rev1-69 白銀の中の紅
どうしようもない怒りがずっと燃えさかっていた。
燃えさかっているけれど、大きさ自体はそこまでじゃない。
でも、ずっと燃え続けていた。消えることなく、心を、体を蝕むようにして燃えていた。
そんな怒りをどうすることもできなかった。感情のままに振り上げた拳は、虚空を掴んだまま動かせない。
振り上げた拳を叩きつけたい相手が、目の前にいない。いるのは希望の偽物の死体だけだった。偽物だとわかっていても、別人だとわかっていても、それでも目の前にいるのは希望だった。俺が愛した人。いや、愛してしまった人だ。
(……俺が希望に気持ちを向けなければ、こんなことにはならなかったのかな)
希望を愛したこと。それが間違いだったんだろう。
俺が愛さなければ、いや、希望とただの幼なじみでいれば、希望は攫われることはなかった。そもそもこの世界に来ることだってなかった。
俺のことは時折「そういえば、そんな子がいたなぁ」という程度に思い出しているだけでよかった。
希望が俺を愛することもなかった。
すべて俺のせいだ。
俺がいたから希望はひどい目に遭っている。
その見目を受け継いだ偽物たちもひどい目に遭ってしまっている。記憶を受け継いでしまった子も俺の犠牲者でしかない。
そう、すべては俺のせいだ。
俺は加害者でしかない。決して被害者ではない。俺は加害者にしかすぎない。
そんな俺が怒りに燃えてどうするんだと思う。ただの偽善でしかない。俺の怒りはただ正義の味方面しているだけの偽善者のものだ。道徳的に間違っているだの、義憤に燃えるだのなんて言えるわけがない。そんなことを言える立場でもない。
それでも怒りは燃えさかっていた。
この怒りはしょせん偽善だと自分でもわかっていた。
道徳的に間違っているなんてどの面下げて言うつもりなのかということもまた。
振り上げた拳は行き場所を失っていた。
失った拳をどうすることもできなかった。
どうすることもできないはずなのに、気づいたときには俺は剣を振るっていた。
剣を振るうたびに黒い塊が宙を舞った。
白銀の世界で混じる異物は、まるでゲームにおけるバグのようだった。
いや、バグなのは俺の方なのかも知れない。
美しい世界を汚す異物。それが俺なのかもしれない。
そうだ。俺は異物だ。世界を汚して穢す、存在してはいけない異物。
それが鈴木香恋であり、カレン・ズッキーであり、レン・アルカトラなのだろう。この世界にいるべきではない穢れであり、異物。なら異物は異物らしく、穢れは穢れらしく振る舞っても問題はないのかも知れない。
(倫理だの、正義だの、道徳だの。全部、全部どうでもいい。そんな面倒くさいもの、もうどうでもいい。そんなものがあっても邪魔なだけだ)
そう、すべて邪魔だ。
なにもかもが邪魔だった。
美徳と呼ばれるものはすべてが邪魔でしかない。
倫理がなにをしてくれた?
正義が誰かを守ってくれたか?
道徳はこの手に力を与えてくれたか?
(いいや、そんなことはない)
倫理はなにもしてくれなかった。
正義は守りたい人を守ってくれなかった。
道徳は力を与えず、ためらいだけを与え、その間にすべてを奪われる。
そんな美徳になんの意味がある?
意味なんてあるわけがない。
あるのであれば、なんで俺は失ったんだ?
愛する娘を、小生意気な妹を、そして大切な彼女たちを。
どうして俺は失ってしまったんだろうか?
美徳になんの意味もないからだ。
意味があれば、それらが俺になにかを与えてくれていたのであれば、俺はきっと守れていたはずだ。騒がしくも心地よかった、あの日々を守ることができていたはず。いまみたいにがらんどうな日々を送ってはいなかった。
そうだ、すべては美徳なんてくだらないものに囚われていたからだ。
そんな無意味なものなんて、捨ててしまえばいい。
目の前にあるものはそのためにはおあつらえ向きじゃないか。
どうせ、もう生きてはいない。
ただの屍肉だ。熱が消え、光のない屍肉。その屍肉をどうしたって誰かに文句を言われる筋合いはない。
なにせ、この世に生きる、ありとあらゆるものは屍肉を喰らっている。齧り付き、引き裂き、そして咀嚼する。それはどんな生物だって同じだ。どんな生物だって、やり方が違うだけで喰らい方になんの違いもありはしない。
だから問題はない。
この屍肉をどうしようと誰かに文句を言われる筋合いなんてない。
そう思ったときには、黒い塊が次々に宙を舞っていった。
黒い塊は俺の体を穢していく。
でも気にすることはなかった。
気にする必要はない。
これは禊ぎなんだ。
無意味なものを捨て去るための禊ぎ。
全身に浴び、体を穢すことで、いらないものを捨てることができる。そうしてようやくすべてを壊すことができる。
だから問題はない。
問題なんてあるわけがない。
確信を抱きつつ、剣を握る手に力を込める。
剣が走る。塊が舞う。体が穢れる。
それらはすべてワンセットで行われていく。
ワンセットで行われるそれが、どこか心地いい。
笑い声を上げたくなるような。膝を叩いて喝采をしたくなるような。とても愉快な気分に浸れた。
でも、その一方で妙な空しさと悲しさと苦しさが押し寄せてくる。その意味を考える間に、剣は走った。塊が舞った。体が穢れていった。
心地いいはずなのに、不思議と満たされることはない。むしろ、どんどんと空っぽ担っていく気がした。
どうしてそうなるのかがわからない。
わからないままに、剣を振るっていた。そんなときだった。
「レンさん!」
不意に声が聞こえてきた。
誰の声かもわからない。でも、聞こえてきたということは誰かがいるということ。その誰かを確認するために振り向いた。すると、「わぅ」という懐かしい声とともに急に体のバランスが崩れた。
急なことだったけれど、どうにか踏ん張ることはできた。そう、俺はできた。でも、声の主はそうではなかったようで、「ふ、わわわわ!」と手足をばたつかせながら、突っ込んできた。
「……は?」
いきなりのことすぎて、思考がついていかなかった。ついていかないまま、声の主はまっすぐに向かってきて、そして──。
──ちゅ
──なんとも言えないほどに軽やかな音とともに唇を重ねることになった。もっとも唇を重ねる音は軽やかだったけれど、その後ゴキィッというとても鈍い音が俺の首から鳴ってしまったけれど。
(……首の骨折れていないよな?)
そんなことを考えながらふたり分の体重を支えることはできず、俺はそのまま後ろに向かって倒れ込んだ。いや、倒れ込む形で落ちた。視界に空が遠くなっていくのが見える。それでも世界は白銀に染まっていた。世界を覆う雪、その雪が降る空、そして肌に触れる細やかで美しい銀髪が視界を染め尽くしていた。
そんな視界の中で、ただひとつ別の色もあった。それは驚きで目を見開く宝石のような紅。守れなかった大切な人のひとりであるカルディアを思い浮かばせる紅い瞳が俺を見つめていた。その瞳の光に燃えさかっていた怒りが落ち着いていく。その理由を理解できないまま、俺は瞳の持ち主である声の主──カルディアの双子の妹のアンジュをそっと抱きしめて、ともに雪原へと落ちていった。
これも一種のフラグかしら←




