rev1-70 伸ばした手はなにも掴めず
トンという軽い音が聞こえた。
それまでひゅーという風を切る音とともに落下していた。あのままであれば、強い衝撃とともに落ちたはず。場合によってはそのまま死んでいた可能性があった。
でも衝撃は不思議と感じなかった。
シリウスちゃんの頭の上から落ちたというのにも関わらず、御山の木々よりも高い場所から落ちたというのにも関わらず、私は衝撃を感じることはなかった。痛みも当然なく、本当に落下したのかと疑ってしまいそうになる。
でも、落ちたのは事実でした。それもただ落ちただけではなく、レンさんも巻き込む形で落ちたのです。そう、レンさんも巻き込む形、でです。しかも、よりによって、レンさんとき、キスしながら、でして。
まぁ、そのおかげでレンさんもご自身を取り戻されたみたいですけど。むしろ、取り戻されなかったから、私はそのまま落下死していたわけですが。
私が衝撃を感じなかったのは、レンさんが私を抱きかかえて着地してくれたからです。それでも衝撃を一切感じなかったのはどうしてなのかはわかりません。
風の魔法を使えば、落下速度を抑えられるかもしれないけれど、とっさにそんなことができるとは思えない。そもそも詠唱さえも聞こえなかったから、魔法はないと思う。でも魔法以外に衝撃を感じなかった理由がわからなかった。でも、魔法ならなんで詠唱が聞こえなかったのも理解できない。
……ですが、いまはそのことよりも先に片付ける問題があるわけなんですけどね。
『あーあ、まさか、妹が旦那様を寝取りに来るなんて思っていなかったなぁ。お姉ちゃんはこんなにもアンジュのことを考えているのに。それをまさかこんな形で返されるなんて思ってもいなかったよ。お姉ちゃんは悲しいよ、アンジュ』
……レンさんとキスしたせいなのか、お姉ちゃんからの当たりが非常に強いです。まぁ、当たりと言ってもどこかからかっているような口調でもあるので、そこまで怒ってはいなさそうですが。
『だ、だからそんなことはしていないってば!』
『えー、どうかなぁ? あれはどう見てもキスしに行ったとしか思えないよ、お姉ちゃんは』
『そ、そうじゃないもん! あれは事故なの。じーこ!』
『はいはい、事故に見せかけたお姉ちゃんへの宣戦布告だね』
『ちーがーうー!』
……いえ、怒っていないわけではないようですね。だって一切話を聞いてくれないもの。これは相当にお冠ですね。まぁ、レンさんはお姉ちゃんの旦那さんですから、その旦那さんのキスシーンを見せつけられれば、そりゃあ怒りますよね。でも、少しくらいは私の話を聞いてくれてもいいんじゃないかなって思うんですけども。
『なにが違うの? 目の前でお姉ちゃんの旦那様を寝取ろうとしているのに。あぁ、そうか。アンジュにとってはとっくにお姉ちゃんから旦那様を寝取ったつもりだから、いまさらそんなことをぐちぐち言うなってことだね?』
『なんでそんな曲解するの!? 曲解するにもほどがあるよね!?』
『曲解されるようなことをしたのはアンジュだよ?』
『だから、あれは事故──っていま曲解って認めたよね? つまり』
『よく聞こえないなぁ~』
鼻歌を歌うように言い切るお姉ちゃん。どうやらいままでのは私をからかうためのもののようですね。まぁ、からかいつつも、若干怒っているということもあるんでしょう。私にとっては勘弁して欲しいことなんですけどね。
『まぁ、からかうのはこの辺りにしておこうかな? キスしたのはちょっと腹が立ったけれど、おかげで旦那様が元に戻ってくれたみたいだ』
レンさんが元のレンさんに戻ったことをお姉ちゃんは喜んでくれていますが、やっぱりキスをしたことは許せない模様ですね。それはそれ、これはこれということでしょうけど、そろそろ私の話を聞いてくれてもいいんじゃないかなって私は思うわけなんですが、お姉ちゃんには届かないみたいです。
『レンさんが元に戻ったのであれば、それでよくないかな?』
『うん、ダメ』
『……ダメなの?』
『うん、ダメ。妹でもこればかりはダメだもの。旦那様は私の旦那様だもの。その旦那様に手を出されたら、妹相手でも戦争しかないもの』
『そこまで?』
『うん。そこまで言うよ? でも、アンジュが素直になるのであれば平気かな?』
『素直ってなに?』
お姉ちゃんが言いたい意味がよくわからず聞き返した。でも、お姉ちゃんは『そういうところ』とはぐらかすだけです。お姉ちゃんの言いたい意味がよくわからない。
『まぁ、お姉ちゃんのことはいいよ。それよりもそろそろ──』
『そろそろって』
なんのことを言っているのと聞こうとした。それよりも早くレンさんの声が頭上から聞こえてきた。
「大丈夫か、アンジュ?」
「あ、はい。問題ない、です」
「……そっか。まぁ、その、なんだ。えー、あー。うん。ごめん、な?」
「はい?」
レンさんがなぜか謝られました。いきなり謝られた意味がよくわからなかった。助けてくれた人になぜ謝罪をされるのでしょうか。むしろ謝罪するのであれば、レンさんを巻き込む形で落下してしまった私の方です。なのになんでレンさんが謝られるのか。それもなぜか私の背後をちらちらと見やりながらです。いったいそっちになにが──。
「……ばぅ。アンジュおねーちゃんはてきなの」
「……そうですね。これは敵認定をしないといけませんね」
「ばぅん」
不意にとても冷たい声が聞こえてきました。恐る恐ると振り返ると、そこには頬をぷくっと膨らましたベティちゃんと非常に冷たい雰囲気をか持ち出すイリアさんがおられました。どうやらお二方とも相当に怒っている模様です。いったいなぜと言う気はありません。私を散々責めていたお姉ちゃんとそっくりなのです。要するにはヤキモチです、声だけのお姉ちゃんとは違い、目の前にいるのですから。これは修羅場ですね。そんなつもりもないのに、修羅場展開ですか?
