rev2-85 異界
絶叫してからのことを、トトリはあまりよく覚えていなかった。
トゥーリアの部屋に入ってすぐに叫んだことで、護衛の兵士はもちろん、巡回中だった兵士ないし騎士たちも部屋の中に入ってきたが、トトリが叫びだした理由を理解していなかったようだった。
「どうにも疲れているみたい。私はお人形さんを渡しただけだったのだけど」
トゥーリアは理解できないと顔に書きながら、トトリに渡した先輩の頭を抱きしめながら言っていた。
それは誰にも見えているはずなのに、誰もが異常だと思っていなかった。むしろ、異常扱いされていたのはトトリの方だった。
「やはりなにかしらの伝染病を?」
「だが、一ヶ月隔離したが、これといった症状もなかった」
「しかし、いまこうして発狂したようになっていることを考えると」
周囲からはそんな声が立て続けに聞こえてきた。
一国の姫の部屋でいきなり叫びだしたのだから、無理からぬ話だ。それも彼らの目ではこれといった異常はないと思っているのであればなおさらだろう。実際におかしいのは自分たちであることを、いや、一番おかしいのが部屋の主であることに、トトリ以外の誰もがわかっていなかった。
そうなれば、真っ先に行うべきことはトトリを下げるということ。そのまま再び隔離させられるというのはほほ必然だった。彼らの目から見ておかしいのは、トトリだけなのだから。だから隔離させられるのは当然の流れだった。
だが、実際にトトリが隔離させられることはなかった。
「待ちなさい。トトリは少し疲れているだけよ」
兵士たちがトトリを連行しようとしていたが、それを止めたのはトゥーリアだった。他ならぬトゥーリアがトトリの連行を止めたのだ。
「しかし、姫様」
「トトリは一ヶ月も隔離させられていたの。それもトトリ自身は決して悪くないというのに。危険かもしれないからという、あやふやな理由で。尊敬していた人を失って、動揺しているところによ? そんないろんな要因が積み重なっていろいろと疲れていたのよ」
「ですが」
「お願い。責任は私が持ちます。トトリを私から奪わないで」
トトリを連行するように指示を出した騎士にと、トゥーリアは懇願していた。涙を青い瞳に溜めながら騎士を見上げるトゥーリア。そんなトゥーリアに騎士はもちろん、トトリの手を掴んでいた兵士たちもどうするべきかと困惑していた。
「お願い」
そんな困惑する騎士と兵士たちに追撃をするように、トゥーリアは目に溜めていた涙を零した。幼少とはいえ、美姫と謳われるトゥーリアに泣きながら懇願されてしまったら、断ることができる者はいなかった。
指示を出した騎士が「……重々注意をお願い致します」とトゥーリアに告げると、トゥーリアは涙を拭いながら「ありがとう」とお礼を言った。その仕草に騎士や兵士たちは揃って頬を染めていた。
トトリも当事者でなければ、頬を染めていた仕草。美姫と称されるのも納得できるほどに、懇願を聞き入れて貰えたお礼を言ったトゥーリアはあまりにも美しかった。
美しかったが、その手の中にある先輩の頭が付随されると、とたんに悍ましさしか感じられなかった。
その悍ましさをトトリ以外の誰もが理解していないのが、余計にトトリの恐怖を加速させていく。
騎士と兵士たちが立ち去れば、部屋の中に残るのはトゥーリアとトトリだけになる。美しくもあるが、それ以上に悍ましく恐ろしいトゥーリアとふたりっきり。そんな現実を前にして、トトリは体を震わせることしかできなかった。
連行されれば、トゥーリアと離ればなれにはなれる。
だが、その芽はトゥーリアによって摘まれたのだ。いまさら「連れて行ってください」と言ったところで、誰も聞いてはくれないだろう。
そもそも、彼らにとってトトリは「なにもない部屋の中でいきなり叫びだした、おかしくなった少女」という括りになってしまっている。
もしトトリが彼らの立場であれば、頼まれたとしても首を縦に振ることはしないだろう。それに王女であるトゥーリアの懇願を聞いた手前、いきなりそれを掌返しするなどありえないことだ。
この時点でトトリは詰んでいた。もうトトリではどうすることもできない状況にと追いやられており、もうどうすることもできなかった。
反対にトトリを詰ませたトゥーリアは涙をすでに引っ込め、いまは穏やかに笑いながら騎士からの注意を聞いていた。
注意を聞きながらもトゥーリアは「なにかあったら叫ぶから、しばらく部屋の周りに人を遠ざけて」と人払いするように頼み込んでいた。
騎士も「さすがにそれは」と難色を示すも、再度の「お願い」と懇願されてしまい、騎士は「……本当になにかあったら叫んでくださいね」と釘を刺しながらも頷いた。頷いてしまっていた。
トトリの意思を挟むことはもうできなかった。
そもそもトトリの意思を挟めたことは、この城で働けるようになってから一度でもあっただろうか。
すべて流れに身を任せてはいなかっただろうか。
だが、いまならまだ流れに逆らうこともできるのではないか。
ふと思ったが、いまさらなにができるのかと思ったら、結局なにも言うことはできなかった。
なにもできないまま、放心したようにトトリはぼんやりと床を見つめていた。
床を見つめているうちに、騎士は兵士たちを連れて部屋から出て行った。その足音が聞こえなくなるまで、トゥーリアから声が掛かることはなかった。
足音が聞こえなくなったとき、トゥーリアは楽しげに笑いながら口を開いた。だが、発された言葉は思いも寄らないものだった。
「結界発動」
「……え?」
トゥーリアが発した声は、想像もしていなかったもの。その声に反応すると同時に、部屋の雰囲気が変わった。それまでは隣の部屋や廊下からは人の気配はあったし、バルコニーの外には空を舞う鳥の姿もあった。
だが、トゥーリアの発した一言とともに周囲からそれらのものが一斉に消えてなくなった。いや、正確に言えば、トゥーリアの一言でトゥーリアの部屋が現実と切り離されたと言う方が正しいだろう。
扉という境界線を以て、トゥーリアの部屋は通常とは違う異界になっていた。
「ふふふ、やっと邪魔者がいなくなった」
くすくすと笑いながらトゥーリアが近寄ってくる。規則正しい足音が聞こえてくる。トゥーリアの方に顔を向けると、トゥーリアは笑っていた。笑っていたのだが、その目は普段のトゥーリアのそれとは違っていた。空を思わせる青い瞳が、そのときには黄金色に変わっていた。瞳孔が裂けているわけではないが、ひどく冷たかった。まるで爬虫類のようにさえ感じられた。
「トゥー、リア様?」
「ふふふ、トトリは本当にかわいいね。食べちゃいたいくらいにかわいい。でも、ダメ。食べたらトトリがいなくなっちゃうもんね。トトリは私のものだけど、トトリはひとりしかいないものね。他の家畜どもとは違って」
唇をなめ回しながらトゥーリアはトトリを見やる。悍ましさが全身を包み込むも、トトリの体は動かなかった。手足がまるで切り落とされてしまったかのように、体が動いてくれなかった。
「でも、マーキングはしていいかなぁ。トトリは私のものだってことが、誰が見てもわかるようにしようっと」
トゥーリアはそう言って顔を近づけてきた。黄金色の瞳でトトリを見下ろしながら、トトリを床へと押しつけた。押しつけてくる手を払いのけることはできなかった。できないまま、トゥーリアはトトリの上にのし掛かった。
「じゃあ、いただくね、トトリ」
にやりと笑いながらトゥーリアはトトリの服に手を掛けた。




