Act9-407 私にできること
遅くなりましたが、アイリス視点となります
真っ黒な海を進んでいく。
暗く、冷たい海の中を私たちはホエールの背に乗って進んでいた。
(まさか、同じ個体のホエールの背に乗るなんてね)
ホエール自体は、珍しい魔物ではない。
むしろありふれた種類の魔物だった。ただ見かけることがそこまでないということだけ。
見かけたとしても、海面に出た背中の部分がせいぜいで、その全身を見られるわけじゃない。ありふれた魔物ではあるけど、出会うことは少ない魔物。それがホエールだった。
そのホエールの背中に乗って移動した経験を持つ者なんてそうそうはいない。
でもそのそうそうはいないことを私たちはいま経験していた。
しかも私と主様に至っては、これで二度目だった。それも同一個体の背に乗ってだ。
なかなか経験できることじゃなかった。
(……その経験とていまの主様にとっては素直に喜べないことでしょうけどね)
主様は、私とフェンリル様から離れてホエールの頭部のあたりでプーレさんと一緒に座っていた。プーレさんの亡骸を抱き締めながら座っていた。
(……なんて声を掛けてあげればいいのやら)
声を掛けてあげたいところだけど、その内容はなにも思いつかない。
たった一日で主様は大半のものを失ってしまった。家も財産もそして愛する家族さえもすべて失った。
そんな主様になんて声を掛けてあげればいいのかはわからない。
そもそも声を掛けること自体が正しいのかさえもわからない。
声を掛けてあげることは、ただの私の感傷でしかないのではないかと思うと、なにもできなかった。声を掛けてあげることさえもできなくなってしまった。
ただ、その疲れきった背中を見つめることしかできなかった。
『アイリス』
不意にフェンリル様から念話があった。なんでしょうと念話で返すと、フェンリル様は不敵ににやりと笑われた。
(なにかしら、すごく嫌な予感が)
『抱かれてこい』
『……はい?』
言われた意味がよくわからない。
いや、言葉の意味を理解することができない。
フェンリル様はなにを言っているのだろうか。
『だから、カレンに抱かれてこい。あやつとて、いろいろと発散したいこともあろう。特にいまのような状況ならば、人肌が恋しいはずだ。泣きたくても泣けない状況ならば、人肌に癒されたくもあろう』
『それはそうでしょうけど。でもなんで抱かれなければ』
『……まぁ、それはあれだ。うん』
『はい?』
『なんとなく?』
『……は?』
この人はいまいったいなにを言っただろうか?というかなにが言いたいのかがさっぱりとわからない。
だけど、主様のためになにかをしようとしているその意思はわかる。その手段が意味不明なのだけども。
『まぁ、とにかくだ。さっさと抱きついてこい!我は寝る!』
『え、あ、ちょ、ちょっと!フェンリル様!?』
背中をげしげしと蹴った後、フェンリル様はその場に横たわってしまった。
(けしかておいて寝るとか)
フェンリル様がなにをなされたいのかがまるでわからない。
わからないけど、いまは私がどうにかするしかない。
フェンリル様も主様をどうにか持ち直させるために私の背中を押されたのだろうから。抱かれろうんぬんは言葉の綾だと思いたい。
(どうにかできるといいんだけど)
ため息をひとつ吐きながら私は、主様のもとへと向かった。




