rev2-87 こぼれ落ちる涙
「……りっち?」
トトリは身も心もボロボロになりながら、上機嫌に鼻歌を歌いながら、ベッドに腰掛けている主をみやった。
体のほとんどを覆い尽くすような粘ついた唾液がひどく気持ち悪かったが、それ以上に下腹部を襲う痛みに意識が持って行かれていた。
事が終わるまでいったい何度再生され、そのたびに貫かれただろうか。貫くたびにトゥーリアは指に付いた血を丁寧に舐め取った。
「トトリの血、美味しいね。もっと欲しいなぁ。もっと、もっとあなたの初めてが欲しいの」
トゥーリアは金色に輝く瞳を、狂気に彩られた瞳でトトリを見下ろしていた。
なんとなく知識としてはあったことだったが、いまひとつ実感のないことでもあった。その実感のなかったはずのことを、実際にトトリは無理矢理経験させられた。敬愛するべき主であるトゥーリアの手によって、だ。
とはいえ、下手な相手に奪われるよりかはまだましだったかもしれないとは思った。度重なる喪失の痛みの中でも、まだトゥーリアであればいいかとぼんやりとしながら思ったのだ。そんなときにトゥーリアが口にしたのが、「リッチ」という単語だった。
「そう、私はリッチになったの。私はもう人間なんてつまらない種族はやめたの。リッチという素晴らしい種族になることができたの」
トゥーリアは嬉しそうだった。嬉しそうに笑いながら、トトリを見下ろしていた。爛々と金色の瞳を輝かせながらトトリを見やるその姿は、ひどく悍ましく、それでいてとても美しくもあった。
「人間をやめたから、もう私を縛るものはなにもないの。なにかもいまの私にとっては取るに足らないの。カビの生えた教えを守り通すバカみたいな王家も、そんな王家を崇拝するくだらない民も、そしてそんな民が住まうこのつまらない国も。すべて私にとってはどうでもいい。だってそれらはみーんな人間が大切にしているものだもの。いまの私にとってはぜぇんぶくだらないものにしか見えないもん」
「ひめ、さま」
トゥーリアは嬉々として言った。まるで歌を口ずさむように、それまで、トトリが知りうる限り、なによりも大事にしてきたものをすべて「くだらない」と言い切っていた。
トトリが知るトゥーリアであれば、決して言わないこと。トトリが敬愛し、誰からも愛されていた美姫と謳われるトゥーリアの口から出るはずのなかった言葉。それをあっさりとトゥーリアは口にした。
その言葉を耳にしてトトリは痛感してしまう。
「この人はもう私の知っている姫様じゃない」と。
だが、そう思う一方でわかってしまうこともある。
目の前にいるのは他ならぬトゥーリア自身である、と。
偽物ではない。トゥーリア本人である、と。
そうわかってしまった。
ほんの一ヶ月そばにいなかった。
たったそれだけの月日でトゥーリアは変わり果ててしまった。
なにがトゥーリアをここまで追い込んだのか。
いや、なにがトゥーリアを変わり果てさせてしまったのか。
トトリにはわからなかった。
わかるのはただひとつ。
敬愛していたトゥーリアはいなくなり、目の前にいるトゥーリアはトトリの知らないトゥーリアになってしまったという、悲しい現実だけ。
その現実の前に、トトリはぼんやりとトゥーリアを見つめることしかできずにいた。トトリ同様に生まれたままの姿になったトゥーリアを、変わり果てても美しいトゥーリアを見つめることしかトトリにはできなかった。その悲しいほどに美しい姿を目に焼き付けることしかできずにいた。
「でもね、トトリ? ひとつ勘違いしないでほしいことがあるの」
「……かんちがい?」
目尻から涙がこぼれ落ちていく。その涙をトゥーリアは愛おしそうに拭いながら、頬を上気させていた。頬を染めてはいるものの、その姿は恋する乙女というよりも得物を前にして興奮している肉食獣のようだった。
「ええ、私には目に映るすべては、ぜぇんぶくだらないものなのだけど、ひとつだけ愛するべきものがあるの」
