rev2-26 カレンではなく、レンだからこそ
息をゆっくりと吐き出していく。
思っていた以上に吐息は熱かった。
まるで泣いているときのようだ。
大声で泣きわきめいているかのように、吐き出した息はとても熱かった。
息を吐き出しながら、ぼんやりと目の前を見つめた。目の前には肩を大きく動かして気を失っているイリアがいた。服はなにも着ていない。真っ白な肌は淡く紅潮しているし、胸元には広範囲に痕が刻み込まれている。
(……また、やりすぎたな)
そんなつもりはなかった。
そもそもイリアとこういうことをするつもりだってなかった。
でも、気づいたらしていた。
気づいたときにはイリアを求めていた。
ベティとルリが眠ってから、ベッドの上にイリアを組み付していた。イリアは拒むことはせず、静かに俺の背中に腕を回してくれた。そこから先は記憶が曖昧だった。
気づいたときには、イリアは汗だくになり、気絶していた。
自分がなにをしたのかは考えるまでもない。そもそも組み付した時点でなにをしたのかなんてひとつしかない。
「……好色家、か」
以前誰かに言われた気がする。もしくはそんな噂を聞いたことがある。そのときは否定したけど、この調子ではもう否定することもできそうにはない。
「……不意打ちすぎただったせいかな?」
ベッドから降りて、脱ぎ散らかした服を身に付けていく。イリアが汗だくなのだから俺も当然のように汗だくになっていた。風呂にでも入りたいところだけど、不思議とそんな気分じゃなく、そのまま服を身につけるとバルコニーに出た。
火照った体を冷たい風が撫でていく。熱はあっという間に過ぎ去り、かえって寒さを感じさせてくれた。その冷たい風に晒されながら視線を隣の部屋へと移していた。隣の部屋──アンジュが寝泊まりしている部屋を見やる。
「よっと」
自然と体は動き、昨日したように隣のバルコニーまで跳躍していた。音なく降り立つと窓を静かに開ける。昨日と同じようにアンジュは眠りこけている。寝顔までもがカルディアによく似ていた。体つき、特に色気には大きな差があるけれど、その寝姿は非常によく似ていた。
ぎしりとベッドのスプリングが鳴る音が聞こえた。
窓際に立っていたはずだったのに、いつの間にかにアンジュを見下ろす形でベッドに乗っていた。
アンジュはまだ眠っていた。
寝息はとても穏やかで、寝顔もやはり穏やかなものだ。
穏やかな寝顔を見ていると、胸が疼いた。
少年王が不意に口にしたものが、プクレの甘い香りとともに彼女の最期が浮かび上がっていく。
(……プーレ)
俺の腕の中で静かに息を引き取ったプーレ。
最期の言葉はいまも鮮明に覚えている。
「大好きなのです、旦那様」
眠気に耐えているかのような舌っ足らずな声。それが彼女が発した最期の言葉だった。そのことに俺は翌朝まで気づくことはなかった。気づかないまま、息絶えた彼女の体を、ぬくもりを失っていく体を抱きしめたまま眠っていた。
「……気づいていたら。いや、意味はないか」
気づいていたとしても、すでに遅かった。
プーレはそのときにはもう死んでいた。
もうどうすることもできなかった。
途中で気づいたところでなんの意味もない。俺はいつも気づくのが遅すぎる。
プーレがその身を蝕む死の呪いにどれだけ耐え続けていたのか。
その痛みがどれほどのものだったのか。
その痛みに耐えながらもいつも笑っていた彼女の笑顔が、どれほどの悲壮な決意と覚悟に彩られていたのかも最期の最期までわかってあげることができなかった。
「……本当に俺はどうしようもない」
涙がこぼれる。
同時に強い苛立ちが後悔が胸を疼かせていく。
その疼きに自然と呼吸が乱れていた。
(プーレはもっと辛かったはずなのに。比べようもなく辛かったはずだったのに)
そうだ。
プーレはもっと辛かったはずだ。
日々体を蝕まれていく感覚はひどく辛かったはずだ。
最後の方なんて視力さえも失っていた。
いや視力だけじゃない。
ほとんどの感覚を失い、闇の中にいたようなものだったはずだ。
それでも彼女は正気を失うことはなかった。
それどころか、俺を支えようとしてくれた。
彼女の苦しみにも気づくこともなかった俺に。
その痛みを和らげてあげることもできなかった俺なんかを。
彼女は支えてくれた。
最後まで俺のためにその命を燃やし尽くしてくれた。
(あぁ、俺は本当に大馬鹿野郎だ)
胸が痛い。痛くて痛くて堪らない。
張り裂けてしまえばどんなに楽だろうか。
このまま物理的に真っ二つになってしまえれば、どんなにいいだろうか。
血の海に沈み、最期を迎えられればどんなにいいだろうか。
けれど、まだそれはできない。
最終的にはそうなるとしても、俺はまだ死ぬわけにはいかない。
「……そうだ。俺はまだ死ねない」
この世界をぶち壊す。
こんな世界は間違っている。
大切なものを笑いながら奪い取られる世界なんて間違っている。
そんな世界は存在していることがおかしい。
そんな世界なんていらない。
そんな世界なんて存在してはいけない。
ならどうすればいい?
