rev2-11 親子と聞き間違い
それはいきなりのことでした。
国王様の案内の元、孤児院の食堂でのんびりとしていたとき、イリアさんの腕の中にいたベティちゃんの耳が不意にぴくりと動いたのです。
もっともそれだけなら別に大したことではないのです。いえ、ベティちゃんの耳がぴくりと動くのはなんともまぁ破壊力があるかわいいさの極致ではありましたが。それだけであれば、わりと見慣れているものなのです。
ベティちゃんの耳が動くのはわりとよくあることです。いえ、ベティちゃんだけじゃなく、ルリさんの耳も時折動くことがあります。それは物音を聞くためだったり、不意に届いた音を聞くためだったりと、とにかく聞こえた物音に意識を傾けているときでした。
物音に意識を傾けてすぐにベティちゃんはイリアさんの腕の中から抜け出したのです。かなり強引に。というか、大暴れを始めたのです。
「べ、ベティちゃん? いきなりどうしたんですか?」
いきなり腕の中で暴れ始めたベティちゃんにイリアさんは困惑していました。けれどベティちゃんの耳にイリアさんの声は届いていなかった。
「おとーさん!」
ベティちゃんは「おとーさん!」としか言いませんでした。その様子はとても必死なものでした。なにがなんでもレンさんの元へと向かわなければならない。そんな強い意志が灰色の瞳には込められていました。
「イリア、離してやれ」
「ですが、ルリ様」
「なに、ここは安全な場所だ。そんな場所で単独行動したところで問題はあるまい。だから離してやれ。というか、離さないとベティがそなたに物理的に噛みつきかねん。そうするとトラウマが余計に刺激されてしまう。だから離してやってくれぬか?」
暴れるベティちゃんを見て、ルリさんはイリアさんにベティちゃんを離すように言い聞かせていました。真剣そのものなベティちゃんとは裏腹に、ルリさんはとても穏やかな声で言われていたのです。
その声とベティちゃんの姿に、イリアさんは「わかりました」と言って、ベティちゃんを腕の中から床にと降ろしたのです。その次の瞬間にはベティちゃんは駆け出していました。その速度はまるで風のよう、一陣の風が吹いたかのように颯爽と廊下へと消えていきました。
「なにがあったんだ?」
国王様は唖然とされていました。そんな国王様にルリさんは「行けばわかる」とだけ言って、ルリさんは座っていた椅子から立ち上がられたのです。
「では、行こうか」
そう言ってベティちゃんの後を追う形で、廊下へと出られるルリさん。私たちはそれぞれの顔を見合わせましたが、最終的にはルリさんに続いて廊下へと出たのです。廊下に出ると、曲がり角のあたりでルリさんが立っておられました。近づいてみると、その近くにはシスター・アルカの姿もありました。おふたりの視線は同じ場所へと、突き当たりの部屋の中にと注がれていました。
その部屋の中では、レンさんとベティちゃんがいちゃついていました。
ベティちゃんは「おとーさん、おとーさん」と嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振るいながらレンさんに抱きしめられています。レンさんはそんなベティちゃんを愛おしそうに見つめながら抱きしめています。ええ、非常に羨ましいです。羨ましけしからんですね、はい。
「……なんとも微笑ましいものだ」
ふふふ、と国王様が笑っておいでです。
でも気持ちはわかります。ええ、わかるったらわかるのです。だってめちゃんこ羨ましけしからんわけであってベティちゃんかわいいなぁ抱きしめたいなぁ耳とかはむはむしたいなぁって感じですからねぇ、ええ。
「……まぁ、趣味は人それぞれ、ですね」
国王様はそっと顔を逸らされました。それまでとは違い、なぜか畏まった言い方をされているのが不思議でなりません。
「そっとしておきましょうか」
「そうだな。よろしいか? 国王殿」
「ああ、もちろんだ」
イリアさんとルリさんはふたりのやりとりを見て笑っていました。その声も纏う雰囲気もすべてが柔らかかった。
それは顔を逸らしていたはずの国王様も同じでした。いえ、レンさんとベティちゃんを覗いた全員が同じ想いなのでしょう。目の前の光景は決して侵していいものではないと。そっとしておくべきものなのだと。
「……あのふたりはちゃんと親子であられるのですね」
その場を立ち去ろうとしたとき、シスター・アルカはぽつりと漏らしました。私たちからは後ろ姿しか見えない。でも、その表情がどういうものになっているのかは、その声色だけでもじゅうぶんに理解できた。慈愛に満ちたものであることは理解できた。その様はまるで聖母であるかのようです。
「あやつらは親子だ。血のつながりはない。それどころか、種族さえも違う。それでも親子なのだ。親子であれているのだ。若干いびつな親子だが、深く想い合っていることは変わらない。それこそ本当の親子よりも、あやつらは想い合っているだろうな。微笑ましいよ、本当に」
シスター・アルカの言葉にルリさんはそう答えられました。そう、答えられたのですけど、どうしてでしょうね。私の耳には最後の一言が、「微笑ましいよ」という言葉が別の言葉に聞こえたのです。私の耳にはルリさんは──。
「──羨ましいよ、本当に」
──と仰ったように聞こえました。
確実に聞き間違いだとは思うのです。それでも、たしかに私の耳に聞こえたのはルリさんはそう仰ったように聞こえたのです。そうなった理由が私にはわかりません。
仮面の縁からわずかにこぼれた滴を、ルリさんの仮面からわずかにこぼれた滴を見て、本当に聞き間違いだったのかなとは思います。
でも、それを口にするほどに私は野暮じゃないし、その資格もない。
私にできたのは聞こえた言葉と目にしたものを胸の内に秘めることだけでした。
「おとーさん」
「なんだい?」
「よんだだけなの」
「そっか」
「ばぅん」
レンさんとベティちゃんの楽しそうな声。その声を聞きながら私たちは静かにその場を後にした。
血の繋がらない親子のやりとりを背に、私たちは来た道を戻ったのでした。




