Act9-363 すべてが報われたとき
頭の中がぼんやりとしていた。
体中がひどく痛んでいる。
その痛みだけで死にたくなるくらい。
でも「私」は生きていた。
(いたいよぉ)
言葉には、まともな言葉にはならない一言が漏れる。
でもいつもなら聞こえてくる優しい声は聞こえない。
(いたいよぉ、──)
誰かを必死に呼んだ。
いつもなら来てくれる。
これで来てくれるはずだった。
「私」を呼びながら来てくれるはずだった。
「大丈夫か、──!?」
そう言って来てくれるはずなのに、どうしてか今日は来てくれない。
まるで捨てられてしまったみたいだ。
(……あぁ、そうか。「私」は捨てられたんだ)
大好きだったあの人に「私」は捨てられてしまったんだろう。
「私」が与えられた立場で満足しなかったから。
あの人を与えられた立場ではない意味で好きになってしまったから。
「気持ち悪い」と思われて捨てられてしまったんだろう。
(ごめんなさい)
涙がこぼれた。
熱い涙がこぼれ落ちていく。
その涙を拭うだけの力さえもなかった。
いや、「私」にはもうなんの力もない。
せっかく得られた力はらあの人を助けるためだけに得た力は、奪われてしまった。
気づいたときには、あの男に奪われてしまっていた。
どうやったのかはわからない。
でも気づいたときにはすべてを奪われてしまっていた。
そうなれば、「私」はただの大きな狼でしかなかった。
あっという間にボロボロにされて引きずられた。
ひどく惨めだった。
あれだけ「彼女」に啖呵を切ったくせに、この体たらくだ。
どう考えても惨め以外のなにものでもなかった。
泣きたくなるほどに惨めだった。
でもどんなに惨めであっても、「私」はまだ生きている。
生きている限りは戦える。いや、戦わなきゃいけなかった。
あの人はいつもそうしている。
諦めることを諦めている人だった。
だから諦めることなく、どんなときでも戦い抜こうとしていた。
それはいまだって同じはず。
「私」はあの人の──なのだから、諦めるわけにはいかない。
そう諦めるわけにはいかないのだけど、どうしてだろうか?
(……「私」って誰だったっけ?)
「私」は「私」が誰なのかを思い出せない。
力を奪われてしまった影響なのかな。「私」の記憶は穴だらけだった。
虫に食われたということもあるけど、それはこういうときに言うんだろう。
おかげであの人の顔が思い出せない。顔の部分が空白になっていた。顔の部分だけきれいに塗り潰されてしまっている。
辛うじて声は聞こえる。
でもその声だって、雑音が混じっていて、肝心なところが聞こえない。
あの人だけじゃない。「彼女」のこともわからない。大好きだった「あの人たち」のことも、かわいいけど、小憎たらしい「あの子」のことさえもわからない。
なにもわからなかった。
なにひとつ理解できなかった。
そんな状態で諦めないなんてことができるわけがなかった。
(どうしたらいいの、──?)
あの人に尋ねたい。「私」はどうすればいいのかをあの人に、大好きなあの人に尋ねたかった。
だけど、顔も名前もわからないのに尋ねられるわけがなかった。
そもそも「私」が誰なのかもわからないんじゃどうしようもなかった。
(……もう無理だよね。こんなんじゃ頑張れないもん。だから諦めてしまえば)
わずかに開いていたまぶたを閉じ、そのまま眠りにつこうとした。
「──!」
(わぅ?)
声が聞こえた。
優しい声。大好きな声だった。
閉じようとしていたまぶたを開くと、誰かがいた。
でもよく見えない。
誰かがいることはわかるのに、霞んでいる。声もよく聞こえない。
でも優しい声だというのはわかる。大好きな声だというのもわかる。
でもそれ以上はわからなかった。
わからないのに、「私」は口を開いていた。
「─、─?」
自分でも驚くほどに恐る恐るとした言い方だった。
でもそんな声に対しても誰かは「私」の手を握ってくれた。
そのぬくもりには覚えがあった。いや、わからないわけがなかった。
「ぱぱ?」
「あぁ、そうだよ、シリウス」
パパのぬくもりだった。大好きなパパのぬくもり。
(あぁ、そうだ。この人はパパだ。そして「私」はパパの娘のシリウスだ)
ようやくわかった。
ようやく思い出せた。
私のすべてを思い出すことができた。
我ながら単純だとは思う。それでも思い出せたことは事実だった。
だからこそ言わなきゃいけないことがあった。
「パパ、ごめんなさい。私じゃダメだったよ」
パパやママたちを守りたかったのに。そのための力だったのに。すべて奪われてしまった。
私にはもう誰も守ることはできない。
こんな私になんてもう意味は──。
「バカ言うなよ、シリウス」
「え?」
「シリウスが頑張ってくれていたことは知っている。そのすべてを知っているわけじゃない。それでもパパはシリウスが頑張ってくれたことが誇らしいよ」
──意味はないと思っていた。でもパパは笑ってくれた。
その笑顔にいままでの全部が報われた気がした。
私はいつものように「わぅ」とだけ鳴いた。鳴きながらパパの胸に顔を埋めたんだ。




