rev2-110 愛する祖国の王
空が目の前にあった。
一点の穢れもない、きれいな空。
でも、その空は頭上にはない。空は目の前にいる少年の双眸に宿っていた。
空色の瞳が私をまっすぐに見つめていた。
その穢れのない瞳を向けながら、彼は言った。
「あなたと私の想いは重なっているのかを」と。
その年頃の少年が、それこそつい先日数年ぶりに目覚めたばかりの少年が口にする言葉じゃない。
でも、目の前にいる方はまだ10歳の少年だった。
故郷の子供たちの中には彼と同い年の子たちはいる。でも、その子たちでは決してそんな歯が浮くようなセリフを口にすることはない。
けれど、彼は口にした。
言われた私としては、すごく恥ずかしくなる。
言った本人ではなく、言われた相手である私が恥ずかしくなるほどの言葉。
でも、その一言を告げた彼は決して恥ずかしがることはなかった。
それどころか、一切視線を逸らすことなく私を見上げていた。
片膝を突き、私の右手を優しく取って、その甲に口づけを落としてくれた。
お伽話や舞台であれば、ありえるであろうシチュエーション。創作の中でしか大部分の人は見ることが叶わないはずの光景。
でも、その光景を私は目の当たりにしたうえに、経験していた。
どう答えればいいのかがわからない。
はっきりと言って、どうして彼が、アーサー様が私に求婚されているのかが理解できない。
当代の国王様という意味であれば、私はたしかに以前から求愛されてはいた。
でも、私がいままで求愛されていた当代の国王様といま私の目の前にいるアーサー様は別人だった。
アーサー様の振りをしたトゥーリア殿下──の姿をしたトトリさん。それが私に求愛していた当代の国王様の正体だった。
先王様が仰るには、トトリさんの言動はアーサー様そのものだったそうです。そしてその好悪もまた。つまり、アーサー様が好まれる女性像に私はぴたりと重なってしまうそうです。
ですが、残念ながら私はアーサー様とそれほど触れ合ったわけではありません。
せいぜい少し挨拶を交わした程度のこと。
トトリさんが扮した国王様とは違い、いまのアーサー様と過ごした時間はほぼ皆無と言っていいでしょう。
だというのに、アーサー様は私に求愛されている。
なにがなんだかわからないというのが正直な私の感想です。
むしろ、私をからかっているのではないかと邪推してしまうほどです。
でも、からかっているわけではないことを私は誰よりも理解していた。
アーサー様はじっと私を見上げている。
空色の瞳には穢れはない。
でも穢れはなくても、その目は不安に揺れていた。
その不安は雄弁に物語っている。
「断られてしまうのだろうか」と。
当然なことです。
告白をするということは、その後の展開がどうなるのかなんて限られてしまうのですから。
つまりは断られるか、受け入れられるのかの二通り。
中には少し時間が欲しいと答えを先延ばしにするということもある。
けれど、先延ばしというのは基本的には否定的な意味合いが強い。
本当に受け入れるのであれば、即座に返事はするでしょう。
でも、即座に返事ができないということは、否定的な要素があるから。
受け入れてもいいけれど、否定的な部分が少なからず存在しているということ。
一度保留させてもらったうえで、その否定的な部分と折り合いがつけられるかどうかを確かめたい。
それが先延ばしにするという答えの理由。
中には断る口実作りのために期間を設けるためということもあるでしょう。
でも、それは真摯的な対応とは決して言えないことです。
私だったら、少なくともそれを真摯に対応するためとは言わない。
だからといって、お試し感覚に付き合うというのもまた真摯とは言えない。
こういうときはきっちりとYESかNOかをはっきりと告げるべきです。
曖昧な返事は必要以上に相手を傷つけるだけし、余計な期待を持たせてしまうだけ。その期待がいい意味で現実になればいい。けれど、真逆の意味合いになってしまえば、その期待の大きさの分だけ相手が傷つく。
だから、時間をください、という答えを口にするつもりはありません。
とはいえです。
さきほども言った通りに、「なんで私に」という気持ちはたしかにあった。
トトリさんたちが話されたトゥーリア殿下の真実では、アーサー様はトトリさんに恋心を抱かれていたようでした。
トトリさんはあか抜けないところはありましたけれど、評判になりそうなくらいのかわいい方でした。そんなトトリさんにアーサー様が恋するというのは理解できるのです。
でも、なんで私に求婚されているのかがわからない。
国王様は私がアーサー様の好みの女性像そのものだと仰っていましたけど、一緒に過ごした時間がほぼ皆無な私に求婚する理由にはなりません。
好みの女性だからといって、一目惚れするわけじゃない。
私だって好みの男性がいたとして、その好みの男性像そのものな人が目の前に現れても、それだけで一目惚れするかと聞かれたら頷くことはできません。
