rev2-Ex-5 真体
空気が漏れていく。
ごぼごぼと唇の端から空気が漏れていくのだけど、不思議と息苦しくはなかった。
私がいるのは水の中。もっと言えば、大きな試験管の中いっぱいに注がれた培養液らしきものの中にいる。
その培養液が口の中に入り込んでも、どうしてか息苦しくはなかった。
水中にいて、水が口の中に入り込めば、息苦しさとともに意識が朦朧となりそうなものなのだけど、この培養液らしきものを飲み込んでも、ちっとも息苦しさは襲ってこなかった。
加えて、お腹が空くということもないし、喉の渇きに至ってとは完全に無縁だった。そうなると排泄とも関係はなくなってしまう。
ある意味では、この試験管の中はとても快適だった。
ただひとつ、問題というか、不満があるとすれば、体が動かせられないということ。
とはいえ、四肢欠損しているというわけじゃない。
視線を動かせば、両腕両脚ともにちゃんと健在だった。
なら、なんで動かせないのか。
その理由は、シリウスちゃんが教えてくれた。
『この水は、特別な魔法でできたものみたい。一口でも口にすると、強制的に昏睡状態になるそうなんだ』
シリウスちゃんは、体を丸めながらそう語ってくれた。
本来なら声なんて聞こえない水中。
それでも私にはシリウスちゃんの声を聞いていた。
正確には頭の中にあの子の声が響いていると言う方が正しい。
『……シリウスちゃんは物知りさんだね』
シリウスちゃんが教えてくれた内容は、いまいち理解が及ばないことだった。とはいえ、それはシリウスちゃんも同じ。「らしい」とか「そうなんだ」とか言うのは、本人も理解していないというなによりもの証拠だもの。
物知りさんだって言った後に、シリウスちゃんは「聞きかじっただけなんだけどね」と苦笑いしているようだった。
苦笑いと言っても、あくまでもそういう声だったってだけ。実際にシリウスちゃんが苦笑いしているのかはわからない。なにせ、私もシリウスちゃんもこの特殊な培養液らしきものの中にぷかぷかと浮かんでいて、お互いに見た目の上では意識がないように見えるためだ。
『……ノゾミママは相変わらずだよね』
『うん?』
『こんな状況だっていうのに、超然としているというか、いつも通りなんだもの。……私から見れば、とてもとても遠い日々のことではあるけれど、ママはなにも変わっていないもの。あの頃のママのままだもの』
『……そう、なんだ』
『うん、そうだよ』
シリウスちゃんは嬉しそうだった。私がなにも変わっていないことが嬉しくてたまらないみたい。
ただ、それを言われた私としては、少々反応に困ってしまう。
シリウスちゃんが言うには、私はなにも変わっていない、らしい。
らしい、というのは私自身で私のことがまだわかっていないからだ。
この培養液の効果で強制的に昏睡状態に陥っているためか、私はいまだに私が誰なのかをまだ思い出せていない。
ただシリウスちゃんのおかげで、私のパーソナルデータというか、私がどういう人物なのかは知ることができた。
私の名前は、アマミノゾミ。シリウスちゃん曰く、こことは違う世界から来た16歳の少女ということだ。
こことは違う世界ってどういうことなのかと聞けば、シリウスちゃんは異世界から私が来たのだと教えてくれた。
異世界から来た。その言葉に私の頭に何気なく浮かび上がったのは、「異世界転生」とか「異世界転移」というものだった。そのままの言葉を口にすると、シリウスちゃんは「転生ではなく転移になると思う」と言っていた。そして「なんでそんな言葉はわかるの」と不思議そうに言っていた。
でも、聞かれても私には答えようがなかった。なんとなく頭に浮かんだ言葉をそのまま口にしただけだった。だから「なんで」と言われても、「さぁ」としか答えようがなかった。
そんな私にシリウスちゃんは「……パパのせいかなぁ」と若干ぼやいていた。ぼやきながらも、その声色はどこか楽しそうだった。
