rev2-27 託された願いに背を向けて
胸が高鳴っていた。
どくん、どくんと心臓が高鳴っている。
速く荒い呼吸を繰り返しながら、自然と胸元を掴んでいた。
「……いまのって」
吐き出す息がとても熱かった。
息だけじゃない。
頬も熱くなっているのがはっきりとわかる。
いや、もう全身が熱くなっていた。
なんでこんなに熱いのか。
理由は簡単。
私はいまレンさんに襲われていたから。
襲われていたというには、いくらか穏やかすぎるし、レンさんも「ごめんな」と謝ってくれていた。
それでも、私があの人に襲われたということは変わらない。
だって、私はいまあの人にキスされた。
キスというよりも、唇を無理矢理奪われた。……ディーネに初めてを奪われたときみたいに。
(……でも、あのときほどに嫌じゃなかった)
ディーネに無理矢理唇を奪われたときとは違っていた。
あのときは嫌で嫌で仕方がなかった。
涙さえ流して抵抗もした。
でも、ディーネの力に抗うことはできなかった。
いまでもディーネの唾液に塗れていく感覚が残っていた。
あのときの絶望感はいまでも忘れることはできないでいる。
今回もあのときと同じで、無理矢理だった。
私は受け入れてなんかいないのに、私の意思を無視して唇を奪われてしまった。
だけど、どうしてだろう?
ディーネのときのように悲しみはなかった。
ディーネのときのように涙がこぼれることはなかった。
ディーネのときのように絶望が胸の中に広がっていくこともなかった。
どうしてだろう?
どうしていま私は悲しくもなければ、涙をこぼすこともなければ、絶望が胸に広がることもないのだろう?
むしろ──。
『あーあ、本格的に宣戦布告されちゃったなぁ~』
──その先が脳裏に浮かぼうとしたとき、お姉ちゃんが拗ねた声で言った。
「おねえちゃん?」
『お姉ちゃんは本当の本当にショックだよ、アンジュ。あれほど釘を刺していたというのに、お姉ちゃんの言葉をまるっと無視して、お姉ちゃんの旦那様を寝取ろうと画策するなんて思ってもいなかったよ。お姉ちゃんはこんなにもアンジュを大切に想っているのに、その想いをアンジュはあっさりと踏みにじるんだね。ひどい妹だよ、アンジュはさ』
ネチネチとお姉ちゃんが言葉で責め立ててくる。言葉を詰まらせることしか私にはできないでいた。
『……いつもみたいに否定はしないんだね?』
お姉ちゃんの声が不意に真剣な物になった。
いつもはどこか軽いお姉ちゃんの声が、いまはひどく硬かった。それだけお姉ちゃんは本気で怒っているということなのかもしれない。
なんて言えばいいのか、とっさに言葉が出ない。
ごめんね?
謝ったらきっとお姉ちゃんはいまよりも怒り出す。それこそもう二度と声を掛けてくれることもなくなってしまう。
でも、謝る以外になにを言えばいいんだろう?
私はお姉ちゃんになんて言えばいいんだろう?
わからない。
自分がなにをするべきなのかがわからない。
わかるのは、ただ胸に込み上がる感情だけ。
それは後ろめたいものでもなく、薄暗いものでもない。もっと明るく、そして軽やかなもの。まるで春の日だまりのように温かいもの。そう──。
『……本当に嬉しそうにしているよね、アンジュは』
──また言葉が詰まった。お姉ちゃんが代弁したとおりだ。私はいま嬉しいと思っている。喜んでいる。それこそいまにでも踊り出してしまいそうなほどの歓喜が私の胸いっぱいに広がっている。
「どう、して?」
けれど、どうしてそうなるのかが私にはわからない。
なんで私はいま喜んでいるのか。
どうしてこんなにも嬉しいのか。
胸いっぱいに広がっていくのか。
まるでわからない。
どうして?
だって、レンさんはお姉ちゃんの旦那さんなのに。
レンさんはお姉ちゃんのものなのに。
レンさんの隣にいるべきなのはお姉ちゃんのはずなのに。
なのに、なんで?
なんで私はいまこんなにも嬉しいと思っているのか。
どうしてこんなにも喜んでいるのか。
私にはわからない。
どうして?
なんで?
