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rev2-Ex-4 彼の地に待つもの

 冷たい水だった。


 森の中を歩いていたら、いきなり現れた小川の水だ。


 大股で数歩分くらいの幅の小川で、水深はかなり浅く、せいぜいベティの膝くらいか。


 そんな小さな川だからだからか、小川の底にはいくつもの足跡や車輪の跡が見えることから、大抵の人はまっすぐに突っ切っていくのかもしれない。わざわざ橋を架けるほどの川ではないというのは見た目からして明らかだ。


 ただ、夜営地という面で言えば、わりと利用されているようだ。その証拠に川岸には夜営をしたであろう焚き火の痕跡がある。だが、そこらかしこにあるというわけではなく、両岸に数カ所ずつある程度だ。


 実際、夜営するにしても水源の有無はかなり重要だった。


 どんな生物でも、水というのは重要だ。たとえ数日間空腹ではいられたとしても、数日間水を断つというのはできない。水を飲まないというだけで生物は簡単に死んでしまう。その逆で水を飲みすぎるのはかえって危険だった。何事もほどほどがちょうどいいんだろう。


 小さな川ではあるけれど、森の中に不意に現れた水源だ。それもちゃんとした流れのある水源。終着点である湖や沼のものとは違い、一方通行の湖や沼の水などとは違って、ちゃんとした流れに乗っての水だから、水はかなり透き通っていたそれも触れると芯まで冷えてしまうほどに冷たい水だ。


 視線で辿っても、小川の流れてきた先はもちろん、下った先も森の木々によって隠されていて、見通すことはできない小川だけど、木々の向こう側には山が見えた。おそらくはあの山に積もった雪が解けることでできた川なんだろう。雪解けの時期だけに存在する川というのはどこかで聞いたことがある。


 この国は雪国だけど、さすがに万年雪というわけじゃない。一年の大半が冬であっても、ちゃんと雪解けの春は訪れる。気づけば、なんだかんだでもう雪解けの時期にはなっていた。

 この国に来たときは、まだ冬のまっただ中だった。


 どれだけの期間、この国にいるのかということは、この国に来たときはまだ決めてもいなかったが、なんだかんだで数ヶ月は過ごしたことになる。


 この世界に来てから、一国にそんな長い期間滞在したことはなかった。本拠地であればまだしも、滞在先にそんな長い期間はいなかった。せいぜい一ヶ月かそこらくらいだ。


 そんな長い期間を過ごした国とも、そろそろお別れとなる。


 とは言っても、予定の港町まではあと一週間以上は掛かるようだから、今日明日出て行くということじゃない。


 だが、一週間なんてあっという間だ。


 気づいたら、過ぎているようなわずかな時間だ。


 この国で過ごしていられるのが、あとわずかであることには変わらない。


 そのことをぼんやりと考えながら、俺はひとり小川の水を頭から被っていた。


 全身で浸かれるほどの水深はない。


 けれど、浴びる程度ならなんとかなる。


 日本人としては風呂に入りたいところだけど、旅の空でそんな贅沢はできないし、旅の間、水は貴重品だった。この世界では魔法という概念があるけれど、それでも水が重要なものであることには変わりない。


 その水を沸かして風呂に入るというのは、普通に考えれば贅沢にもほどがある行為だった。当然一介の冒険者であるいまの俺に、そんな贅沢な真似などできるわけもない。


 できたとしても、湖や沼などを見つけたら、裸で浸かることくらい。


 ただ、その湖や沼にしても危険な生物や魔物が棲み着いている可能性があるから、下手に入ることもできない。


 風呂に入れるのはせいぜい街の宿、それも大きめの宿に泊まったときくらいだ。


 小さな宿には風呂なんてものはない。


 せいぜいがお湯を買って、部屋で体を拭く程度だ。


 この世界に来て、もう一年以上。その間に風呂に入れないということにはどうにか慣れることができた。


 慣れることができても、風呂に入らなくてもよくなったというわけじゃない。入れるときには入りたいと思うのは、やはり日本人特有のものなんだろう。もしくは、若干ある乙女としての矜持ゆえか。我ながら乙女とは言い切れない言動をするとは思っているけれど、性別上は女であるから、やはり身だしなみの一環として風呂には入りたくなってしまうんだろう。

