Act9-403 いきなさい
遅くなりました。
今回はククルさんとの別れとなります。
ククルさんが苦悶の息を漏らしていた。
唇は紅く濡れていた。口紅とは違う紅で濡れている。
その紅が俺の顔を、体を染めた。
「ククルさん!」
紅に染まった体でククルさんを呼ぶ。ククルさんを呼びながら、その胸を貫いた剣の持ち主であるティアリカへ視線を向けた。
「昨日ぶりですね、旦那様。すっかりとみじめなお姿になって。ふふふ、お似合いですよ」
ティアリカは笑っていた。笑いながら辛辣な言葉をくれた。いつものティアリカらしくないけど、いまのティアリカはたぶんレアと同じ状態なんだろう。
愛情と嫉妬が反転した結果、ティアリカは別人のようになっていた。実際その肌と目の色は真逆になっていた。
パッと見では別人のようにさえ感じさせる。
けど、目の前にいるのは別人じゃない。紛れもなくティアリカ本人だった。
その証拠にその手にある剣は、ミドガルズさんだった。
『……神子様、申し訳ありません』
ミドガルズさんは念話で謝っていた。普段のミドガルズさんらしからぬ言葉に戸惑ってしまう。
『いまの主ティアリカは、普段の主ではありません。ほぼ暴走しているようなもので──』
「あなたにいつ発言を許しましたか、ミドガルズ?」
ミドガルズさんの言葉を遮るようにして、ティアリカはミドガルズさんの刀身を殴り付けた。ミドガルズさんの刀身を殴り付けたことでククルさんの胸を刀身が抉っていく。ククルさんが再び吐血した。
「やめろ、ティアリカ!」
ティアリカを止めようと声を荒げるも、ティアリカは止まることなくミドガルズさんの刀身を殴り付けていく。
普段からわりと刀身を殴ってはいたけど、いまのは本気だった。
本気でミドガルズさんを叩き折ろうとしているようにしか見えない。
「まったく以前までの私は、なぜこんな駄剣を後生大事にしていたのやら。こんな駄剣など大事にする必要などないというのに」
ティアリカは口元を「ニタァ」と妖しく歪ませていた。ティアリカが浮かべることのない笑顔。俺の知っているティアリカではない笑顔だった。
『……お気になさずに、神子様。少し前までは生娘だった主の拳など大したことはありません』
ミドガルズさんは笑い声をあげていた。そんなミドガルズさんに、ティアリカは再び笑った。でもその笑顔はとても残酷そうな笑顔だった。
「なるほど。主である私を敬う気はなし、と。となれば壊すしかありませんね。こんななまくらなど私には必要ありません」
ティアリカがククルさんの持っていたナイフを奪い取ると、ミドガルズさんのコアの部分へと切っ先を突き刺した。同時にククルさんの胸をより抉っていく。
ククルさんがまた吐血をした。その目はどこか虚ろになっていた。
「ククルさん!しっかり、しっかりしてください!」
呼び掛けるとククルさんは、ゆっくりと顔を上げるとにこやかに笑った。でも俺にはその笑顔がただ笑ったようには見えなかった。
俺には「後は任せなさい」と言っているかのように、俺の背中を押そうとしているかのようにしか見えなかった。
「……私なら大丈夫です。だから気にしないでください」
ククルさんが小声で言う。
その声が聞こえてすぐにアイリスから「主様!」という声が聞こえた。振り返ると、俺たちの方に一隻の船が向かってきていた。
ククルさんが用意したという船であることは間違いなさそうだった。
船はもうすぐそこにまで迫っていた。アイリスたちは俺と船を交互に見やっていた。もう時間はないと言っているようなものだった。
新人の冒険者たちは、思考が停止しているようで障害にはなりえない。
「でも」
ククルさんを置いていくことなんてできない。そもそもククルさんに危害を加えているのは、ティアリカだ。俺の嫁なんだ。
だから放っていくことなんて──。
「……いきなさい、小娘ちゃん」
とんと軽い音を立ててククルさんの手が俺の胸に触れた。
「風よ、吹き荒れよ。「風波」」
ククルさんが口にしたのは、風の魔法である「風波」──対象を吹き飛ばすだけの魔法だった。その「風波」によって俺は海岸から吹き飛ばされた。
「ククルさん!」
「風波」に吹き飛ばされながら俺は必死に手を伸ばした。
けれどククルさんは笑うだけだった。
「……いきなさい。ただまっすぐに。あなたらしくいきてください」
ククルさんの声がはっきりと聞こえた。聞こえるはずのない小さな声だったのに、その声を俺ははっきりと聞こえていた。聞くことしかできないまま、俺はククルさんの用意した船にと落ちていった。




