rev2-71 獣の目
妙な感覚がしていた。
やけに見られている気がする。
見られているということには慣れている。
そういう存在であるのだから、見られるというのは当たり前のことだ。
その当たり前のことをされているだけなのに、なぜかやけに気になった。
周囲を見渡せば、民だけがいる。正確には客人たちもいるが、大きな目で言えば、彼女たちもまた民である。
民のための国。
それが「アヴァンシア」という国。
偉大なる始祖王が築き、誇らしき父祖たちが受け継ぎ、愛すべき臣たちとともに忠を成してきた、トゥーリアにとってなによりも大切なもの。
そんな国をいまはトゥーリアは弟の代わりに治めている。それも弟の振りをしてだ。
もともとトゥーリアは弟の影として生きることが定められていた。ある年齢に達したら、そこでトゥーリアとしての人生は終わり、それ以後は名もなき影として生きることを余儀なくされる。それが本来トゥーリアの送るべき人生だった。
その影がまさか支えるべき弟の代わりに表舞台へと出てくることになるとは思ってもいなかった。
賞賛などいらなかった。
報酬もいらない。
欲しいのはただ弟が王として立派に治世を行う姿を見ることのみ。ただそれだけが王女トゥーリアとして生まれたこの身の望みだったのだ。
それがまさか、弟の代わりに治世を行うになるとは。人生とは本当にわからないものだ。
(……これを望外の喜びなどと口が裂けても言えない。だって私はこんなことなにひとつ望んでなんかいないのだから)
そう、こうなることなんて一度も望んだことなどない。
弟の影として生きることこそが喜びだった。
弟が幸せになることを見るのが喜びだった。
なのに、その弟が病床に伏している。
いまの弟は決して幸せとは言えない。
生きるか死ぬかの瀬戸際で戦っている。
そんな状態が幸せなどあってなるものか。
弟を治すためには、エリキシルがいる。
正確にはエリキシルから生成された薬がいる。
あの「嵐」がそう言った。
実際エリキシルの薬で弟の容態はだいぶよくなっている。
それでも弟は目覚めてくれない。
「弟くんを目覚めさせるためにはぁ、特級のエリキシルが必要ですねぇ。この薬で生成しているエリキシルよりもはるかに上質なものでかつ、ごく一握りの薬師だけが作れる特級薬が必要なんですけどぉ。我が祖国でもそれほどの特級薬はごく少数しかありませんねぇ。年間でひとつかふたつ生成できればいいくらいのレベルですので、それを他国に卸すことなどほぼありません。ありませんが、なにごとも「例外」というものはあります。その「例外」を成すためにどうするべきなのかはぁ~。おわかりですよねぇ~? トゥーリアちゃん?」
「嵐」が言うには特級のエリキシルで作った特級薬が必要とのこと。その特級薬を弟のために卸させることはほぼありえない。ありえるとすれば、「例外」を成すための代価が必要となる。その代価がなんであるのかは、トゥーリアにはわかりきっていた。
弟のために体を売る。
貧しい家の生まれの者が、弟妹たちのために体を売り金銭や食糧を得るという話はわりと聞いたことがあった。
だが、王家に生まれた自分が同じ事をするとは考えてもいなかった。
しかし忌避感はない。
愛する弟のためになるのであれば、これ以上の喜びがあるだろうか。
たとえ自身の尊厳は失われ、純潔を散らされても、弟が以前のように振る舞えるのであればそれでいい。それがトゥーリアの望み。ただひとつの望み。
だから弟の代わりに治世を行うのは、完治した弟に引き継がせるために必要なことだからだ。弟の代わりに視線を集めるのもまた同じ。
だから視線を浴びることなど慣れたはずであるのに、なぜか今日はやけに気になる。
視線に卑しさを感じるわけではないし、不穏なものを感じているわけでもない。
それでもなぜか気になった。
まるで見えない誰かがじっとトゥーリアを見つめているように感じられる。それも表面だけではなく、この身の内面までも見られている気がするのだ。
はっきりと言えば、「気持ち悪い」のだ。
なにがどう気持ち悪いのかを言葉にすることはできないが、いまの状態を端的に示す言葉はそれ以外になかった。
(……誰かが私を見ている? だが、ここまで内面までをも見ようとする者などいるはずもない。だが、やはり落ち着かないな)
別に見られることはいい。見たいならいくらでも見ろと言ってやるところだ。
だが、内面までをも見ようとするならば、話は別だ。
(……私が「トゥーリア」であることは、誰にも知られてはいけない。私は「トゥーリア」ではなく、「アーサー」であり、当代の「アルトリウス」なのだ。この「アルトリウス」の内面までを見ようとするならば、ただではすまさぬぞ)
傍観者が誰なのかは知らないし、興味もない。
だが、その傍観者の行動が不快であることには変わらない。
たとえその行動の理由が興味本位であったとしても、王を不快にさせたのだ。相応の目には遭ってもらうつもりである。たとえ、その行動が「賢王」とはとてもではないが言えなかったとしても。「暴君」としか言いようがないものであったとしても。内面を、この身の深奥まで見られるわけにはいかないのだ。そう、誰にも見せられない深奥までを──。
(……? 誰にも見せられない?)