「パパ」というのが誰なのかはわからなかった。でも、私が「ママ」であるのであれば、私にとっては旦那さんみたいな人になるのだろう。そう思ったとき、不意に頭に浮かび上がった光景があった。
夜空を思わせるような真っ黒な髪。
髪と同じ色をした強い意志の籠もった瞳。
見た目はかわいらしいのに、てんで残念な性格。
でも、誰よりもまっすぐで、誰よりも危なっかしくて、そして誰よりも優しかった人。その名前を私は口にしていた。
「かれん」
ぽつりと呟いた名前。その名前は培養液によって泡となって消えていく。けれど、たしかにその名前を私は口にしていた。
『……よかった。パパのことは憶えてくれているんだね。まぁ、それも当然か。あんなにもラブラブだったもんねぇ』
やれやれと若干の呆れを込めてシリウスちゃんは言った。
呆れているけれど、それ以上に嬉しそうでもあった。
『……かれんがパパなの?』
『そうだよ。私の大好きなパパ。……本人の前だと絶対言わないけれど』
『なんで?』
『……だって恥ずかしいし。それにパパにそんなことを言ったら、感極まってウザ絡みしてくるだけだもん』
シリウスちゃんは私とは違って、かれんにはだいぶ辛辣みたいだ。ただ、辛辣ではあるけれど、大好きであることは間違いなさそう。辛辣なのはただのポーズ。素直になれないだけ。つまりシリウスちゃんは──。
『──つんでれさんなんだね』
『だから、なんでそんなことばかり憶えているのさ!?』
ごぼぼぼと盛大に空気を漏らしながら、シリウスちゃんが叫んだ。
どうやらシリウスちゃんは、本当につんでれさんのようだ。つんでれさんとは言うものの、それがどういう人であるのかは、いまいちわからない。わからないけれど、なんとなくシリウスちゃんみたいに、好きな人に対して素直になれない人のことかなとは思った。
……同時になぜか妙に身に覚えがあるというか、やけに共感できるような、不思議な感覚に陥ってしまった。これは、あれかな? 私もシリウスちゃんと同じでつんでれさんだったってことなのかもしれない。
そのことを尋ねてみると、シリウスちゃんは「あー」と妙に納得したような、なんとも言えない声を出してくれた。どうやらシリウスちゃんの目から見て、私もつんでれさんだったようだ。
ということは、私とシリウスちゃんは似たもの親子ということになる。まぁ、似たもの親子にしては見た目がだいぶ違うし、シリウスちゃんの方が年上にしか見えないのだけど。それでもシリウスちゃんは私とシリウスちゃんは親子だって言ってくれた。
『ノゾミママと一緒にいられたのは、ほんのわずかな時間だけだったよ。それでも私はノゾミママを「ママ」だっていまでも思っている。パパの隣に相応しいママのひとりだって思っている』
シリウスちゃんはなんとも答え辛いというか、なんて言えばいいのかわからないことを言ってくれた。ありがとうと言えばいいのか、それともそんなに慕ってくれているのに、ぜんぜん思い出せなくてごめんねと謝ればいいのか。判断がつかなかった。それに加えて少し思うところがあった。
『……ねぇ、シリウスちゃん? ママのひとりってどういうこと?』
そう、シリウスちゃんが言った「ママのひとり」っていう一言が、やけに気になった。
普通パパとママは、シリウスちゃんの両親にあたる存在というのはひとりずつのはず。なのにシリウスちゃんはまるで複数いるように、「ママ」という存在が複数いるような言い方をしてくれた。
もしかしてシリウスちゃんにはパパとママが複数いるのだろうか。現に私のことを「ノゾミママ」と呼んでいる。単純に「ママ」って呼べばいいだけなのの、わざわざ名前を付けている。それが意味することは、「ママ」だけでは誰のことを呼んでいるのかがわからないからということ。要するに、「ママ」が複数いるということになる。
でも、さすがにシリウスちゃんみたいに大きな娘がいるというのに、女性をとっかえひっかえするというのはないだろうから、きっと勘違いだろうなぁと思っていた。でも、現実はとても厳しかった。
