリっていう服を男性も女性も着られて、屋台の食べ物を食べたり、出し物を見て笑ったり、打ち上げられた花火を見たり、といろいろな楽しみ方がありますよ」
「……オーベリって、もしかして、広げたら一枚の布みたいだったり、お腹のところで専用の布製のベルトで絞めたりする?」
「ご存知なのですか?」
「あ、いや、似たような服を知っているだけなんだけど、そっか、この国ではオーベリって言うんだな」
「旦那様の知っているものとは違うかもしれませんが、聞く限りでは似ていますね。ちなみにオーベリは、女性のものだと様々な柄や模様がありますね。色も多種多様でして」
「……花火の柄とかもあるとか?」
「はい、たしかにそのような柄もありますね。やっぱり旦那様の知っているものとオーベリは同じなのかもですね」
「あぁ、そうだね」
「ばぅ、ベティのぶんもある?」
「もちろん、用意しますよ」
「ばぅん。ありがとうなの」
「いえいえ、どういたしまして」
ふふふと穏やかに笑われるルクレティア陛下。その目にはもう涙はありませんでした。わうずかに目尻に残っている程度でした。
一般的とは言えない家族ではあるけれど、幸せの形がそこにはたしかに存在していた。そんな幸せを為しているというのに、ルクレティア陛下は催淫の魔法を使用している。その理由がなんであるのか。それを問うことは正しいのだろうか。
私の中には疑問とためらいが同時に浮かび上がっていました。そのふたつをあえて見えないようにしながら、私は目の前にあるささやかだけど、たしかな形を為す幸せの姿をぼんやりと見つめることしかできなかったのでした。




