rev2-79 トトリ
胸が苦しかった。
痛みはある。
だが、それ以上に苦しかった。
張り裂けそうな苦しみ。レンを初めて見たときから、ずっと感じていた苦しみとはまるで違うもの。
レンを見たときから感じていた苦しみは、苦しいけれど、どこか胸が躍るようなものだった。
見ているだけでいいと最初は思っていた。
だが、次第に触れたいと思ったし、触れて欲しいとも思っていた。
それは結局敵わない想いではあったが、それでもレンを想っているときだけ、胸の苦しみはなくなっていた。
だが、いまの苦しみはどれだけ時間が経とうと、誰に触れられていようとも、一向に消えてくれない。痛みと苦しみがずっと残り続けている。
(……これは罰なのかなぁ)
アーサーを死の淵にまで追いやり、その余波で父と親友であったトトリを殺してしまった。それもすべてはトゥーリア自身の罪。その罪の罰。いわばこれは贖罪なのだろう。
(……アーサーのふりをして、政をなしてはいる。でも、結局私はアーサーじゃない。あの子のふりをしているだけ)
涙がこぼれた。
どれほど懸命になろうと、どれほど心を砕こうとも、所詮自分は影でしかない。アーサーの影。トゥーリアという名の影でしかない。
その影が影ではなく、本物として振る舞おうとした。それもすべては自身の浅慮さが原因で起きてしまった。
決して故意ではない。アーサーと取って代わろうとしていたわけじゃない。
だが、結果的に言えば、アーサーと取って代わったという事実は変わらない。たとえどんな事情があろうとも、結果から言えばなにも変わらないのだ。トゥーリアという影が簒奪をしたという事実は覆しようがないのだ。
(……私はいい姉じゃなかった。私はただの簒奪者なんだ。あの子の姉に相応しくないんだ)
涙がこぼれ落ちる。
こぼれ落ちた涙を拭う気力さえトゥーリアには沸かなかった。
誰かの手で運ばれていくというのはわかる。
そのぬくもりはしっかりと伝わってくる。
伝わってくるが、そのぬくもりは欲しているものではない。
(あぁ、寒い。寒いよ。誰か、私を、「私」を温めて)
涙がまたこぼれ落ちる。
涙がこぼれ落ちるたびに、体からなにかが抜けていく。
何重にも纏ったものがゆっくりと抜け落ちていく気がする。
そう、何重にも重ねてきたものが、「自分自身」さえも欺いてきたものがすべて抜け落ちていく気がする。
(自分自身? 私はなにを─)
頭の中に浮かんだ言葉の意味がわからなかった。自分のことであるはずなのに、意味を解することができない。
どうしてだろうと思っていると、誰かが言い争う声が聞こえてくる。ひとりは男性、あとは女性の声だ。男性は女性たちを止めようとしているようだが、女性のひとりがなにやら強行しはじめたようだ。ただなにを強行しようとしているのかはわからなかった。
(──なにを言い争っているんだろう?)
彼ら彼女らがなにを争点にしているのかがわからないでいると、いきなり唇を塞がれ、やけに苦い物を口の中に送り込まれた。あまりの苦さに吐き出しそうになるも、唇を塞がれてしまっている状態ではもう飲み込むしかなかった。
(なにを──もしかして、あれがまた?)
