Act9-326 神獣王
「零の座の神獣」──。
お父様が少しだけ聞いたことがあった。正確には伝承の中にある一節を詳細に教えてもらったと言う程度のことだけれど、聞いたことがあった。
「零の座の神獣」とは、「六神獣」を治める存在。「六神獣」こそがこの世界における最強の存在であることは誰もが知ることではあるけれど、「零の座の神獣」は「六神獣」を超えた存在だった。またの名を「神獣王」と謳われる存在とされていた。
現在「神獣王」は二代目。しかし二代目「神獣王」は「零の座の神獣」というわけではない。その理由はよくわからないけれど、お父様が言うには二代目「神獣王」が「零の座の神獣」ではないのは、「原初にして終焉の力」を司っていないからだそうなのだけど、詳しいことはお父様もご存知ではなかったし、その名前さえもご存知ではないようだった。
ただスカイディア様からお教えられたことでは、「零の座の神獣」とは狼ということだった。それも天を呑み込めるほどの巨大な狼だということだった。
その巨大な狼がいま私の目の前にいた。
「シリウスちゃんが、「零の座の神獣」?」
巨大な狼の正体はシリウスちゃんだった。人間の姿であれば、二十歳くらいの女性だったシリウスちゃん。でもいまの姿は人間の姿ではなく、本来の狼の姿になっていた。その本来の狼の姿は天を呑み込むと言うのもわかるほどに大きな狼の姿になっていた。
それだけでも十分に驚くことなのだけど、そのうえシリウスちゃんこそが「零の座の神獣」だと言われてしまった。巨狼になるだけでも言葉を失いかねないことなのに、そのうえで神獣だったなんて言われたら、もうなにも言えなくなってしまう。
その巨狼はひどく興奮していた。紅い瞳は血走っているようにも見える。全身の毛は逆立っており、彼女の怒りの深さがよくわかる。天をも呑み込みかねない大きな口は舌なめずりをしていた。いまにも標的を噛み砕かんとしているのがよくわかる。その標的が私であれば、絶望しかなかっただろう。それこそ命乞いをしてでも生き残ろうと必死になっていたことだろう。
でもシリウスちゃんの標的は叔父様だった。血走った目も、逆立った毛も、舌なめずりをする口も。すべてが叔父様へと向けられている。
主様を愚弄したこと。その愚弄には蛇王様も含まれていた。その口調からして蛇王様を殺したのはきっと叔父様なんだろう。叔父様は一見返り血は浴びていない。しかしシリウスちゃんにははっきりと蛇王様の血の臭いを感じられたはずだ。
どうして叔父様が蛇王様を殺されたのはわからない。でも状況を見るかぎり、叔父様はここで待ち伏せをされていたんだろう。そうなると叔父様を止められるのは同じ「七王」である蛇王様以外にいなかった。でも叔父様を止めることはできても倒すことは蛇王様でもできなかったんだろう。
その結果、蛇王様は亡くなられた。叔父様は蛇王様を本当の妹のようにかわいがっているという話だった。その妹を手に掛けた。そのときの叔父様の心情はわからない。
だけど蛇王様を手に掛けられたことで、叔父様はシリウスちゃんという獣を本気にさせてしまった。なんでそんなことをするのかはわからない。わからないけれど、叔父様が多大な代償を払うことだけは理解できた。
「これはこれは。まさかかの神獣王殿にお会いできるとは。まこと恐悦ですなぁ」
叔父様は笑っていた。笑いながらシリウスちゃんに声を掛けている。でもシリウスちゃんはかなりの興奮状態にあるようで、叔父様の声は聞こえていないようだった。
「殺す。貴様は噛み殺す! 死んで償え、竜王ラース!」
シリウスちゃんの声は二重に聞こえていた。本来のシリウスちゃんの声とその声を重低音にしたような声が二重で聞こえてくる。よく見るとシリウスちゃんの目からは幾重もの涙が零れていた。蛇王様を殺されたこと。その恨みと怒りが、いまのあの子を覆っているようだった。
「シリウスちゃん! 落ち着いて!」
「……我は落ち着いている。あなたは母上、いや、レアママの体を連れて先に行ってくれ。我はこの男を噛み殺していく。レアママを殺した罪を償わせてやる!」
低い唸り声を上げながらシリウスちゃんは言った。もう私がなにを言っても通じそうにはない。ただ蛇王様のご遺体を気にしているようだった。大好きなママの体をこれ以上は傷付けたくないのかもしれない。その気持ちは悲しいほどに理解できた。
「……わかった。でも、無茶はしないでね」
「ああ」
短く返事をするシリウスちゃんを横目に私は蛇王様のご遺体を抱えた。驚くくらいにその体は軽かった。その軽い体を抱えながら、主様たちのもとへと私は向かった。




