rev2-82 贖罪
トトリに緘口を命じた後、トゥーリアの行動は日に日にエスカレート──するわけではなかった。
むしろ逆だった。
表面上でトゥーリアはことさらアーサーと仲のいい姉弟であるように振る舞っていった。時折、アーサーを女装させては楽しむという意地悪な一面を持つものの、基本的には弟思いの手の掛からないよくできた聡明な姉。それまでずっと培ってきたものをより上乗せするような振る舞いをトゥーリアはするようになっていった。
その裏では夜な夜な弟を模した人形の顔をナイフでめった刺しにしながら、楽しそうに嗤うという狂気の顔を見せながらだ。
あまりにも表と裏では顔が違いすぎる。
どちらも共通して美しいとは思うが、その有り様のあまりにもの違いに、トトリは困惑を隠すことはできなかった。
だが、困惑していても「なぜ、そのようなことをなさるのですか?」と直接尋ねることはできなかった。尋ねようにも嬉々として人形の顔を突き刺す主の姿を目の当たりにしていたら、余計な事を口走るのは危険だった。思いも寄らぬ余波に襲われることになる。トトリにできたのは主の狂気を見て見ぬふりをするだけだった。
しかしどんなにトトリが必死に気持ちを押し殺そうとしても、トトリとトゥーリアでは才覚に差がありすぎていた。凡人がどんなに必死になって抵抗しようとも、真の天才の前ではなんの意味もなかった。
「ねぇ、トトリ?」
「は、はい?」
いつものように人形の綿で美しい顔を汚していたトゥーリアが動きを止めて、トトリを見やりながら笑った。その笑顔はトトリ以外の人間に、トゥーリアの狂気を知らぬ者に見せる笑顔。公に言われている美姫としてのトゥーリアの笑顔だった。その笑顔を浮かべながらトゥーリアは言った。
「そんなに不思議?」
「……え?」
胸がひどく高鳴った。
全身に響くような鼓動。その鼓動を感じながら、トトリはトゥーリアを見やった。そこにいたトゥーリアはそれまでと同じ笑顔を浮かべている。幼少ながらも美姫として謳われるトゥーリアの公の笑顔。トトリ自身、トゥーリアの内面を知るまでは、たびたび見とれていた笑顔。
なのに、どうしてだろうか?
そのときは、その笑顔がひどく恐ろしかった。まるで腹を空かした魔獣が獲物を見つけたかのような、よだれを垂らしながら、気配を消して少しずつ少しずつ迫ってきているような、圧迫感と恐怖に襲われた。
「表向きではアーサーと仲良く戯れながら、私室ではこうしてあの子を模した人形に凶刃を振るう。そんな私の姿は異様かしら?」
「そ、そんなことは」
「嘘ね。だってトトリ思っているじゃない?」
「な、なにをですか?」
「「なんでそんな意味のないことをしているんだろう」って。「嫌っているのであれば、わざわざ取り繕わなくてもはっきりと言えば、国王様も考え直してくださることもあるんじゃないか」って顔をしているもの」
笑顔のまま、トゥーリアはまぶたを薄く開いた。空の色に似たきれいな青の瞳がトトリを捉える。それだけでトトリは自分の心臓が止まってしまったのではないかと錯覚してしまった。
それまでいくらか重かっただけなのに、急に息苦しくなっていく。本当に心臓が止まってしまったのでは、と左胸に手を当ててみるも、左胸からはたしかな鼓動を感じられた。生きている。生きて動いている。なのに、なぜこんなにも息苦しいのだろうか。止まってしまったんじゃないかと思うほどに苦しいのだろうか。
「そんなことは」
「そんなことはあるでしょう?」
「え──きゃっ!」
トゥーリアの右手が、ナイフを握っていない右手がトトリの腕を掴んだ。そう思ったときにはトトリはトゥーリアに無理矢理ベッドの上に組み伏されていた。
「ねぇ、トトリ? そんなに不思議かしら?」
にこやかにトゥーリアは笑う。
美しい笑顔。雰囲気も笑顔に似つかわしいほどに穏やかなもの。だが、トトリを見下ろす目はとても冷たかった。いや、冷たいどころか、その目にはなんの熱もなかった。よく晴れた日の空のような、一点の曇りもないきれいな青い瞳だったトゥーリアの瞳は、そのときだけ違っていた。そのときのトゥーリアの瞳は、どこまでも深く暗く、深淵と言う言葉はこういうときに遣うのだろうなと思うほどにとても怖かった。
しかし澱んではいなかった。深く暗い青の瞳には澱みはないし、穢れもない。ただ、暗い光りを宿していた。魂さえも凍えさせるほどの悪意に満ちた寒さ。この国を襲う自然の害意。その自然の害意が人の形になったように。いや、トゥーリアの体に自然の害意が宿っているようにさえトトリには思えていた。