『だって、ママは何人もいるもん。ノゾミママの他にも、プーレママ、サラママにエレーンママとレアママ、そしてカルディアママと5人もいるもの』
はっきりと言い切ったシリウスちゃん。その言葉に私は声を失う。声を失いながらも、じゃあパパも最低でも5人いるんだなぁと思ったのだけど、そこでふと気づいた。
そういえば、かれんのことは「パパ」と呼んでいたけど、「かれんパパ」とは言っていなかったなぁということに。それはつまり「パパ」の名前を口にする必要がないということ。「パパ」はひとりだけだっていう証拠じゃないかと思ったのだけど、さすがにとっかえひっかえはない。そう思いたかった。
だけど、やっぱり現実は厳しかった。
『パパ? パパはパパだよ? ママたちはみんなパパのお嫁さんだもん。パパが見境なく口説き落としたから、ノゾミママを含めて7人いるもの』
『……6人じゃなく?』
『ううん、7人。もうひとり私にとってはママじゃないけれど、私の妹のカティにとってはママにあたる人も、お嫁さんだからね』
6人いるってだけでも絶句モノだったというのに、まだ他にもいたという現実に私は手も足も動かせない状況だっていうのに、頭を抱えたくなってしまった。これ以上にとっかえひっかえという言葉が似合うこともないだろうとさえ思ってしまった。加えて娘がもうひとりという現実が、より私を打ちのめしてくれる。
『ちなみに、ノゾミママとカルディアママが正妻って感じかな?』
『……そ、そうなんだ」
『うん。他のママたちも虎視眈々と正妻の座を狙っているね。正妻戦争ってみんな言っていた。で、その戦争が起きるたびにパパは命を狙われることになって、「ダレカタスケテぇぇぇ」と言って泣き叫びながら逃げては、ママたちに追い詰められていたよ』
『……そっか』
私はもう頷くことしかできなかった。
その一方で、見たこともない光景だというのに、やけにはっきりと想像することができるのは、なんでなのかがわからなかった。
わからなかったけれど、深く考えると負けた気になりそうだったので、あえてなにも考えないことにした。
言えることがあるとすれば、「ダレカタスケテぇぇぇ」と言って逃げたところで、手助けしてくれる人は誰もいないと思うよということくらい。
誰だって馬に蹴られたくはないものね。
『他に知りたいことってある?』
なんとも言えない気分になっていると、シリウスちゃんは他に知りたいことはあるかと聞いてくれた。
他にはないよと言えればよかったのだけど、残念ながらそれは言えなかった。
というか、そもそもの話、現状がなによりも謎だった。
どうして私は培養液の中にいるのか。
ここはいったいどこなのか。
シリウスちゃんがそんなに体が大きいのはなぜなのか。
聞きたいことはいろいろとありすぎていて、どれから聞けばいいのかはさっぱりとわからなかった。
わからないことだらで、混乱することばかりで、かえって頭の中がクリアになっているけれど、それでも現状はなにひとつ好転してはいなかった。そんな中で聞けることがあるとすれば。いや、真っ先に聞くことがあるとすれば、それはひとつだった。
『……私はどうなるのかな?』
そう、意味不明すぎる状況ではあるし、シリウスちゃんにも答えられないことだろうけれど、私はこれからどうなるのか。それを真っ先に知りたかった。シリウスちゃんだってとらわれの身である以上、答えられることではないというのはわかっている。それでも聞かずにはいられなかった。そんな私の問いかけにシリウスちゃんはいくらか躊躇しながらも答えをくれた。
『ノゾミママを攫った理由は、ただひとつ。女神の真体を新しく作るためだよ』
シリウスちゃんが言ったのは、やっぱり意味のわからないことだった。そんな私の反応を理解していたからか、シリウスちゃんは続けた。
『すべては母神がふたりになったときから、始まったことなんだ』
そう言ってシリウスちゃんは、ゆっくりと語り始めた。それはこの世界の真実、遠い遠い過去のお話だった。
これにて二章はおしまいです。次回から三章になります。