簡単なことだ。
そんな世界なんてぶち壊してしまえばいい。
すべてを灰燼に帰してしまえばいい。
そうして新しいなにかを始めればいい。
この国のようにだ。
そう、この国──アヴァンシア王国のように、かつての大国が滅んでもその歴史を受け継いだ理想の国ができたように、歴史を受け継いだ新しい世界が産まれればいい。
その世界がこの国のように理想のものになるとは限らない。
でも、少なくとも打倒されるものよりかは、その後に新しくできるものの方がましであることは間違いない。歴史を紐解けば、古い王朝を打ち倒した新しい王朝の方が少しだけましになるというのは間違いじゃないのだから。まぁ、その新しい王朝も時間が経てば、かつて打ち倒した古い王朝のようになっていくものだけど、最初は古い王朝よりも理想的な王朝になっていくことはたしかだった。
国よりも規模が大きいけれど、世界だってきっとそうなるはずだ。いや、そうならないはずがない。
だから俺は手を下す。
こんな世界を作ったスカイディアを殺す。
そのスカイディアの手下だった竜王も殺す。
俺からすべてを奪い取った連中すべてを殺し尽くす。
その過程で決して死ぬわけにはいかない。
死ぬにしてもすべてを達してからだ。
そうでもなければ死んでも死にきれない。
だから俺はまだ死ねない。
死ぬわけにはいかない。
レン・アルカトラはまだ死ねない。
カレン・ズッキーは死んだとしても、レン・アルカトラはまだ死ぬわけにはいかない。
そう、いまの俺はカレン・ズッキーじゃない。
いまの俺は復讐者だ。復讐のために生きるレン・アルカトラだ。
カレンではしないことだってできる。
だって俺はカレンじゃない。俺はレンなのだから。
「……ごめんな」
それでも一言だけ謝ってからアンジュの首筋に顔を埋める。カルディアと同じ匂いがした。その匂いに誘われるままにアンジュの首筋を強く吸った。昨日と同じ場所に同じ痕を刻みつける。
これは俺のものだ、という証を強く刻み込む。
アンジュが小さく声を漏らす。
その声を聞いてから唇を離すと、そこには昨日よりも鮮やかな痕が刻み込まれていた。
昨日はここまでにした。
でも、今日はここまでで済ます気にはなれなかった。
「……ごめんな」
もう一度謝ってからアンジュの顎を上げて顔を近づけ、唇を重ねた。
なにをしているんだろうと自分でも思うけれど、衝動を抑えることはできなかった。
ふれ合ったのはわずかな時間だけ。それ以上はアンジュを起こすだけだ。
自分でもバカなことをしているとは思うけれど、自分を押さえこむことができなかった。
「……また明日な」
ベッドから降りて、バルコニーに出た。跳躍する前にそう言い残して、俺は元のバルコニーへと向かって跳んだ。跳ぶ際に部屋の中から物音のようなものが聞こえた気がしたけれど、確かめる方法はなかった。
部屋のバルコニーに戻ってしばらくアンジュの部屋を見たけれど、なんの変化もなかったので、そのまま部屋の中に戻り、眠ることにした。
「明日はどうなるのかな」
そんなことをぼんやりと考えながら俺はベッドのシーツに体を沈ませたんだ。




