rev2-81 分水嶺
それは二年前のことだった。
ちょうど、「アロン熱」が流行する少し前のこと。
当時はまだそんな伝染病の影も形もなく、王国は厳しい冬の寒さに晒される以外では、なんの問題もなかった。その寒さとて時折人智を超えた悪意のようなものが襲ってくるが、そんな寒さは一年の間でもほとんどない。
大抵の寒さは、この国で長年過ごしていれば、どう過ごせばいいのかということと逆になにをしたらいけないのかがみなわかっている。
それでも命を落とすものはいる。何年、何十年過ごそうと人の力を越えるものはどうやっても訪れる。その代表格は寒さだが、中には魔物の被害ということもある。
寒さと魔物。それがこの国における命を左右する要素だ。
他の国であれば寒さはないものの、寒さの代わりに悪意という、誰にも宿す抗い難いものが命を容赦なく奪い取っていく。
この国にも悪意はある。悪意はあるが、できる限りその悪意は抑え込まれている。
その悪意を抑えること。それがこの国の王族が代々腐心してきたことと言ってもいい。
「人はどうやっても悪意というものを切り離すことはできない」
その言葉は初代英傑王が遺した言葉とされていた。
初代はその出自から人の悪意というものを、骨身にしみるまで理解していた。だからこそ、人というものの中にある悪意という存在を誰よりも忌避していた。忌避しつつも、その悪意があったからこそ王という立場にたどり着いたのだ。
「どんなお題目や崇高な志があろうとも、私自身がその悪意の塊であった。だが、それを否定するつもりはない。誰にも悪意はあるのだ。ただ悪意の思うままに行動してはならぬ。我らは人である。理性ある人であるのだ。であれば、理性を以て悪意と戦い続けなければならぬ。特に王として立てばなおさら、みずからの悪意と戦い抜かなければならぬ。でなければ、どんな国であろうとも、どれほど理想的な国を受け継ごうとも、その国の威信が地に墜ちるまでに時間は掛からぬのだ」
初代は次代の王となる息子にそう語ったとされている。
その言葉がどれほどまでに重かったのは、その言葉が代々受け継がれてきたことを踏まえれば考えるまでもない。
それは当代においても変わらなかった。
その言葉をトトリは主であるトゥーリアとともに聞いていた。
その場には先王と当代の王であったアーサーもいた。本来であればアーサーのみが聞くことになる言葉であったのだが、その場にはトゥーリアがいた。トゥーリアがいたのは彼女がアーサーの影として生きることが決定されていたからである。
双子の姉。女王がいなかったわけではないが、当代においては双子の弟であるアーサーが王として選ばれることが決定されており、トゥーリアはある一定の年齢に達したら訃報を出し、表舞台からは完全に姿を消されて、後は名もなき影としてアーサーの身代わりとして生きることが決定づけられていた。
それだけ先王はアーサーを見出していた。曰く、アーサーであれば初代様に並ぶことも可能かもしれぬと、歴代で屈指の素質があると豪語するほどに。
とはいえ、先王がトゥーリアを蔑ろにしていたわけではない。トゥーリアもまたアーサー同様に大きな素質はあったのだ。王家を一時解体するまでに至った13世のようになれるかもしれないと言われるほどに。
しかしアーサーの素質はトゥーリアを大きく越えていた。ゆえに先王も悩みながらもアーサーを次代の王として選び、トゥーリアはその影を任せるという判断に至ったのだ。諸侯に降嫁させるにはトゥーリアは素質に恵まれすぎていたのだ。
下手をすればトゥーリアの子や孫が王国内に別の国を建国させるという自体になりかねない。
ゆえに先王はトゥーリアを表舞台から消すことに決めたのだ。その人生のほとんどを国と弟のために費やさせることを。それは王としては英断だっただろう。しかし親としては苦渋の決断であった。
先王はアーサーとトゥーリアを心の底から愛していた。ふたりの上にも子はいた。しかしふたりと同じ血を引いているはずなのに、他の子たちはどうにも能力がないのが多かった。先王自身が王としての能力が欠落していたわけではない。むしろ、有り余るほどに、ここ数代では屈指の名君とまで呼ばれるほどだった。
だが、どんなに自身が優れていようとも、子もまた優れているわけではない。竜の子が同じく竜になるわけではないというのがこれほどまでに現されていることもなかった。
