rev2-105 事件の終わり
トゥーリア殿下とトトリさんが「カタコンベ」に繋がる扉の内側へと潜られてからすぐ、地上の暴動は収まりました。
正確なことを言うと、私と先王様が地上に戻り、中庭でひとり佇んでいたルリさんと合流し、3人で街に出たときにはすでにあの黒いぶよぶよはレンさんによってすべて斬り捨てられていました。
私たちが街に出るのと最後のぶよぶよがレンさんに斬られるのはほぼ同時でした。
最後のぶよぶよは中央広場に陣取っていて、ひときわ大きかったのですが、レンさんは何事もなかったかのように、黒いぶよぶよとちょうど対峙されていて、黒いぶよぶよはその体色と同じ色の触手を、まっすぐに伸びてくる槍のように放っていました。レンさんはその槍を搔い潜りながら、ぶよぶよに肉薄し、手に持って見たことのない黒い剣を一閃されたのです。
その一瞬後、黒いぶよぶよは大きな振動を放ちながら、地面に倒れ伏し、その身は消滅しました。
レンさんがなにをしたのかはわかりませんでした。私の目にはレンさんが剣を振るおうとしたところまでしか見えなかった。まぁ、見えなかったとしても、レンさんがやったのがただ剣を振っただけであるのは間違いないです。
もっとも本当に「ただ剣を振っただけ」なのかはわかりません。そもそも「ただ剣を振っただけ」というのは、黒いぶよぶよを倒したレンさんと合流して、「どうやって倒したんですか」と尋ねて返ってきた答えがその言葉だったんです。
どうやらレンさんは本当に剣を振っただけだったみたいです。でも、私はレンさんの言葉をそのまま信じることはできません。
というよりも、私が知っているレンさんの動きと黒いぶよぶよを倒したときのレンさんの動きはまるで違っていたのです。戦闘スタイル自体は変わっていないものの、そのスタイルがより洗練されたように感じられました。いや、あれは洗練されたというよりかは、本来の力を取り戻したかのように、抑え込んでいた力を開放したように感じられました。
でも、一番の変化はその力ではなく、瞳でした。顔全体を覆う仮面。その仮面のわずかに欠けた部分から覗く右目が、宝石のような紅い瞳がいつもと違っていたのです。いつもは穏やかさの中に、なにかしらの諦念のようなものが感じられたのに。そのときのレンさんの瞳はひどく恐ろしかったのです。まるで狂人のような光を、あのとき私を襲ったディーネと同じ光をレンさんは宿していたのです。
それまでレンさんはそんな光を宿したことはなかった。せいぜいがシリウスちゃんの頭の上で血にまみれていたときくらい。それでも、あのときだって今回ほどひどいものじゃなかった。少なくとも私はあのとき今回ほどひどい目をされていたら、止めようとは思えなかった。いや近づくのさえ躊躇っていたでしょう。
あのときは、ほぼ衝動的だったとはいえ、レンさんを止めなきゃいけないと思ったんです。そうしないと、ベティちゃんが大好きなレンさんがどこかに行ってしまう気がしたから、どうにかして止めないといけないと思ったんです。
でも、今回のレンさんはどこかへ行ったという風には見えなかった。ただ、変わってしまった、と感じられたんです。その変化がなんなのかはわからないけれど、少なくとも昨日までのレンさんとは、どこか焦燥感に駆られていたレンさんと、いまのレンさんは違うと感じられたのです。
その変化が私にはわからなかった。ですが、心当たりはありました。レンさんが手にしていた見たことのない黒い剣。普段手にされている魔鋼刃とは違う、まるで見たことがない黒い剣。あの剣が原因であることは間違いなかった。
「その剣は、どうされたんですか?」
「……気にしなくていい」
「いや、でも、その剣見たことないんですが」
「……気になるのか?」
「ええ。とっても」
「そうか。なら──」
見覚えのない剣のせいで、レンさんが変わった。であれば、その剣の出所を知ろうとするのは当然のことでした。……以前までのレンさんじゃないとレンさんじゃないと言う気はないけれど、いまのレンさんを見たらベティちゃんが悲しんでしまいそうだったから、どうして変わってしまったのかを、そしてどうしたら以前のレンさんに戻ってくれるのかを確かめようとするのは当たり前でした。だからこそ問いかけたのです。その剣をどうして手に入れたのかを。
でも、レンさんはそんな私の問いかけを聞いて、口元をわずかに歪めて笑いました。その笑い方もやはり私の知っているレンさんのものじゃなかった。別人がレンさんのように振る舞っているように思えた。
