rev1-46 狂愛
シリウスちゃんが倒れ伏してもなお、レンさんに剣を突きつけられてもなお、仮面の女は笑みを浮かべていた。
「ふふふ、さすがですね、旦那様。いくら出来損ないとはいえ、これだけの巨体を誇る化け物をあっさりと無効化するなんて。最初は全然攻撃なさらないから情に流されたのかと思っておりましたが、単純に無効化するための手順を確認なさっておいででしたか。まぁ、それでこその旦那様ではありますけども」
口元に手を当てたまま、仮面の女は笑っている。追い込まれている状況であるのに、なんでこんなにも余裕があるのかがわからない。
シリウスちゃんは腱を切られた影響で身動きが取れないというのに、あの女の切り札が失われたばかりだというのに、その余裕はどういうことなのか。
それともあの女にとってはシリウスちゃんは切り札たりえないのか。
わからないことが多い。
ただわかることがあるとすれば、それはあの女はまだ追い詰められたというわけじゃないということ。あの女にとってはまだ切り札があるということ。
レンさんたちもおそらくはそのことをわかっている。
その切り札を探ろうとしているんでしょう。すべてはシリウスちゃんを助け出すために。これ以上シリウスちゃんを傷つけないために、あの女の手の札を明らかにしようとしている。
(レンさんって本当にお父さんなんだなぁ)
いまの姿を見ていると、本当にレンさんはお父さんなんだというのがわかります。娘さんを心の底から愛されている。だからこそシリウスちゃんを傷つけたとき、どんな気持ちだったのかは想像もできなかった。身が引き裂かれるようだとは言いますが、おそらくはそれと同じか、それ以上の辛さがあったはず。実際にはレンさんにしかわからないけれど、仮面から覗く紅い右目は悲しみの色に染まっている。
(……お姉ちゃんだったらレンさんを、いまのレンさんを助けられるのかな?)
会ったこともないお姉ちゃん。でもお姉ちゃんなら、レンさんの奥さんだったお姉ちゃんならレンさんを救えたと思う。だけど、この場にいるのはお姉ちゃんじゃない。この場には私しかいないんだ。
だからレンさんを救えるのは、救える余裕があるのは私だけ。イリアさんも可能性があるけれど、イリアさんは戦闘要員だからそんな余裕はない。余裕があるのは、手が空いているのはレンさんの腕の中にいる私だけだった。
「あ、あの」
思い切ってレンさんに声を掛けようとした、そのとき。どこからともなく拍手の音が聞こえてきました。同時に背筋が震えた。いや、これは背筋だけじゃない。大気が震えているようでした。
「ふふふ、お見事でした。シリウスちゃんの出来損ないとはいえ、躊躇なく急所を一点集中で狙われるとは。さすがですね」
拍手とともに足音が聞こえた。次いで穏やかな女性の声も。そう、穏やかです。穏やかなのにその声は底冷えしているように感じられた。
その声に私は言葉を喋ることができなくなった。呼吸が自然と速くなり、過呼吸となっていく。過呼吸を繰り返しながら、私はどうにか振り返った。振り返った先にいたのは雪のように真っ白な肌をした女性でした。そしてその目はとてもきれいな紅だけど、禍々しくもあった。まるで血の色のような、いや、血の塊が瞳になっているように感じられた。
「……ティアリカ」
「ええ、お久しぶりです。しかしずいぶんとまぁ様変わりされましたね? まるで別人のようです。特にその絶望に染まった瞳など、あなた様にお似合いかと」
「……そうか」
レンさんは絞り出すような声で頷いていた。そうとしか言えないんでしょう。
「レンさん」
「……大丈夫だ。俺は大丈夫だ」
レンさんは一見落ち着いている。でも、シリウスちゃんを傷つけたときと同じくらいに傷ついているようです。いったい、この女性はレンさんにとってどんな人なのか。私が知らないレンさんの過去にはいったいなにがあったんでしょうか。
「おや? 彼女はいないのですね? 後生大事に抱きかかえられていた、あの亡骸は」
くすくすと女性が笑った。その瞬間、レンさんの剣は女性に向けて振られていた。肘から先が見えない速さ。まさに一閃とも言える速度。そんな一撃を女性はニコニコと笑って見つめている。レンさんの剣はまっすぐに女性の首筋へと向けられている。シリウスちゃんの、あの巨体となったシリウスちゃんの体さえも切り裂いたレンさんの剣が、女性にと振るわれたら、その結果どうなるのかなんて考えるまでもなかった。
「れ、レンさん!」
慌てて声を掛けるけれど、もう遅い。次の瞬間に降る血の雨に私は戦慄くことになると思っていた。
──ガキィン
けれど、思っていたのは違う音が鳴り響く。見れば女性はいつのまにか剣を握っていて、その剣でレンさんの一撃を防いでいた。それも焦ったようにも、慌てたようにも見えない。平然とした様子で防ぎきっていた。
「いい一撃ですね。手前をそんなに殺したかったですか? ふふふ、あの亡骸にはあなたはずいぶんとご執心されておられましたから、無理もないですか」
「ティアリカっ!」
「ふふふ、いい目です。手前がそんなにも憎いですか? ああ、ひどい。たった一度とはいえ、ご寵愛をいただけたというのにも関わらず」
「え?」
女性の言葉に思わず声が漏れていた。ご寵愛ということは、つまりレンさんは一度この人とそういうことをしたということ。お姉ちゃんという奥さんがいるのにも関わらず。いったいどういうことなのか。レンさんの過去がますますわからなくなっていく。でもそんな私を無視するように女性は続けていく。
「まぁ、あなた様はとんだ女誑しですから。手前のことなど体が気に入っていたという程度でしょうね。それでも一度は愛した方に剣を振るわれるのは、なかなか辛いものがございます。そんな手前の気持ちを理解していただけておられますか、旦那様?」
「旦那、さま?」
女性の言葉にオウム返しをしてしまった。それで女性は私の存在にいま気づいたかのように「おや?」と私をじっと見つめていました。その視線はどこか蛇が絡みついているくるような執拗さがあった。
「旦那様は本当にひどいお方です。また女を侍らすのですか? まったく救いようがありませんね? だってあなたはそうして侍らした女を守れず、死なせることしかできないのですから。そう、あの竜や亡骸、そしてカルディアさんのようにね?」
くすくすと女性が笑った。その瞬間、レンさんは「ティアリカぁぁぁぁ!」と大声で叫んだ。防がれた剣を強引に振り抜き、女性に斬りかかっていく。けれど、女性は剣を振るうことなく、手で払うことで防いでいく。
それでもレンさんは止まらない。止まることなく剣を振り抜いていく。そんなレンさんを見て、女性は笑っている。どこか狂ったような笑みを浮かべながら、レンさんを見つめていた。レンさんは叫びながら剣を振るう。いまのレンさんは止まらない。それをはっきりと理解しながらも私はただレンさんの名前を呼びかけることしかできないまま、レンさんにしがみついていた。




