Act9-362 諦めるな
左目を貰うわね。
スカイディアの言った言葉が妙に遠かった。
ひどく遠くからの言葉のように感じられていた。
その証拠のようにスカイディアの手が迫っていた。とてもゆっくりと迫ってくる。
「パパ!」
カティの慌てる声が聞こえてくる。
カティが振り返るよりも早くスカイディアの手は迫ってくる。
けど、俺の目にはやはりその手はとてもゆっくりと迫っていた。
いや、俺以外のすべてが遅かった。
俺以外のこの世界のすべてがただただ遅い。
カティの慌てる声も。プーレの叫びも。スカイディアの笑い声さえも。
すべてがただ遅い。
その遅い世界の中で俺だけが取り残されていた。
俺だけが通常の世界にいる。
だけど、それは感覚だけ。
体は思うように動いてくれない。
脳と体が別物になったかのようだった。
そんな世界の中で俺は半分諦めていた。
(あぁ、俺はここで死ぬんだな)
右目を奪われたときだって、普通に考えたらすでに死んでいてもおかしくなかった。
でも、半神半人になったおかげで生きてはいられている。
けれど、片目を奪われたときでも死にそうなほどの痛みに襲われた。その痛みだけで死にそうになった。その痛みはいくらかましにはなったけど、まだ続いている。
それが両目になったら。
両目を失ってしまったら。
どうなってしまうのかはわからない。
いや、おそらくは死ぬ。
間違いなく死ぬ。
右目を失ったときは、周りに嫁たちがいた。みんなが俺を支えてくれた。
だから頑張れた。
耐えることができた。
半神半人になっていたというのも理由だろうけど、それと同じくらいに嫁たちの献身があったから俺はいまここにいられる。
でもその嫁はもうプーレしかいない。
プーレだけになってしまっていた。
加えてシリウスが死んでしまっているかもしれない。
大切な愛娘を喪っているかもしれない。
そのことが大きく心に影を落としていた。
もう頑張っても仕方がない。
ガンバったところで意味はない。
だからもう諦めてしまえ。
ここまで頑張ったのだから、もう誰にも文句は言われないだろう。
だから──。
(もういいかな)
俺は自分の終わりを受け入れた。そっとまぶたを閉じ、終わりの訪れを待った。
すぐに血の臭いが漂った。
不思議なことに痛みはない。
痛みを感じないほどにあっさりと命を奪われたのだろう。
こうして考えているのも走馬灯のようなもので、死に至るまでのほんの一瞬の猶予なんだと思う。
(あぁ、これで俺は──)
「なんで諦めているんですか、主様!?」
終わりだと。そう思ったそのとき、アイリスの声が響いた。
まぶたを開くとそこには、俺とスカイディアの間に立つアイリスが、スカイディアの腕を弾くような形で受け流しているアイリスがいた。
アイリスは左目の目尻から血を流していた。血を流しながら叫んでいた。
「アイ、リス?」
「こんなところで諦めないでください!あなたは諦めない人です!あの闇の中でもあなたは諦めなかった!諦めることなくここにまで至った!なら諦めないでください!諦めずに戦ってください!」
アイリスの叫び。その叫びに返事をするよりも早く──。
「諦めるなんてあんたらしくねえだろう、姉ちゃん!」
「レンさんは諦めることを諦めている人ですよ!」
──剣戟の音ともにアルクとタマちゃんの声が聞こえた。
振り返るとラースさんにとふたりが同時に斬りかかっていた。
ラースさんはとっさにシリウスの体を放していた。シリウスの体を放し、剣と鞘を使ってふたりと撃ち合っていた。
撃ち合う際に勢いよく放したのか、シリウスの体は宙を舞っていた。
「シリウス!」とその名を呼ぶと、頭上に影が射した。
「諦めるな、我が主!」
その影から声が聞こえた。ゴンさんの声が聞こえた。
顔を上げるとゴンさんが放り投げられたシリウスをその背に受け止めていた。
「旦那様、シリウスちゃんのところに!」
プーレが言う。
いますぐに向かいたいところだけど、プーレを放っておくことはできない。
そんな俺に「いいから行くのです!」とプーレは叫んだ。こうなったら、てこでも動かないことは知っている。だから俺ができるのは──。
「行ってくる!」
それだけを口にして俺は頭上にいるゴンさんに向かってカティの背中を蹴ったんだ。