そんなレンさんを前にしながらも、一歩も退かないことを示すと、レンさんは笑みを浮かべたまま、私に顔を近づけた。いえ、私の腕を取ると引き寄せたんです。「え?」と自分の声が漏れたときには私の体はレンさんの腕の中にいて、そしてレンさんは私の耳元に口を寄せると──。
「──一晩付き合ったら、教えてやる」
──やや低めの声でそう囁かれたんです。その声に背筋がぶるりと震えた。恐怖もあったけれど、それ以上の衝動のようなものが私の胸を高鳴らせていた。
「な、なにを」
「……冗談だよ。そんな期待しているような目をするな」
「き、期待なんてしていませんから!」
慌てて、レンさんの腕の中から抜け出して叫ぶ私に、レンさんはいつものように笑っていました。瞳の中にあった狂気もいつのまにか消えていた。冷静さを取り戻したかのように。まるで暴走が止まったみたいでした。
だからでしょうか、いくらか気安くレンさんに話し掛けることができるようになりました。でも、胸がどくんどくんとやけに高鳴っていた。
『……変わっちゃったね、ふたりとも』
ぽつりと、不意にお姉ちゃんの声が聞こえた気がした。
でも、それ以上お姉ちゃんの声は聞こえなかった。
だから、勘違いかなと思うことにしました。
お姉ちゃんだって、四六時中私たちを見ているわけじゃないから、常に私たちの言動に対して反応できるわけじゃない。だから勘違いだろうと思ったのです。
ちなみにルリさんと先王様は私とレンさんのやり取りを見てそれぞれに別の反応をされていました。
先王様は微笑ましそうに。ルリさんはなんとも言えなさそうな雰囲気でただ私たちを見つめていた。
ふたりの反応の違いには気になったけれど、それを指摘するよりも早く、イリアさんがベティちゃんを連れて私たちのところに来ました。どうやらイリアさんはレンさんと別れてから、街中を駆け回っていたみたいで、黒いぶよぶよがいなくなったことを確認していたみたいでした。ベティちゃんはそれに付き合っていたみたいです。
「腐肉共はもう確認できませんでした」
「おとーさんのおかげなの!」
イリアさんの腕の中でベティちゃんはえっへんと胸を張っていました。ベティちゃんが胸を張ることではないんですが、ベティちゃんにとっては大好きなおとーさんが頑張ってくれたことが誇らしいのでしょう。そのかわいらしい姿に、私は自分の口元がだらしなく歪むのがはっきりとわかりました。
「気持ち悪ぃ」
「うむ、気持ち悪いな」
「クッッッッッソキモいですね」
「クソキモーい」
「みんなでひどいっ!?」
皆さん同じことを言ってくださいましたが、特にイリアさんは溜めて言い過ぎだと言いたくなりましたね。え? ベティちゃん? ベティちゃんはかわいらしいからいいのです。むしろ、ベティちゃんからの罵倒なんてご褒美でしかないですよ、当たり前じゃないですか。そう思ったら、なにも仰っていなかった先王様までもが「うっわ」とドン引きしたようなお顔をされたのがとても、とても印象的でしたね。どうやら心の声が漏れていたようです。そしてそんな私を見て、レンさんは一言ベティちゃんに言いました。
「いいかい、ベティ。ああいうのが変態だ。わかるね? あんな変態に懐いてはいけない。ああいう変態に懐いたら、ベティの身が危ないことになるんだ。だから、あんな変態に懐いてはいけないし、決してひとりで近づいてはいけない。おとーさんたちのうちの誰かと一緒のとき以外は近づいてはいけないよ、いいね?」
「ばぅん、わかったの!」
「うん、いい子だ」
しゅたっと挙手しながら素直に頷くベティちゃんとあることないことそそのかされるレンさんに私が食って掛かったのは言うまでもありません。もっともレンさん曰く「あることあることしか言ってねえわ」という、とてもありがたくないお言葉を投げかけてくださるのでした。解せぬ。
とにかく、そうして今回の騒動は幕を引くことになったのです。いくらかの謎を新たに増やしながらも、首都「アルトリウス」で起きた、後に「王国祭襲撃事件」と語られるようになった大騒動は、少なくない犠牲者を生み出しつつも無事に終わったのです。そして同時に今回の事件でレンさんたち「シエロ」の名は、今回の事件を鎮圧した功労者として大きく轟くことになったのでした。そのことが次の旅へと繋がるきっかけになることを、このときの私は知るよしもありませんでした。