でも、アーサー様はほとんど知らないはずの私相手に求婚されている。
なぜ、そんなことをされるのか。
どうして私なのか。
その疑問に答えるだけの理由が私には存在していなかった。
「……あの、アーサー様」
「なにかな?」
「ひとつだけお聞かせください」
「なんなりと」
「……私とあなた様は、一緒に過ごした時間はほとんどないはずです。なのに、なぜ私を? 他の方からお聞きされているかもしれませんが、私はギルドのマスターとはいえ、元々はただの村娘です。それも辺境にある小さな農村の娘です。そんな私になんであなた様のような貴いお方が求婚されるのか。その理由が私にはわからないのです。あなた様に求婚されることはとても光栄なことです。ですが、それが理由で求婚を受け入れるというのはあまりにも失礼です。ですから、どうか納得できる理由をお聞かせください」
私が口にした内容はそれこそ失礼に値すると言われかねないものでした。現にレンさんのそばにいたイリアさんは頭を抱え込んでおられますし、きっと私の発言のありえなさに頭が痛いのでしょうね。
ですが、そんな私の言葉にアーサー様は怒ることもなく、呆れることもなく、ただ微笑まれました。
「……信じてくれるかはわからないのだが、私はあなた方と一緒に過ごしていないわけではないのだ」
「え?」
「……私はたしかにずっと昏睡状態にあった。だが、決して意識がなかったわけではなかった。とはいえ寝たふりをしていたわけではない。単に私の意識はこの身に宿っていなかったというだけのことだ」
「……それってつまり?」
「うむ。私の意識は常に姉上、いや、姉上に扮したトトリとともにあった。いわば私は彼女を通してあなた方ととともに過ごしていた。どうしてそんなことになっていたのかは私にもわからないが、あなたがどのような人であるのかを私は知っている。あなたを知るたびに私の想いは募っていた。触れ合えることのない日々を過ごすたびに、気が狂ってしまいそうなほどにあなたに夢中になっていった」
「……えっと」
「信じてくれとは言わない。私自身信じられない日々だったしな。だが、それでも、それでもこの胸に宿った想いは本物だ。偽物なんかではない。私はあなたを心の底から愛している」
アーサー様はまっすぐに私を見上げながら、はっきりと私への想いを告げられた。あまりにもまっすぐすぎる言葉が恥ずかしかったけれど、悪い気はしなかった。
「アンジュ殿。私はあなたが欲しい。あなたとともに日々を過ごしていきたい。私はこの国の王として、いや、ひとりの人間として全身全霊を以てあなたを幸せにすると誓う。だから私とともに生きて欲しい。私のそばで私を支えて欲しい。私の伴侶になって欲しい」
まっすぐな瞳。まっすぐな言葉。そしてまっすぐな想い。
それらがすべて私にと向けられている。その言葉に対して私はなにも返事ができない。
受け入れる言葉も、拒否する言葉も私の中には存在していなかった。
困惑はない。あると言えばあるけれど、始めの頃のような疑問はない。
だけど、困惑がなくなっても、私の中には彼への想いに向き合う言葉がなにもなかった。
だからどうすればいいのかがわからない。
どうして私なのかという疑問は消えた。
けれど同時にどうすればいいのかという疑問が新たに浮かび上がってしまった。
受け入れることは容易かった。
受け入れても旅をすることはできる。
私にはまだするべきことがある。
だから受け入れても、この国に残るということはできない。
たぶん、アーサー様は受け入れてくれるとは思う。
最後に戻ってきてくれればいいと言ってくださると思う。
だから受け入れることに抵抗はない。
それに受け入れれば、玉の輿だ。
一介の村娘でしかない私が、王妃様になれるのだから、これ以上とない玉の輿だった。
なに不自由のない生活が私を待っているということになる。
それはとても魅力的なことだった。
だから断るという選択肢なんて本来存在するはずがない。
そう、存在しないはずだった。
なのに私は、私が選んだ答えは──。
「……ごめんなさい」
──アーサー様の想いを受け止めることができないということでした。
「……理由をお聞かせ願えますか?」
アーサー様は静かな口調で尋ねられました。
決して怒っている風には見えない。
断られたことを理解しているようにも見えない。
ただ、確認したいという意思を感じられた。
もしかしたらアーサー様はわかったうえでされていたのかもしれないと、断られるのを理解したうえで告白したのかもしれないと、そんなありえないことを私は考えてしまった。
でも、そう思ってしまうほどにアーサー様に動揺の色は見えなかった。むしろ、その逆でどこか清々しささえ感じられるほどに、自分の気持ちに折り合いをつけようとされているように思えてならなかった。
「……わからないの」
「わからない?」