 実際、こうして水浴びをしてはいるけれど、水ではなく湯に浸かりたいという欲求に駆られていた。


 その欲求を満たそうと思えば、やりようはある。


 たとえば、魔法で地面を陥没させるか、逆に地面を浮かび上がらせるなどして、水を注げる空間を作り、その中に水を注ぎ、注いだ水の中に火の魔法を撃ち出して、お湯にすれば即席の風呂ができあがる。


「魔大陸」にいるときは、そうやって即席の風呂を造り出して入浴することは結構あったし、いまだってその気になればできる。


 ただ、いまはそれができない。


 アンジュがいるから、即席の風呂を造り出すことができない。


 正確にはアンジュがいると、仮面を外せないというのが理由だ。


 せっかく風呂に入れるのに、わざわざ仮面を着けたまま入る気にはなれない。


 しかし、アンジュがいると仮面を外せなかった。


 アンジュは俺の正体を知らない。


 だから仮面は外せなかった。


 あとアンジュがベティの入浴を覗きかねないということも、理由と言えば理由か。……正直女性相手の理由にしては、だいぶおかしい気はするのだけど、それがあいつの業であるかして無理からぬことだった。


 まぁ、そんなわけで風呂に入れないため、俺はこうして水浴びで済ませていた。


 すでに夜なうえに、雪解けの水での水浴びはかなりきついものがある。


 というか、冷たすぎて体が冷え込んでしまいそうだ。


 それでも一日歩き通した汗を流したいという欲求には勝てない。


 それは俺だけじゃなく、アンジュやイリアも同じだった。ベティは「つめたいからや」と嫌そうに頭を振っていたけれど、ルリに連れられて無理矢理水浴びをさせられていた。


 ちなみにアンジュはその光景を覗こうとしていたので、イリアに頼んで羽交い締めにさせた。その際俺はアンジュの視線を塞ぐようにして、ベティとルリの前に立っていたのは言うまでもない。アンジュは「後生ですからぁぁぁ」と叫んでいたが、ロリコン女にかわいい愛娘の柔肌を見せにゃならん法律はない。


 とにかく、そうして俺以外のメンバーの水浴びが済んだ後、俺はひとり水浴びをしていた。水浴びと言っても裸になっているわけではなく、濡れても問題ない肌着を着た上で水を浴びていた。


 言動的に男ではあるけれど、やっぱり性別上は女であるからして、周囲に人の気配はないとしても大自然のまっただ中で裸になろうとは思えなかった。


 これが浴場内というのであれば、裸でいるのが当然の場所であれば構わないけれど、そうでないのでれば、そういう肌着を用意するのは当然のことだ。


 俺以外のメンバーも全員そういう肌着を着た上で水浴びをしていた。ただ、やはりというべきか、アンジュはベティが着替えるのを覗こうとしていたのは言うまでもない。本当に懲りない奴だなとつくづく思うよ。


 まぁ、とにかくだ。


 ようやく順番が回ってきて、俺はこうしてひさしぶりの水浴びを堪能していた。


 首都を出て早数日。いままではせいぜい体を拭く程度で済ませていたのが、今夜はこうして水浴びができるというのはなかなかに恵まれたことだ。


 できるなら、熱い湯に浸かれれば一番いいのだけど、熱い湯に浸かるとなると、さすがに贅沢すぎるし、やはり裸一貫で入りたいという気持ちが沸き起こるので、どうしても素顔を隠す仮面を外したくなってしまう。


 アンジュがいないのであれば、その選択もありだったけれど、アンジュがいる以上はその選択はできない。


 それでも水を全身に浴びれるだけ、この数日よりかは恵まれていた。だから文句を言うつもりはない。


「……こんなもんかな」


 ある程度水を被ったところで、水を汲むのをやめた。


 そろそろ体が冷え込んできたというのもあるけれど、単純に腹が減ったし、野営地の方からいい香りが漂ってきている。イリア手製のスープの香りだった。


 冷え込んできた体を温める兼夕食だった。メニューは香草と塩漬けの肉のスープに、保存用の固いパンというもの。ベティは王城を発つ際にメイドさん方から渡された保存が利くスイーツのうちからのひとつとなる。


