rev3-2 楽しい船旅?
見渡す限りが青だった。
周囲すべてを見渡しても、見えるのは彼方まで続く水平線だけ。
夜であれば、まだ方角は掴めるものの、昼間の海では方角を確かめることさえもできない。
そんなどこまでも続く海の上を私たちが乗る大型船は、帆を広げながら進んでいく。肌を打つ風は、普段浴びる風とは違い、少し肌をべたつかせてくれる。
コサージュ村の近くにも海岸はありました。
ですが、残念なこと海中は岩礁ばかりで、船で乗り入れることのできない残念な場所だったこともあり、コサージュ村で漁業関係者なんて人は存在しませんでした。
せいぜい岸から釣り糸を垂らす人が少しいる程度であり、その人たちだって専業というわけではなく、単純に暇つぶしや趣味で釣りをするという人であって、船を動かして大海原で魚を穫るという人はいませんでした。
そもそもコサージュ村には船なんてものはなくて、ほとんどの人は船という存在を知っているけれど、乗ったことがあるどころか、見たこともない人ばかり。私自身こうして船に乗るのは憶えている限りでは初めてのことでした。
だから、正直なことを言うと、船旅はわりと楽しみだったのです。レンさんたちが言うには、歩きは歩きで赴きがあるが、やはり船旅の方が圧倒的に楽だということでした。地上を歩くよりもはるかに速く移動できるし、寝ている間にも先に進んでいくもののため、首都「アルトリウス」までの道程よりも楽な旅路になるということだったのです。
私は頭脳労働を得意とする人種でありますので、歩きでの旅よりも楽だという船の旅には期待していたのです。
頭脳労働型とはいえ、辺境出身なので、体を動かすのが苦手というわけではありません。が、やはり楽をできるのであれば楽をしたいものです。それは誰だって同じです。好き好んで荊の道を進む人なんていません。
現に私はみずから荊の道を進む気なんて、さらさらありません。
だからこそ、船旅という自分の足で歩く旅よりも、はるかに楽だと言われる船旅を楽しみにしていたのです。そう、楽しみにしていました。だというのに、なんででしょうね? どうして私はいつもこんな目に遭ってしまうのでしょうか。
「……おろろろろろ」
船員さんに貸していただいたバケツに顔を突っ込ませながら、私は胃の中のものを逆流させていました。朝食にと用意して貰った果物の残骸が、胃液混じりになってバケツの中に溜まっていく様は、我ながら気持ち悪いなぁと思いますね。あ、そう言っているとまた吐き気ががががががが。
「……おぅふ」
息を切らせながら、再び胃の中身を逆流させていく私。よく晴れた空とどこまでも続く水平線、なんの遮蔽物もない海上で唯一火照る体を和ませてくれる、ややべたつく潮風。それらすべてを体感できる甲板で私はひとり死にかけております。
「……アンジュおねーちゃん、ばっちいの」
うわぁと若干引いた顔をしながら、ベティちゃんがまるで汚物を見るかのような目で私を見つめています。
そんなベティちゃんを抱っこしながら、イリアさんは「……もう少しオブラートに包みましょう、ベティちゃん」とベティちゃんを窘めてくれていますが、その実私を見やる目はベティちゃんとさほど変わらない目をしてくださっていますね。私にはわかるんです! だって念話で「もう少し隠れた場所でやんなさいよ」とお小言をいただいていますからね! どう考えてもイリアさんも私を汚物同然に扱っているというのが明らかです!