同じ言葉がいくつも、いくつも頭や胸の中に広がっては消えていく。消えていく端からそれはまた浮かび上がっていく。
それらの感情をどうすることも私にはできなかった。
できないまま、私は胸元をぎゅっと強く握りしめることしかできなかった。
『……本当にわからないの?』
お姉ちゃんが小さく、本当に小さく声を出す。
呟き、いや、囁きと言ってもいいくらいに小さな、本当に小さな声。その声はしっかりと私の耳に届いていた。
「わからない、って?」
『本当はわかっているよね? でも、アンジュはお姉ちゃんに気を遣って、自分の気持ちに向き合おうとしていないもんね。だからわからないと思っているよね? わからないふりをしているんだよね、アンジュは』
お姉ちゃんが言う。囁きというにはいくらか大きな声で。責め立てるとは違う。さっきまでの怒りはその声からは感じられない。とても優しい声で、子供の頃、寝る前にしてくれた母さんの子守歌のように。とても優しい声でお姉ちゃんは告げていく。
『アンジュは、旦那様が好きなんだよ? 人としてじゃない。お姉ちゃんと同じ意味であの人が好きなんだよ。あの人を愛しているんだよ?』
「愛し、ている?」
言われた言葉を反芻する。
たったそれだけのことだというのに、頭と胸の中に広がっていた疑問の声はすっと消えていった。
不思議だった。
ぜんぜん意味がわからなかったのに。
たったひとつの言葉で、たったひとつの感情で、すべてを説明できてしまった。
それが不思議でならなかった。
その一方で納得してしまった。
「私は、レンさんが好きなの?」
『……そうだよ。アンジュは旦那様を愛しているの。きっと一目惚れだったんじゃない? 初めて会ったときに、あなたは旦那様に惹かれた。あの、悲壮の色に染まった紅の瞳に、小さいのに大きな背中に、誰よりも大きく深い愛情に惹かれてしまった。そしてそれらをすべて自分だけのものにしたいと思ったんだよ。……私がそうであったように』
染み入るように、深くまでお姉ちゃんの声は私の中に広がっていく。
「私は、そんなこと」
『……無理しないでいいよ。アンジュは自分の思うままにしていいんだよ』
「でも、それじゃお姉ちゃんが」
『……いいの。だってお姉ちゃんはもう旦那様に会えないもの。もう会うこともできない。抱きしめて貰うこともできない。支えてあげることだってできない』
「おねえ、ちゃん」
『だけど、アンジュはできるもの。旦那様に会うことも、抱きしめて貰うことも、あの人を支えることだってできる。私が求めていることすべて、あなたならできるもの。だからこれはお願い。お姉ちゃんのお願い』
お姉ちゃんはいまにも泣き出してしまいそうなほどに弱々しい声で告げた。
『お姉ちゃんの代わりになって。お姉ちゃんができない分、あなたがしてあげて。私と同じようにあの人を愛するあなたが、そしてあの人から愛されているあなたが、あの人の心を守ってあげて。強くて弱いあの人を支えてあげて。お姉ちゃんの分まであの人と幸せになって』
お姉ちゃんのお願いは決して頷けるものじゃなかった。
だってお姉ちゃんがどんな想いでいまの言葉を口にしたのか。
こうして言葉を交わしたのは、つい最近から。それまでお姉ちゃんがいるなんて考えてもいなかった。
それでもわかる。
お姉ちゃんがどんな想いで、私に自分の想いを託したのか。
わかってしまう。
私とお姉ちゃんは双子の姉妹だから。
だからわかってしまう。
お姉ちゃんの大きな想いが、レンさんへの深い愛情がわかってしまう。
わかるからこそ、頷けない。頷いていいわけがなかった。
「やだよ。レンさんの隣はお姉ちゃんのだもん。レンさんを支えられるのはお姉ちゃんだけだもん」
『お姉ちゃんにはもうできないんだよ』
「そんなこと──」
『あるよ。だってお姉ちゃんはもう死んでいるもの。だからもう支えてあげられないの。だからアンジュが』
「やだぁっ!」
私は叫んでいた。時間も関係もなくただ叫んでいた。
でも、お姉ちゃんは決して頷いてはくれなかった。
『お願い。お姉ちゃんからのお願い。聞いて欲しいな』
「やだ、やだぁ。私はお姉ちゃんじゃないとやだもん。お姉ちゃんじゃないとレンさんを支えてあげられないの! 私じゃ無理だもん!」
「そんなことは」
「そんなことあるの! だからもうおしまい! おしまいなの!」
『アンジュ』
「おやすみ!」
私は枕を搔き抱いてまぶたを閉じる。
お姉ちゃんはなにか言おうとしているけれど、言葉が出ないでいるみたいだった。
そんなお姉ちゃんを無視して私は眠ることに集中しようとしていた。
なのに、頭の中に浮かぶのはレンさんのことばかり。
初めて出会ったときのこと、それからお互いに罵り合ったこと、霊山で助けて貰ったときのこと、そしてさっきキスをされてしまったこと。
それらすべてが色鮮やかに蘇り、胸を高鳴らせていく。
(認めない! 絶対に認めないんだから!)
お姉ちゃんの居場所はレンさんの隣。その隣を奪うことなんてできない。
この胸の中にどんな想いが募ろうと、私はそれを認めるつもりはない。認めるわけにはいかない。
(お姉ちゃんの代わりなんて私にはできない。だから認めてたまるもんか!)
胸の中に募る想いに蓋をする。そんな決意をしながら私は必死にまぶたを閉じ、浮かび上がる情景を頭の隅に追いやっていく。
それでも眠りはなかなか訪れなかった。ただ時間だけが過ぎていくのを感じながら私は自分の想いから背を向け続けた。
アンジュが気づきました