「……私自身、なんで断ったのかはわかりません。普通に考えれば玉の輿ですし、なに不自由ない日々が待っているでしょう。そりゃ王妃様になるのだから、自由に動くことはできなくなるでしょうが、欲しいと思うものは大抵手に入るでしょう。物欲的な意味であれば、なに不自由なくなる。それはとても魅力的です。そういう意味合いであれば、受け入れることに躊躇はないはずなんです」
「……だろうね。だが、あなたは私の想いを受け入れてはくださないという。それはなぜ?」
「……それがわからないの。考えれば考えるほどわからないの。なんでこんなバカなことを口にしているのかもぜんぜんわからない。だけど、どれだけ考えてもあなたの想いを受け入れられないって思ってしまう。断るしかないって気持ちしか浮かんでこないの」
申し訳なかった。あまりにも申し訳ないのに、ちゃんとした理由も言えない自分が情けなさ過ぎて涙が出てしまった。そんな私にアーサー様は怒り出すこともなく、ただ笑っておいででした。
「よいのだ、アンジュ殿。あなたが悪いわけではない」
「でも、私は。私は」
「よいのだ。こうなるだろうなというのはわかっていた。それでも私は想いを告げた。そうしなければ、前に進めぬと思ったからね。だからこうなるのはわかっていたし、覚悟もしていた。最初から負け戦だったのだ。だから断られることに対して想うことはないよ」
「でも」
「いいさ。あなたはこうして泣いてくれた。あなたという人を私はずっと見ていた。だから知っている。あなたは先延ばしにするという事もできただろうに、それをよしとしなかった。その行為自体が真摯と思えなかったから。余計な期待を抱かせてしまうことに後ろめたさを感じていたから。だからこの場で告げてくれた。私を必要以上に傷つかせないために。私の傷が最小限になるように気を遣ってくれたのだ」
「それは、でも」
「そんな優しいあなたが私は好きだ。でも、今後はこの想いは封じ込めることにしよう。でなければ、あなたの想いが向けられる方に申し訳がないし、あなたを必要以上に傷つけてしまうからね。ただ、ひとつだけ。ひとつだけわがままを許して欲しい」
そう言ってアーサー様は立ち上がられると、すっと背伸びをされました。え、と思ったときにはアーサー様の唇が私の目尻にと触れていた。
「……あなたの涙を拭うこと。それだけは、その役目だけはいまの私に譲って欲しいということさ。いくらかきざったらしいけれど、それくらいは許してくれよ? なにせ国王からの求婚を断るのだ。国によっては、こうなっても文句は言えぬぞ?」
とんとんとご自身の首元を触れるアーサー様。たしかに国によってはそうなってしまっても文句は言えないことです。それを冗談交じりに言われる時点で、アーサー様は、いえ、この国がどれほどおおらかなのかがよくわかる。私の祖国。その国の王様の度量がどれほどなのかを察するには十分すぎた。
「……はい、いくらでも」
「いや、いくらでもはいい。正直しょっぱすぎてね。涙が出そうだ」
ははは、と笑い声を上げるアーサー様。その目尻には涙が浮かんでいた。その涙をそっと拭うと、アーサー様は「……ありがとう、私の愛しき人」とお礼を言われた。お礼を言われることなんてなにもないというのに。
「あなたのこれからの人生に幸多からんことを。敗れしものが言うべきことではないかもしれないが、あなたが健やかに、笑顔で生きてくれることこそが私の望みだ。……彼女を泣かせることは許さぬからな。憶えておけよ」
アーサー様はレンさんの方を見やりながら言いました。レンさんは答えない。でも、アーサー様はそれを気にすることもなく、表情を一変し、笑顔になりました。まるでなにもなかったかのように笑っていた。
「さて、私はこれでお暇するとしようか。実は少し忙しくてね。これから仕事があるのだ。では、またな。アンジュ殿、レン殿も」
ひらひらと手を振り、アーサー様は踵を返されました。いまどんなお顔をされているのかはわからない。
わかるべきではないし、声を掛けるべきでもない。そう思うけれど、私は去ろうとするアーサー様に声を掛けていた。
「私は、私はこの国が好きです。この国で育ったことを誇りに思います。その国がこれからも続くことを願っています。アーサー様であれば、この国がこれからも私の大好きな祖国のままでいてくれることを願っています!」
言いたいことがよくわからない言葉。でも、言えることはそれしかなくて、そんな自分がやっぱり情けなかった。それでもアーサー様は振り返られると、穏やかに笑ってくれました。
「あぁ、あなたの良人になれなくても、私はあなたの好きな祖国の王になろう。それがこの想いを貫く唯一のことだと信じている。ありがとう、アンジュ殿」
ただそれだけを告げて、アーサー様は立ち去られました。
青白い月の光を浴びる背中は、とても小さいのに、堂々と歩くその姿はとても大きなものでした。
小さくも大きな背中。その背中が扉の向こうに消えて行くまで、私は視線を逸らすことはしなかった。逸らすことなく、その背中に視線を送り続けるのでした。胸の中に宿る申し訳なさと、自分の想いに揺れ動きながら、ただその背を見送っていたのでした。




