Act9-383 ふたつの雨
雨が降っていた。
実際の雨に比べると、小雨にも満たない。少量な緋色の雨。
その雨の中、ひとりぽつんとあの子は立っていた。顔を俯かせて両手をぎゅっと握り締めながら、体を震わせていた。
「──さようなら、「まま上」」
緋色の雨を生じさせている「それ」にあの子は、別れを口にした。トン、と小さな音を、耳を澄ませても聞こえるどうかもわからないほどに小さな音ともに、あの子は「それ」を地面に向けて押した。
普段であれば、その程度のことで地面に向けて落ちることなんてない。
でもいまは落ちた。ゆっくりと地面に向かって落ちていく。
すぐになにかが潰れる音がした。そしてあの子の前をくるくると回転して落ちていく「風車」があった。
「風車」にあるガラス玉のようなものがあの子を見やっていた。あの子は、ガラス玉をしっかりと見たうえでもう一度「さようなら、「まま上」」と言っていた。
すでに体の震えはない。だけど声は震えている。
緋色の雨に体を濡らしながらも、気丈に別れを告げていた。
それでも声の震えを止めることはできない。同じようにその頬を伝うものを止めることもできない。
(……辛い、でしょうね)
あの子の心情を考えると、胸が痛かった。
狂いに狂っていたとはいえ、母親を殺したのだから。
辛くないわけがない。
私や姉様も母様たちに手を掛けたとき、とても辛かった。辛いの一言では言い表すには足りないほどに。あの空虚感は心を抉る。
その空虚感をいまあの子は経験している。
胸が痛かった。
どうにかしてあげたいと思うけど、どうしてあげればいいのかがわからなかった。
わからないまま、あの子はゆっくりと私の方にと向かって来て、そして──。
「……ごめんね、アイリスさん。ああするしかなかったの」
あの子は、シリウスちゃんは涙を流しながら頭を下げた。
背丈はすっかりと私よりも大きいのに、その姿は傷つききった幼い子供のようで、見ていられなかった。
気づいたときにはシリウスちゃんをそっと抱き寄せていた。
「アイリス、さん?」
シリウスちゃんはどこかぼんやりとした様子で私を見上げていた。
背丈は抜かれていたけど、抱き寄せたことで、シリウスちゃんの顔は私の胸のあたりにあった。……正直そこで喋られるとくすぐったいのだけど、四の五の言ってはいられない。
「……あなたが謝ることじゃない。むしろあの人を殺すのは妹である私の役目だったもの。それを娘だったあなたにしてもらったのだから、文句なんて言えるわけがない。それどころか謝るのは私の方。ごめんなさい、あなたに辛い役目を任せてしまって」
「……そんなことは」
「あるの。たとえあの人になんて言われようとも、その役目は私がすべきことだったのだから」
たとえあの人に妹だと思ってもらえなくても、私はたしかにあの人の妹だった。だからあの人を止めるのは私の役目だった。それを私はシリウスちゃんに押し付けてしまった。
だから謝るのは私の方だった。
「ごめんなさい、シリウスちゃん」
シリウスちゃんを強く抱き締めた。シリウスちゃんの体が大きく震えた。私の胸に強く顔を埋めさせる。シリウスちゃんは大きな声をあげて泣いていた。その声を誰にも聞こえさせないように強く、強く抱き締めていく。
緋色の雨はすでに止んでいる。
でも私の頬を雨が伝っていく。
止まることのない雨が頬を伝っていく中、私は頑張らせてしまった姪をただ抱き締めてあげることしかできなかった。




