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rev2-10 死人と生者の間で

 右目が疼いていた。


 じくじくと目の奥からの痛みがたえず襲ってくる。


 涙がこぼれていく。


 痛みゆえなのか、それともあの子を想ってなのか。


 たぶん、両方だろうか。


 どちらかと言えば、あの子を想う気持ちの方が大きい。


 逆に言えば、娘への想いと同じくらいに痛みが強いということでもある。


 当たり前と言えば、当たり前だ。


 人は、いや、生き物は痛みに弱い。


 痛みの前では親子の情さえも陰ってしまうのも当然なのかもしれない。


 そもそも本当の親子でもなかった。


 俺はあの子を本当の両親から奪い取った、ただの盗人のようなものだ。


 そんな俺をあの子は「パパ」と呼んでくれた。「パパ」と呼んで愛してくれた。俺もあの子を愛した。いや、いまもなお愛している。……守るどころか、かえって守ってくれたあの子のことを。失った右目の代わりに自身の右目をくれたあの子のことを。いまもなお愛している。


 そんなあの子との日々を少しずつ思い出しながら、その最期までを今し方話し終えた。


「……」


 クリスティナさんはなにも言わない。


 ただ顔を両手で覆ってなにも言わないでいる。


 顔を覆った両手からは滴がこぼれ落ちていくのが見えた。


 それがどういうものなのかは考えるまでもなかった。


「……ごめんなさい」


 クリスティナさんはまるで絞り出したかのようにそう言った。そう言うので精一杯のようだった。


「……謝らなくていいですよ」


「ううん、謝らせて。軽率だった。あなたが素顔を隠していた理由を知らずに、軽率なことを言った。あなたがどんな目に遭ってきたのかもわからなかった」


「クリスティナさんのせいじゃないです」


 クリスティナさんが責任を感じることはなにもない。


 クリスティナさんの責任はなにもない。


 悪いのは誰も守ることができなかった俺だ。


 守りたい人たちに守ってもらってしまった、弱すぎる俺だ。


 だからクリスティナさんはなにも悪くない。


 あえて言えば、俺とクリスティナさん、そのどちらも悪くないとすれば、悪いのはこんなくそったれな世界だ。そんな世界を作ったスカイディアが悪い。あの女とあの女を支持するルシフェニアが悪い。


 そうだ。すべての元凶はあの女だ。スカイディアがすべて悪い。あの女が存在していることこそがすべて悪い。だから俺は──。


「カレンさん、落ち着いて」


 不意にクリスティナさんの声が聞こえた。


 クリスティナさんは涙を流しながら、俺を見つめている。その表情は若干怯えの色が見える。歴戦の魔導師であるクリスティナさんでさえも怯えさせるほどに、俺の憎悪は大きく深いということなんだろう。


「……すみません。少し冷静じゃなかった」


「ううん、仕方がないよ。だってそれだけのことがあったんだもの。……私もそれなりにキツかったけれど、カレンさん、いえ、いまはレンさんか。レンさんはもっとひどかったなんて思ってもいなかった。誰もいなくなってしまったなんて考えてもいなかった」


「……失ってしまいましたからね。でも、失った分だけ、新しいものも手に入った。ふたりの娘と何人もの嫁を失って得たのが、たったひとりの娘だけというのはとんでもないレートだなぁと思うけど」


 あははは、と力なく俺は笑っていた。


 クリスティナさんはなにも言わなかった。ただ痛ましそうに俺を見つめていた。でも、それも俺を傷つけると思ったのか、また「ごめんなさい」と謝って視線を逸らした。


「それでもあの子は、ベティだけは俺は守りたい。あの子だけでもせめて守らなきゃいけないんです」


「……その気持ちはわかるよ。あいつが生きていた。あいつが生きて、ともにいたという証であるこの子を、私は守ると決めているもの」


 クリスティナさんは下腹部を、大きくなった下腹部を撫でながら、強い決意の籠もった表情を浮かべていた。その表情はこの世界に来て何度も見てきたもの。日常的に何度も見続けてきた母親のものだった。嫁たちがシリウスとカティに対して、時折浮かべるのと同じものだった。


「……クリスティナさんは強いな」


「そんなことないよ。レンさんの方がはるかに強い。私はここに流れてくるまで、なにもできなかった。アルクとアスラに乗せられた船の上で、平和な船の上でぼんやりと過ごすことしかしなかった。無為の日々を過ごすことしかできずにいた」