だからこそ、先王は末子として生まれた双子であるトゥーリアとアーサーにことさら期待を懸けたのだ。他の子が王国を継いでも暗愚の王として謳われることになりかねない。代々受けつがれてきた理想の王国と謳われる国を任せるにはあまりにも頼りなかった。
そこに体力的にはこれで最後と思って為した子供たちが成長するにつれて、その素質が明らかになるにつれて先王は大変満足したのだ。
ただ満足はしたものの、先王の頭を悩ませなかったわけではない。それは双子が揃って大きな素質を持っていたという事実である。姉と弟では素質に差があるものの、劣っている姉であっても、その素質は歴代の王の中でも突出していた。ただ運が悪かったことに弟は突出した姉をさらに上回っていた。そしてそのことを姉自身も理解していた。姉のそれは天才と言ってもいいほど。だが、弟のそれは神に愛されているとしか思えないほどだった。
ふたりとも凡人であるトトリでは差を理解できないほどだった。だが、本人たち同士であれば、その差を如実に理解できていたようだった。
だからこそなのだろう。
それはもう必然と言ってもよかった。
そうなるのがふたりの運命だったのだと、いまなら思える。
トゥーリアがアーサーに嫉妬するようになったのは。いや、嫉妬という言葉では生ぬるいか。トゥーリアはアーサーを嫌悪していたのだ。それは愛憎としか言いようのない、美しいトゥーリアにはあまりにも似つかわしくない感情であった。
表面上、トゥーリアはそれを見ないようにしていたし、誰にも気づかれないように隠していた。先王もアーサーもそのことには気づかなかっただろう。トゥーリアは表面上、先王の言葉にみずからも納得したうえで、アーサーの影として生きることを望んでいるようにしていた。
しかし、その裏ではアーサーへの憎悪が渦巻いていたのだ。
「あいつさえいなければ」
「あいつがいるから、私は私の人生を無理矢理終わらされる」
「あいつがいなかったら、私は13世様のように振る舞えるのに」
「どうして双子なのに、あいつばかり認められるの? どうして私は認めれないの?」
「どうしてあいつばかりがいろんなものを持てるの? どうしてあいつは私に与えられるはずのものさえも奪っていくの?」
トゥーリアは夜ごとに怨嗟を呟いていた。
夜トトリを下がらせた後、自室でひとりっきりになった後に、トゥーリアが密かにそれをしていた。アーサーを模した人形をナイフでめった刺しにするという狂気じみたことをトゥーリアは行っていた。
トトリがそれを見たのは本当に偶然だったのだ。
たまたま先王から言づてがあったことを伝え忘れていたので、それを伝えにトゥーリアの部屋へと戻った。そのときに見てしまったのだ。薄暗い部屋の中で何度も何度も人形の顔にナイフを振りかざす、みずからの主の姿をトトリは見てしまった。
トトリが入室したことに気づいたトゥーリアは顔を上げた。そのときのトゥーリアはいつものように眩い笑顔をしていた。その笑顔はとても美しかった。美しかったのに、トトリにはその笑顔がひどく悍ましいものに見えてならなかった。人形の綿まみれになっただけなのに、トトリの目には血まみれになりながらも笑っているという風に見えてならなかった。
「トトリ。いま見たことは内緒にしてちょうだいね? いいでしょう?」
トゥーリアはにこやかに笑っていた。
その笑顔にトトリは震えながらも頷くことしかできなかった。
「ありがとう、トトリ。さすがは私の親友ね。ふふふ、持つべき者はやはり友人なのね」
トゥーリアは笑っていた。ナイフを握っていない右手でトトリの頬を優しく撫でてくれる。それはトゥーリアがいつもしてくれたことだ。トトリにとっては褒められるよりも好きなこと。
でも、そのときばかりは違っていた。トトリの耳にはトゥーリアの言葉は「おまえも共犯者になれ」と言っているようにしか聞こえなかったのだ。
それでもトトリにとってトゥーリアは主だ。友人であると同時に主であったのだ。その主の言葉に肯んずることしかトトリにはできなかった。それが友人として間違った答えであることを理解しながらも、従者としては肯んじるしかなかったのだ。
それがきっと分水嶺だったのかもしれない。
返事を間違えなければこんなことにはならなかったのだろう。
返事を間違えてしまった。
それがすべての始まりだったのだと、いまなら思える。
でも、そのときはそのことには気づけなかった。
気づけなかったからこそ、破滅は始まったのだ。