トゥーリアの手がトトリの頬を撫でる。時折トゥーリアがしてくれたこと。トトリもお返しにとトゥーリアの頬を撫で返すと、トゥーリアは少しだけ恥ずかしそうに、でも、とても嬉しそうに笑ってくれたものだった。
そんな在りし日の思い出とそのときとではまるで状況は異なってしまっていた。だけど、唯一トトリの頬を撫でるその手の感触だけはなにも変わらない。なにもかもが変わってしまっても、それだけは決して変わっていなかった。
変わり果てても変わらないものがある。その事実はどこか救いのようでもあるが、同時にトトリの心をこれでもかと打ち据えていく。
記憶の中のトゥーリアとなにも変わらないはずなのに、変わってしまったトゥーリアのいまの姿にトトリは再び涙をこぼした。そんなトトリを見てもトゥーリアは笑っていた。笑いながらトトリにと顔を近づけた。
「私が唯一愛するのはあなただけよ、トトリ。このくだらない世界で、あなただけはとびっきりに愛おしいの。だからあなたの初めてを貰ったの。これであなたは私だけのもの。あなたは誰にも渡さない。あなたは私のもので、私はあなたのもの。ふふふ、素敵でしょう? 私とあなたは、この世界で唯一輝いているものなの。その輝くもの同士で愛し合うの。あぁ、なんて素晴らしいの。これ以上とない幸せよね。そう思うでしょう? 私のトトリ。私のかわいいかわいいお嫁さん?」
くすくすとトゥーリアは笑っていた。なにを言えばいいのか、トトリにはわからなくなってしまった。
気持ち悪いと切って捨てることは簡単だった。
たとえその結果、トゥーリアの手に掛かったとしても。
そのままでは慰み者に落ちるのは目に見えていた。
だが、そう思う一方でほんのわずかに、トゥーリアの言葉を受け入れそうになっている自分がいることにもトトリは気づいていた。
トゥーリアを敬愛している。
それは主としても、人としても。そして別の意味でもだ。
ただ、その別の意味は深く、とても深く心の奥底にしまい込んでいた。
どんなに想おうと、決してトゥーリアと結ばれることはできない。
トゥーリアは王女。トトリは親の顔も知らない孤児。
王女と孤児。それだけでも隔絶とした身分の差があるというのに、そこに加えて同性という壁もある。
どう考えても想いが成就することなどない。
だから抑え込んでいた。
燻るような、淡い想いをトトリはずっと抑え込んでいたのだ。
その気持ちがトゥーリアの言葉によって露わにされ、再燃していく。
だが、それを口にしてはいけない。してはならないのだ。
だからトトリは顔を背けた。そうすることでしか自分を抑えることができそうになかった。
しかしトゥーリアはそんなトトリの必死の抵抗を嘲笑うように背けた顔を、元に戻すと笑いながらトトリの唇を奪った。
「愛しているの、トトリ。あなたを誰よりも愛している。だからあなたも愛しているって言ってちょうだい? お願いよ、トトリ。私の愛するただひとりの人」
トゥーリアの目尻から涙がこぼれ落ちる。
その涙が意味するものは果たしてなんであるのかは、トトリにはわからなかった。
そもそもなぜトゥーリアが涙を流すのかもわからなかった。
奪われ尽くされたトトリこそが涙を流すべきであるのに、奪い尽くした側であるトゥーリアが泣く理由はなんであるのか。
奏でられる軽やかな水音を聞きながら、トトリは薄れいく意識の中でそれだけを考えていた。
「だからあなたも人をやめてちょうだい、私と同じ存在になりましょう? そしてふたりっきりでこのくだらない世界で人知れず生きていきましょう? 家畜どもを餌にしながら」
唇を離してトゥーリアは口角を上げて笑う。
涙を流しながら悍ましい笑みを浮かべていた。
背反する感情を露わにするトゥーリアをトトリが見上げていると、不意に扉が開いた。扉が開いた先にいたのは──。
「……姉上」
──痛ましい表情を浮かべて、一振りの剣を握りしめたアーサーが立っていた。