「……それでも生きてここにたどり着いた。俺はもう半ば死んでいるようなものです。でも、あなたはまだ生きている。生きてその身に宿る命を守り抜くと決めている。俺には生きながら守ることを選べなかった。選べたのは死にながら守ることだけ。俺はもう人としては死んでいるから。いまの俺はもう人とは言えない。人であっていいはずがない」


「そんなことないよ」


「いえ、いまの俺はもう壊れている。壊れて壊れきっているんです。だから俺はもう死んでいる。そんな死人が「カレン」であるわけがないんです。「カレン」は死んで、「レン」になった。「アルカトラ」と名乗ったのは、死人が行き着く先だから。死人である「レン」には「アルカトラ」こそが相応しい。そう思った。だから俺は──」


 語るたびに涙がこぼれていく。


 そんな俺にクリスティナさんはなにも言わないでいた。ただ俺の話を黙って聞いてくれていた、そんなとき。


「あ、ちょっと待って」


 扉の向こう側からシスター・アルカの声が、慌てるような声が聞こえてきた。どうしたのだろうと思いつつ、外していた仮面を身に付けるのと扉が勢いよく開くのは同時だった。そうして開いた扉の向こうには──。


「おとーさん!」


 ──なぜか怒ったような顔をしているベティがいた。ベティはぷくっと頬を膨らましながら俺のもとまで来ると、「ばぅ!」と鳴いてから飛び込んできた。慌てて抱きかかえると、ベティは言った。


「おとーさんはほんとうにこまったおとーさんなの!」


 ふんだと言いながらそっぽを向くベティ。


 いきなりすぎてなにを言われたのかがさっぱりと理解できない。


 いや、なにが言いたいのかを理解できない。


 いきなり抱きつかれたと思ったら、本当に困ったおとーさんだと言われても、いったいどうしてそういう結論に至ったのかがまるでわからなかった。


「えっと?」


「おとーさんがおとーさんをばかにしている気がしたの。おとーさんはベティにとってさいこうのおとーさんだもん! ほんとうのちちじゃと同じくらいにさいこうだもん!」


 ベティは唸る。唸りながらもちらちらと俺を見つめている。よく見ると灰色の尻尾がふらふらと揺れていた。その様は「まだかな? まだかな?」と言っているかのようだ。


「……撫でてあげたら?」


「……いいんですかね」


「いいの! おとーさんのおしごとはベティをなでなですることなの! だからなでろなの!」


 鼻息荒くしながら言い切るベティ。あまりにも横暴すぎる言葉だけど、その言葉に不思議と救われた気がした。


「……うん。じゃあ、撫でさせて、いや、お父さんの仕事をさせて貰おうかな?」


「うん、くるしゅーないなの!」


「はいはい」


 ベティの言葉につい笑ってしまった。


 笑いながらベティの頭を撫でていく。ベティは「ばぅ~」と気持ちよさそうな声をあげて、尻尾をゆるゆると振っていく。その様はとても愛らしかった。クリスティナさんもベティを愛らしく思っているからなのか、微笑ましそうに見つめている。


 少し前までの空気はなくなっていた。


 いまの空気はどこまで澄んでいる。この子のおかげだ。


(ああ、そうだ。俺はまだ、俺にはまだこの子がいる)


 わかっていたことだ。


 わかっていたことだったけれど、それを再確認できた。


 俺はもう死人だ。


 心がもう死んでいる。だから死人だ。


 そのことは誰にも否定させるつもりはない。


 それでも、普段は死人であっても、この子の前でだけは死人でいるのはやめてもいいのかもしれない。


 死人ではなく、「カレン」であった頃に戻ってもいいのかもしれない。


 ベティにとっては「カレン」でも「レン」でも変わらないのだから。ベティにとっては俺は「おとーさん」なんだ。「おとーさん」の名前がどうであれ、俺がベティの「おとーさん」であることには変わらない。


「ベティ」


「ばう?」


「大好きだよ」


「ばぅん! ベティも大好きなの!」


 えへへへとベティは笑う。その笑顔に救われた。その笑顔が俺を救ってくれる。そのことを改めて理解しながら、俺はベティを抱きしめた。大切な愛娘を、たったひとりだけになってしまった愛娘をしっかりと腕の中で抱きしめ続けた。

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