──ふと、疑問が浮かび上がった。
誰にも見せられない深奥とはなんのことだろうかという、疑問である。
(……アーサーのことは臣下以外の誰にも知られてはならないとは思うが、それが深奥なのか? いや、たしかに重大事ではあるし、知られては面倒だということもあるが)
そう、アーサーのことを知られるのは面倒なのだ。アーサーが病床に伏しているのを知られたら、いまここにいるのは誰なのかと問われることになる。
答えることはたやすいが、それは同時にあの「嵐」にいいように嬲られていることも告げることになる。
余計な同情など買うつもりはない。そんなものは正直不快でしかない。
かといってお涙ちょうだいの美談などに仕立てられたくもない。
そういった面倒毎に関わりたくないから、アーサーのことは箝口令を敷いているのだ。
その一方で箝口令を解けば、民はアーサーのために身を費やしてくれることだろう。そうするだけの治世を代々行ってきたのだ。王のために民が身を費やそうとするのも当然だろう。それは喜ばしい一方で民をいたずらに疲弊させかねない悪手である。
すべては民のために。
始祖から代々受け継がれてきた思想を、弟の代で台無しにするわけにはいかない。
たとえその弟のためとはいえ、民を疲弊させてまですることではなかった。
だから箝口令を解くつもりはない。
すべては民のためにだ。
それにアーサーを長き眠りから覚まさせるのは自分が成すべき事だとトゥーリアは決めている。他の誰の手も借りない。自分の力のみで成すべき事。そう決めているのだ。
余計な手出しは誰にもさせない。
弟を救えるのはは自分だけなのだ。自分だけが弟を救っていいのだ。そう、自分だけが──。
「こくおーさま?」
──不意に声が聞こえた。視線を向けると、声の主はベティだった。そのベティは怯えたような目をしてトゥーリアを見つめている。
「どうかしたかな?」
「……こくおーさま、おめめがこわいの」
「余の目が?」
はて、となんとも不思議なことをベティが言う。
姿見で普段から見ているが、特に目付きが悪いとは思っていない。自画自賛とも姉バカとも言えなくもないが、弟に似た愛らしい目つきをしていると自分では思っているつもりだった。それがまさかの怖いと言われるとは。いったいどういうことなのか。
「余の目が怖いとは?」
「……いまはもうもどっているの。でも、さっきすごくこわいおめめをしていたの。まるでおにくをまえにしたけものみたいだったの」
ぎゅっとレンの服の袖を握るベティ。ベティが肉を食べられないのは知っている。詳しくは知らないが、ひどい経験をしたことが原因であることはなんとなく察していた。でなければ、狼の魔物であるベティが、肉を主食とする魔物が肉を食べられないというのはありえないことだ。
それゆえにだろうか。
ベティは肉を主食とする獣や魔物を苦手としていた。
それは自身への否定でもあるが、そのことをベティは理解していないだろう。
そのベティが少し前までのトゥーリアがそういった獣や魔物のようだったと言ったのだ。
どういう意味なのかはわからない。わからないが、鈍器で頭を殴られてしまったかのような衝撃を受けたのはたしかだった。
言葉がわずかの間出なくなっていた。
なにを言えばいいのかはわからない。
どうすればいいのかもわからない。
わかるのは、自分の中には自分でさえも理解していなかったナニカがいるということくらいか。
そのナニカがなんであるのかはわからない。わからないが、「深奥」とやらにそれが潜んでいるのかもしれないと不思議と思えた。
「こら、ベティ。あることないことを言ったらダメだろう?」
「でも、おとーさん」
「ベティ」
「……ばぅ。ごめんなさい、こくおーさま」
レンが慌てたようにベティを言いくるめ、ベティがそのかわいらしい顔を悲しそうに歪ませて頭を下げる。
気にしなくていいといつもなら言えるのだが、なぜか言葉を出せなかった。
(なにがどうなっているんだ?)
わからない。
なにもかもがわからない。
わかるのはなにやらおかしなことになっているということくらい。
そのおかしなことがなんであるのかもわからないまま、トゥーリアは困惑し続けた。
困惑し続けながらも、レンたちとともに王国祭を練り歩く。
その間も困惑は続いたし、気になる視線を感じはしたが、トゥーリアにはどうすることもできなかった。