あの獣が目の前にいるのだろうかとトゥーリアは恐怖に襲われた。いま誰がそばにいるのかはわからないが、あの獣にまた嬲られてしまうのか。トゥーリアが体を震わせていると、突然胸の痛みが消えた。
(……え? なにが)
いきなりのことすぎて、なにが起こっているのかがわからなくなる。そもそもいまどういう状況下にあるというのか。なにも理解できないまま、困惑しているとそれはまたいきなり起きた。
──ドクン
胸の鼓動がやけに大きく聞こえたのだ。
鼓動は徐々に大きくなっていく。音もまた大きく高鳴っていく。
ドクン、ドクンと何度も鼓動が聞こえ、そのたびに全身に鼓動が広がっていく。水面に波紋が広がるようにだ。広がるたびになにかがゆっくりとほどけていくのがわかる。纏っていた「衣」がゆっくりと剥がれ落ちていく。
(……あぁ、ダメ。纏っていないと。重ねないとダメ。じゃないとぜんぶ、ぜんぶおもいだしちゃう)
止まれ。そこで止まってくれ、とトゥーリアは、いや、「彼女」は願った。
しかし「彼女」が纏ったものはすべて音を立てて崩れ落ちていく。
決して。決して思い出してはいけない、と。
自分自身に枷を課した。
その枷があるからこそ、「アーサーの代わりとして振る舞うトゥーリア王女」として振る舞えている。
でも、その枷さえもなくなってしまったら、すべて思い出してしまう。本当のことを思い出してしまう。何重にも枷をして封じてきたことを思い出してしまう。
(……だめ、おもい、ださないで)
不意に浮かんだ言葉とその言葉を発する声。
アーサーとして振る舞ってきたトゥーリアとしての声ではない。本来の自分の声が出てしまう。
決して出してはいけなかった声。
封じてきた枷のひとつ。その枷をはずす声。
(……あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい、わたしは言いつけを守れなかったです、トゥーリアさま)
涙がまたこぼれる。魔法が解ける音が聞こえる。最後に掛けて貰った魔法が、主が最期の力で掛けてくれた魔法が解けていく音が聞こえてくる。
「国王、様?」
アンジュの声が聞こえる。
まぶたを開くとそこには驚いた顔をしたアンジュがいる。宝石のような紅い瞳に映るのはいつもの姿ではない自分。「トゥーリア」という衣から抜け落ちた自分が映し出されていた。眩かった金の髪は消え、アンジュの瞳に映るのは少しくすんだ黒い髪。本来の自分の髪の色。トゥーリアやアーサーのものとは似ても似つかぬ髪の色。
「……解けてしまったか」
ぽつりと呟く声が聞こえる。
いつのまにかが、申し訳なさそうな顔をした「宰相」が立っていた。
「……思い出したかね?」
普段はとても丁寧な「宰相」が、どこか砕けた口調で声を掛けてくる。その言葉に静かに頷いた。
「……はい、すべて。すべて、思い出しました」
「そうか。すまない。そなたを、そなたを巻き込んで本当にすまなかった」
「宰相」が頭を下げていた。泣きながら手を握ってくれる。その手の温かさは変わらない。姿を変えても、その手のぬくもりだけは変わらない。
「おきになさらずに。わたしくめにできることは、これだけでしたので」
「だが、そのせいでそなたには、重たいものを背負わせてしまった。娘の身代わりをさせてしまった。それどころか、その歳であのような獣にっ!」
「……いいのです。だってそれがわたくしめの役目です。トゥーリア様は決して穢れてはならない方でした。だからそんな顔をなさらないでくださいませ、国王陛下」
「すまぬ、トトリ。血の繋がらぬもうひとりの我が娘よ」
「宰相」、いや、国王陛下は泣いていた。そんな国王陛下の涙をトトリはそっと拭った。手はすっかりと血に塗れていた。自身の命が抜けていく色。その色で国王陛下の目元が紅く染まり、国王が流す涙が紅くなってしまった。まるで涙の代わりに血を流しているように見えてしまう。
「え? 国王陛下? もしかして、先王様?」
アンジュは困惑した顔でこちらを見つめている。
説明するべきだろう。
もう時間はない。早くしなければ、トゥーリアが目覚めてしまうから。
「……陛下、お話しても?」
「……構わぬ。話さずにいられればよかっただろうが、もう事態は動き出すであろうからな」
国王陛下は頷いた。それが精一杯だっただろうと思いながらも、トトリは一度呼吸を整えてから、アンジュを見やり言った。
「すべて。すべて、お話いたします。「アロン熱」の本当の正体を含めて。そして本当のトゥーリア様がどちらにおわすかも」
トトリは自身の胸を押さえながら、ゆっくりとこれまでのことを語り始めた。