「……また吐き気が」
感情が高ぶると再び吐き気ががががががが。顔を上げることもできないまま、私はバケツに顔を突っ込ませたまま、沸き起こる感情とともにそれを吐露します。もう口の中が酸っぱくて酸っぱくて仕方がありません。でも、その酸っぱさが呼び水となってですね。終わらないんです。エンドレスなんです。ダレカタスケテクダサイ。
「……あー、少し水を飲んだ方がいいぞ」
レンさんは気遣うように背中を撫でてくれました。背中を撫でながら、そっと真水の入った水筒をくださいました。
「まずは少しうがいしろ。飲むのはそれからだ」
ため息交じりのレンさんの言葉に頷きながら、水筒の水を少し口に含んでうがいをして、それから水をゆっくりと飲んでいく。すると、気持ち悪さはなくなりませんけれど、酸っぱさはなくなりました。
「……ありがとう、ございます、レンさん」
「気にしなくていい。船酔いしたら自分ではどうしようもないからな」
「……はい。めちゃくちゃきついです。早く地面に降りたいです。揺れない地面の上でゆっくりしたいです。うぷ」
「あー、無理して喋らなくていいから。吐けるだけ吐いたら、ちょっと横になっていろ。それで少しはましになると思うから」
「……ふぁーい」
「だから無理に、まぁいいや。とりあえず、出せるものはぜんぶ出したか? 頷くだけでいいからな」
レンさんの言葉に私は、ゆっくりと頷きました。もう頷く以外に意思表示をする手段がありません。そんな私に「よし」と頷きつつも、レンさんはその場でそっと私を寝かしつけてくれました。
それから濡らした布を私のおでこに置いて、船員さんから借りた扇で扇いでくださいました。周囲を海に囲まれているから、扇で扇いでもその風はやっぱりべたつきを感じましたけど、それでも無風よりかははるかにましでした。
「……むぅ。アンジュおねーちゃん、ずるいの」
ぷくっと頬を膨らまして不満を露わにするベティちゃん。そういうところもかわいいですねぇと普段なら言えるんですけど、いまはそんな余裕なんて皆無です。あるわけがないのです。
「まぁまぁ」
イリアさんは、不満げなベティちゃんを宥めておいでですが、その内心は穏かとは言えないようで、「勘違いしないでね? それはあなただからしてもらっているわけではなく、見苦しいからこそしてもらっているだけだから。ただ単に同情心でやってもらっているだけなんだからね」と釘を刺してくださっていますね。まぁ、いまの私にとやかく言える余裕はありませんので、ほぼ聞き流しですけどね。
「レン。船員たちから聞いたが、明日には陸地が見えるそうだ」
そう言って、グロッキー状態な私の元へと駆けてきたのは、船員さんたちからいろいろと借りてきてくださったルリさんでした。いろいろと借りてきてくださいつつも、目的地となる「リヴァイアス」までの距離を聞いてくださってくれたみたいです。
まぁ、あくまでも今日このまま順調に航海できればではあるんでしょうが、明日には陸地が見えてくるということに、少しだけ気分が楽になりました。あくまでも少しだけですし、気休めに近くはありますが、明日まで我慢できれば、この地獄のような状況から抜け出すことができる。それはまさに一筋の光明と言えるものです。まぁ、逆に言えば明日までこの地獄が続くということでもあるんですけどね。
「明日か。まだ当分先だな」
「まぁな。だが、光明にはなるであろう?」
「こいつ次第だよ」
やれやれとため息を吐きながら、「気分はどうだ?」と風を送ってくれるレンさん。そんなレンさんに私は「……いくらかましですぅ」とだけ答えました。そんな私に「……まぁ、頑張れ」となんとも言えないことをレンさんは言ってくださいました。
まぁ、レンさんにしてみれば、どうしようもないことですからね。そう言うしかないのでしょう。
「大丈夫か、アンジュ殿?」
「……だいじょばないです」
「そうか。まぁ、明日には陸地だから、それまで頑張ってくれ」
「ふぁーい」
「……あまり無理して返事しなくてもいいぞ?」
ルリさんは苦笑いしつつも、私の頭を少し持ち上げられると、甲板との間にご自身のふわふわな尻尾を差し込まれました。枕代わりにということなのでしょうね。普段であれば、ふわふわな尻尾に、極上の幸福を感じていたことでしょうが、いまは船酔いという地獄の最中にあるため、せっかくのルリさんのふわふわな尻尾をちゃんと味わえないという、まさに生殺しな状況に追い込まれているのです。
どうして神様という存在は、いつもいつも私に試練を与えてくださるのでしょうね。理不尽すぎませんかね?
「しかし今日は昨日よりもひどいなぁ。昨日はもうちょっとましだった気がするんだが」
「……反動だろうな。昨日までで結構回復したからって、それまで伏せていた分を取り返そうとしたことで、ぶり返したんだろうな」
「あぁ、なるほどな」
ルリさんの疑問にレンさんが呆れたように返事をされました。そう、すべての元凶は昨日の私の愚かな行いのせいです。
昨日はそれまでの苦しみが嘘だったかのように、だいぶ船酔いが軽かったのです。どうにか慣れてくれたのかと思って、ついはしゃぎすぎてしまい、それまでまともに食べられなかった食事もいつもよりもやや多めに食べてしまったのです。その結果がいまです。それまでの遅れを取り戻そうとしたがゆえに、それまで以上に症状が悪化してしまったのです。自業自得と言われたら、否定できませんね、はい。
「とりあえず、次に船に乗ったら、今回のような失敗はすんなよ」
「……はい」
「まぁ、これだけの目に遭えば、同じことをしようとは思わんだろうよ」
「甘いな。こいつがそんな学習するわけねえだろう」
「あぁ」
なるほどと言わんばかりに頷くルリさん。そんなレンさんとルリさんのやり取りに言い返してあげたいところですが、そんな余力など欠片もないため、私はただ項垂れたまま、船の揺れを感じながらも「早く陸地に着かないかなぁ」と心の底から思うのでした。