その害意が目の前に在る。それだけでトトリの体は震える。そんなトトリをトゥーリアは愛おしそうに微笑みながら、ゆっくりとトトリの頬を撫でてくれた。引きつったような声が喉奥から上がる。
だが、トゥーリアは気にすることなく続けた。
「私はね、トトリ。アーサーのことを殺してしまいたいほどに憎んでいるの。でもね、その一方であの子を心の底から愛してもいるの」
トゥーリアの放った一言はことさらおかしなものだった。
誰がどう聞いても正常とは言えない言葉。その言葉を耳にして、トトリはどう反応をすればいいのかわからなかった。
そんなトトリを見てもトゥーリアは気にも留めていなかった。まるでトトリを見ていないように。いや、見てはいる。見ているが、その目にトトリの姿を映し出していなかった。
「だって、アーサーったらかわいいじゃない?」
「……ぇ?」
「ふふふ、女の子の格好をさせたただけで泣きべそを搔くようなかわいいかわいい弟よ? そんなかわいい弟を愛さないお姉ちゃんがいると思うの?}
「それは」
たしかにトゥーリアの言うとおり、女装したアーサーはとてもかわいらしかった。双子であるがゆえにトゥーリアとうり二つであり、姉弟ではなく姉妹に見えてしまうほどに。ただ姉妹だったとしても、見た目がそっくりな姉妹であったとしてもどちらがどちらであるのかは、一目でわかるほどに違いもある。
トゥーリアはやや勝ち気で常に胸を張っているが、女装したアーサーは顔を真っ赤にしていたが、常におどおどとしていて、自信なさげにしていたのだ。そんな有り様を見れば、どちらがどちらであるのかなんて誰の目でも明らかであった。
逆に言えば、ふたりの違いはそれくらいしかないわけだが、それくらいの違いしかなくても一目瞭然になるほどの違いがふたりにはあったのだ。
「前々からね、あの子を着せ替えしたらかわいいだろうなぁと思っていたの。そうしたら本当によく似合っていたから、また今度着せ替えさせてあげようと思っているの。そのときはトトリも手伝ってね? 大丈夫よ、私が「やれ」と言えば、あの子は拒否できないのだからね」
トゥーリアの口元は弧を描いていた。いままでに見たことのない笑顔。その笑顔を見て、トトリはようやく察した。トゥーリアの言った「憎んでいるが愛している」という意味を。はっきりと理解できた。トゥーリアにとってアーサーは。いや、アーサーだけじゃない。トゥーリアの目に映るすべてはみな等しく──。
「拒否なんてできるわけないもの。だってアーサーは私のかわいい、かわいい弟なんだもの。弟が姉の命令に背けるわけがない。ううん、背くなんてわがままをしたらいけないでしょう?」
──すべて等しく彼女の玩具なのだろう。
その瞳に映る「玩具」の持ち主はトゥーリア。そのトゥーリアの意思に背くようなことをしていいわけがない。そうトゥーリアは本気で思っているのだ。トトリは愕然とした。愕然としながらようやく気づけた。
(あぁ、トゥーリア様が壊れてしまっている)
トゥーリアは、トトリが敬愛する主にして、誰よりも大切な親友は壊れてしまったのだ、と。無理もない。溢れんばかりの才気を持ちながらも、それ以上の才覚を持った弟のために人生を投げ捨てさせられるのだ。なまじ優れてしまっているがゆえの悲劇。その悲劇にトゥーリアの心は壊れたのだ。
そのことに誰も気づかなかった。国王も、アーサーも、そしてトトリでさえも。
気づかぬまま、トゥーリアの心が壊れ、その壊れた心に魔物が棲み着くのを黙って見ていたのだとようやく理解した。しかし理解したところで、もう手遅れだった。
「だからね、トトリ。あなたも協力してね? 私は居場所を手放す気はないの。その居場所を手放さないように協力してちょうだい? いいでしょう? 私のトトリ?」
トゥーリアは笑う。
その笑顔にトトリは屈した。屈することしかできなかった。
それがトトリの罪のひとつ。
トゥーリアが壊れていくのをただ見ていただけの自分が為すべき贖罪だと思った。
たとえ、当のトゥーリアからは「玩具」としか見られていないとしても、それでもトトリは頷くしかできなかった。
それが続く破滅をより助長させることを気づくこともなく、トトリは涙ながらに頷いたのだった。
もう少し怖く書きたかったな←