「あ、あれは事故でありまして──」
私が身の潔白を証明しようとしたとき、「まま!」とシリウスちゃんの慌てる声が聞こえてきました。
「どうしたの──」
シリウスちゃんを見やろうとしたとき、シリウスちゃんが「きゃうん!」と悲鳴に似た声を上げた。その悲鳴とともにシリウスちゃんの目元から血が舞っていた。舞い上がる血を見上げながら「……え?」と状況を飲み込めないでいると、シリウスちゃんの頭上に人影が現れた。
「……今回は、ここまでにいたしましょうか」
シリウスちゃんの頭上に現れたのは、ひどく憔悴したような顔をした、顔をひどく顰めたティアリカという女性でした。
「あの姫も下がったことですし、私が尻拭いする必要もありません。ただ敢闘賞くらいはあげましょうか」
女性は胸元から真っ黒な鞘を取り出し、それを投げ渡してきた。レンさんはとっさに鞘を受け取りました。投げ渡されたそれは、イリアさんの呪いを解くために必要なもののはず。でもなんでそれをいきなり渡してくれるのか。
「そちらの姫の解呪にお使いください。敢闘賞としてはこれ以上なく相応しいでしょう」
「……いいのか?」
「ええ。まぁ、長生きはできない者のために使うのはやめた方がいいとあえて言っておきますが」
「……それでも俺はイリアにできるだけ生きていて欲しい」
「……左様ですか、あなたは変わりませんね。見た目は変わってしまったのに、その有り様は変わらない」
「そんなことはないよ。俺は変わったよ。夜がまるで終わらなくなった。いまの俺はずっと夜に囚われている。だから俺は変わった。まるで変わってしまったよ」
「……そうは見えませんけどね。あなたはあの日からなにも変わっていない。欠ける前のあなたのままです。あなたはただ殻を被っただけでしょう? ……レア姉様がこの場におられたら同じ事を仰るはずです。あなたはただ殻を被っただけ。本当のあなたはなにも変わらない。欠けてなんていない。あなたは変わっていないのです。……手前やレア姉様とは違い、あなたはあなたのままです。愛しい方」
「……ティアリカ」
レンさんと女性はすぐ目の前で語り合っているかのように、お互いをじっと見つめ合っていた。その様子になぜか胸が騒ぐ。その意味はよくわからなかった。
「……少々口が過ぎましたね。それでは、今宵はこれにて。またお会いしましょう。そのときには手前を捕まえてくださいませ。この偽物とともにね」
くすくすと笑いながら、女性はシリウスちゃんの頭に触れた。同時に空間が大きく歪んでいく。女性どころか、シリウスちゃんの大きな体ごと空間に囚われていく。
「まま、まま、ままぁ!」
シリウスちゃんが必死に私を呼んでいた。私もとっさに「シリウスちゃん!」と声を掛け、腕を伸ばすけれど、あの子に届くことはなく、あの子の目が私を捉えることもなかった。あの子は突如として光を奪われ、闇に囚われたまま、私を必死に呼び続けながら、その場から消えてしまった。あの子の頭の上に乗っていた女性も一緒になって。
「……シリウスちゃん」
伸ばした手はなにも掴めず、掛けた声に応える声は聞こえない。目の前に広がるのは白銀の世界。あの子がいた証はあれど、もうあの子は目の前にいない。そんな現実が胸を痛ませてくれる。でもその現実に対して私はなにもできず、ただ腕を伸ばし続けることしかできなかった。




