rev2-84 変わり果てるもの
ご飯中の方はお気をつけて。
隔離の日々は約一ヶ月ほどだった。
一ヶ月ぶりに出た部屋の外は、以前となんら変わらなかった。
塵ひとつなくきれいに清掃された廊下、外観と同じ色の美しき白亜の壁、廊下を彩る真っ赤な絨毯。その上を通るのは統一された鎧を身につけた兵士や騎士、トトリと同様の使用人であるメイドたち。
すべてが一ヶ月前となんら変わらなかった。
一ヶ月ぶりに部屋の外に出たトトリを見ても、誰もがそれまでのように朗らかな笑みを浮かべてくれていた。
「久しぶり」
「元気だったか?」
声を掛けてくれる人たちはみな一様に同じことを言ってくれた。同僚である先輩にあたるメイドたちはもちろんのこと、業務上そこまで関係のない兵士や騎士たちでさえも心配をしていたというように声を掛けてくれていた。
もともとトゥーリアお付きのメイドとして認知はされていたこともあるが、王宮勤めの中で最も若年であったこともあり、誰もがトトリを妹のように想ってくれていた。それはトトリ自身時折感じることであり、そのたびにありがたく思っていた。
トトリ自身、両親の顔はほとんど覚えていない。というよりも知らない。
物心が付いたときには、町外れにある孤児院で過ごしていた。
両親のことは院長であった神父に聞いても教えてはくれなかった。むしろ、神父も知らなかったのだろうといまでは思う。
それでも孤児院という形だが、ちゃんとした家はあったし、他の孤児という家族もいた。だから孤独ではなかったし、お腹いっぱいとまでは言えないが、ちゃんとした食事も取れていた。
孤児ではあったが、トトリは人生に悲観的になることはなかった。
唯一の不満は読み書きがほとんどできないということだったが、それも王宮勤めになった際に、一通り教えて貰った。主であるトゥーリアに教わったのだ。
そもそもトゥーリアのお付きになった経緯も、いま思えば奇跡的なものだった。
たまたまトトリのいた孤児院に、国王がふらりと訪れて、トトリを見つけたのだ。トゥーリアと同年ということもあり、「遊び相手にちょうどいい」とトトリを引き取ってくれたのだ。
降って湧いた幸運にトトリはもちろん、院長もあんぐりと口を大きく開けて驚いたものだ。
ふたりを驚かせた国王は、その反応を見ておかしそうに笑っていた。その笑顔を見て、「この人は悪戯が好きそうだな」と思った。そしておそらくはたまたまトトリのいた孤児院に姿を現したわけではないということも、なんとなくだがわかっていた。
ただ、その理由はわからない。わからないが、孤児がきらびやかな王宮で働けるというのはありえないことだ。それも一国の姫お付きとあればなおさらのこと。惜しむらくは王子付きではないということくらい。王子付きであれば、場合によっては玉の輿という可能性もなくはなかったが、「王子付きではないから」と断るほど、トトリは現実が見えていないわけではなかった。
それに王女付きというのも悪くはない。上手く立ち回れれば、貴族への覚えもあり、その経緯から貴族の子弟へと嫁ぐということもできなくはないだろう。最良は王子への覚えからの地位は高くない妃になることだが、王宮勤めになること自体が夢のようなものなのだから贅沢は言えない。
その手の覚えがなくても、実家である孤児院の経営に少しでもプラスになれればそれでいいのだ。
トトリがトゥーリアお付きのメイドになったのは、打算も含めてのものであり、決してトゥーリアのためではなかった。
だが、初めてトゥーリアと会ったときに、それらの打算は木っ端微塵に砕け散った。
「初めまして、あなたがトトリ?」
国王に連れられて初めて訪れたトゥーリアの私室で、主になるトゥーリアを初めて見て、トトリは心を奪われた。
陽光に煌めく金色の髪に、空を思わせる美しき青い瞳に、なによりも同い年とは思えない大人びた笑みに。目を、心を奪われていた。
「私が生まれたのはこの人に仕えるためだった」とトトリは思った。
トトリにとって、トゥーリアは大きな比重を占める存在になった。
トゥーリアのためであれば、なんだってしてみせる。
たとえ、人を殺すことであったとしても。トゥーリアが本気で望むのであればこなしてみせる。そう思えたのだ。
それはもしかしたら恋だったのかもしれない。
同性相手に抱いてしまった、それも比べようもないほどに身分として差がある相手へと抱いた決して叶うことのない恋。
それでもトトリの心に宿った情念を少しでも発露するには、トゥーリアのためにトトリのすべてを懸けることだけだったのだ。
その甲斐あってか、トゥーリアはトトリを親友と言ってくれるようになった。かつてわずかに抱いていた覚えがあってほしい王子たるアーサーにもよくしてもらっていたし、トトリを引き取ってくれた国王は、トトリをトゥーリアとアーサーへ向ける愛情と同様のものをトトリにも向けてくれていた。
最初は打算ありきの王宮勤めだったのが、気づいたときには打算なんて頭の隅へと追いやっていた。ただただ敬愛する主たちのために。それがトトリの行動理念となっていた。