 ベティの偏食には相変わらず手を焼かされるけれど、俺自身人のことが言えた義理でないから、あまり強くは言えないし、ベティの場合は事情が事情だから致し方がなかった。


「……まだ一週間以上、か」


 首都を出て数日経ったが、予定の港町にはまだ遠い。


 ただ港街から船に乗れば、「リヴァイアクス」の首都である「リヴァイアス」はすぐだ。予定では船で数日ほどになるということらしい。


 その船旅にしても、ゆっくりとすることはできないだろう。俺は問題ないけど、ベティとアンジュが船酔いしそうだ。その相手をしている間に、「リヴァイアス」には着くだろう。仮にふたりが酔わなかったとしても、イリアとルリといろいろと話し合いをすることもあるので、船上で物思いに更ける時間はほとんどないと考えるべきだ。


「……海王リヴァイアサン」


 頭に浮かぶのは、モルガンさんから聞いた「海王リヴァイアサン」と名乗る少女のこと。プーレにとてもよく似た謎の少女のこと。


 プーレ本人というわけじゃないだろう。


 でも、そう思ってしまうほどに「海王」はプーレにそっくりだった。悲しいほどに似すぎていた。他人の空似と断ずるにはいくらか無理がある。


 でも、プーレはたしかに俺の腕の中で事切れた。ぬくもりを喪った彼女の感触を、俺はいまだに憶えている。


 だからプーレではないと言い切れる。


 だけど、ならなんでプーレそっくりの少女が「海王」なんて大それた名前を名乗っているのかがわからなかった。


 ただひとつ言えることがあるとすれば、「海王」とやらの背後には確実に神獣であるリヴァイアサン様がいるということか。


 でなければ、あの気難しそうなリヴァイアサン様が、自身の名前を名乗る謎の少女を放置しているのは考えられない。


(……なにがなんだか、まるでわからないけれど、少なくとも「リヴァイアス」で穏やかな日々は得られないと思った方がいいだろうな)


 そう、少なくとも「アルトリウス」で過ごした日々のような、穏やかな時間は「リヴァイアス」内では無縁となると考えるべきだ。


 とはいえ、敵地に赴くというわけではないから、常に気を張るというのはどうかとは思うが、油断ができる状況でもないと考えるべきだ。


(鬼がでるか、蛇が出るか、か。……本当になにが出てきてもおかしくない場所だな)


 敵地ではないけれど、あくまでも敵地ではないというだけだ。「リヴァイアス」でなにが起こるのかは、まるで想像もできない。ただ、ひとつ言えるのは、「海王」と面を合わせることは避けられないということくらい。


 事を構えるところまではしたくないが、場合によってはそこまで行き着く可能性も十分にあった。


 敵地ではないけれど、敵地に赴く以上に厳しい展開が待ち受けていると考えた方がよさそうだった。


「レンさぁーん。そろそろご飯ですよー」


 不意にアンジュの声が聞こえた。


 同時にアンジュの足音も聞こえてくる。


「いま行く」と返事をしながら、近くに置いてあったタオルで体を拭いていく。体を拭き始めてすぐに、アンジュが顔を出してきた。が、すぐに顔を引っ込めてしまった。


「す、すいません。まだ準備整っていなかったんですね」


「気にしなくていい。見られて恥ずかしいもんでもねえ」


「ですが」


「……まぁ、とはいえ、着替えを見られるのはなんだから、少しあっちを向いてくれよ」


「は、はい」


 アンジュはなぜか頬を赤くして、そっぽを向く。変な奴だなと思いながら、体を拭き終えるといつもの服へと着替えた。


 服を着替えても、夜の寒さと水の冷たさによって、体はすっかりと冷え込んでしまっていた。


 だが、その分、かなりすっきりとした。やはり汗を流すのは気持ちがいい。


「待たせたな、行くぞ」


「は、はい」


 アンジュはまだ顔を赤くしていたが、俺はそんなアンジュを無視して、みんなの待つ野営地へと向かう。


 まだ時間はある。


 だが、たっぷりとあるわけじゃない。


 わずかに残された時間の中で覚悟を決めよう。


 たとえ、彼の地でなにがあっても、自分を見失わないでいられるように。


 そんな覚悟をあとわずかな日々の間で培えるように。


 そう思いながら、みんなの待つ野営地にと俺はアンジュとともに向かっていった。

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