その主たちと一ヶ月も離れていた。王宮勤めになってから、一ヶ月もそばにいられないなんてことはなかった。
そのせいだろうか。
トトリの脚は自然と敬愛する主であるトゥーリアの私室へと向けられていた。トゥーリアの私室へと近づくたびに、胸が自然と高鳴っていた。久しぶりに身に付けたメイド服は、隔離が終わった際に渡された真新しいものだった。
デザインは変わっていない。だが、不思議と新しい自分になったように感じられた。その新しい自分を見て、主はなんというだろうか。いや、そもそも気づいて貰えるだろうか。
(……あくまでも新しいと思っているのは私だけ。姫様がそのことに気づかれなくても、またお会いできるのであればそれでいい)
トゥーリアとまた会えるのであれば、それ以上に望むことはなにもない。いや、望んではいけない。当初を考えれば、こうして王宮勤めになることだって奇跡のようなものだった。その王宮で当たり前に生活するトゥーリアと顔を合わせることなんて、本来はありえないことだ。
そのありえないことを当たり前にしてはいけない。常に奇跡が起こり続けているのだと思って、精一杯のことをし続ける。それだけでいいのだ。
トトリは胸の高鳴りとともにそれだけを考えて、主の部屋へと向かっていく。胸の高鳴りとともに足取りは軽くなっていく。
最後の方はそのまま歩いていれば空さえも飛んでいけるのではないかと思えてしまうほどだった。
そうしてついにたどり着いたトゥーリアの部屋へと続く扉を前にして、トトリは一度深呼吸をした。部屋の両脇には護衛たる兵士たちが控えていたが、緊張しているようなトトリを見て苦笑いしていた。
「姫様も君に会いたがっていたぞ」
「さぁ、早くお会いして安心させてあげてくれ」
にこやかに笑う兵士たちの言葉に「はい」と頷きながら、トトリは扉をノックした。
「姫様、トトリです。入室してもよろしいですか?」
「当たり前よ、入って来てちょうだい」
「はい。失礼致します」
一ヶ月ぶりに聞いた主の声。それまで高鳴っていた胸がそれ以上に高鳴るのを感じながら、トトリは部屋の扉を開く。すべてが白で統一された部屋が視界に飛び込んで──。
──ぴちゃ
「……え?」
──はこなかった。
トトリが目にしたのは赤だった。部屋のすべてが赤く染まっていた。壁も天井、調度品でさえも赤く染まりきっていた。
模様替えをしたというわけではない。
ただ染まっているだけ。
白を上から塗りつぶした赤に部屋が染まりきっているだけ。
生臭い赤に部屋のすべてが染められている。
その部屋の真ん中にある天蓋付きのベッドの上で、トゥーリアは機嫌良さそうに櫛を使っていた。人形の髪を梳いているのだろうと思いつつ、トトリはあまりにも様変わりした主の部屋に入室する。
噎せ返るような生臭さに鼻を摘まみたくなったが、どうにか堪えて扉を閉める。その際に兵士たちを見やるも、相変わらず笑っていた。異常な状況に気づいていないように見える。笑顔を必死に作っているわけではない。ただ異常を異常と捉えていないように見えた。
そんな兵士たちの様子に寒気を感じつつも、扉を閉めて中央に座す主のそばへと向かう。敷き詰められた床の絨毯は歩くたびに、靴の底に粘り気のあるなにかが引っ付いた。その強度自体は大したことがなかったが、粘り着くそれはひどく不快だったが、どうにかトゥーリアのそばへと赴くことはできた。
「久しぶりね、トトリ」
「は、はい。お久しゅうございます、トゥーリア様」
そばに赴くとトゥーリアは声を掛けてくれた。
トトリは一礼をしながら、再会の言葉を口にすると、トゥーリアは「会いたかった」と嬉しいことを言ってくれた。
「……はい。私もお会いしたく──」
部屋の様子はすっかりと様変わりしていたが、トゥーリアにはなんの変わりもないようだった。トトリは感慨深さを抱きながら、顔を上げた、そのときだった。
「……せんぱい?」
トトリの目に入ったのは、トゥーリアの手の中にある人形だと思っていたものだった。人形の髪を梳いているのだと思っていたのに、トゥーリアの手の中にあるのは人形ではなかった。
まぶたを閉じた先輩がいた。胴体のなくなった先輩を、トゥーリアは楽しげに笑いながらその髪を梳いていた。
「うん? あぁ、これ? いいでしょう? お気に入りの玩具なの。あなたも気に入ってくれると嬉しいな、トトリ」
にこやかに笑いながらトゥーリアは言って、先輩を渡してくれた。渡されると同時にぐちゃとしたなにかが手に付いた。恐る恐ると手を見やると、掌は真っ赤に染まっていた。赤く染まる掌を見てすぐトトリは体を震わせた。そんなトトリを見て、トゥーリアは頬を染めて笑っていた。その笑顔は敬愛した主のものなのに、まるで別人のようだった。
「どう、トトリ? あなたへのプレゼントよ。私たちの再会を祝したとっておきなの。喜んでくれると嬉しいな」
笑いかけながらトゥーリアが発した言葉。その言葉にトトリは絶叫したのだった。




