Act9-325 零の座の神獣
あの男が、竜王ラースが近づいてくる。
まるでなにごともなかったかのように向かってくる。
でもなにごともなかった、なんて言わせる気はない。
いままではわからなかった。
でもいまはわかる。
だって竜王ラースからはレアママの血の臭いがしているのだから。
「アイリス、で合っていたな?会うのはこれが初めてだったな?」
「……はい。竜王陛下」
「よせ。アルトリアにも言ってはいるが、そんな他人行儀にすることはない。まぁ、幼い頃どころか、いまの歳になるまでおまえたちと会わなかった私が言うのもなんではあるのだが」
竜王ラースはアイリスさんにとても親しげに話している。対するアイリスさんは少し困惑ぎみだ。
でもそんなアイリスさんの反応はこの男にとってはどうでもいいことのようだった。
「……おい、あんた」
「うん? そなたは……。あぁ、シリウスだったな? あの贄の娘とかいう」
竜王ラースはまるで興味がなさそうに私を見つめていた。
いや、実際にこの男にとっては、私は興味をもてない存在なんだろう。
私だって本音を言えば、こんな拗らせ野郎なんて興味もない。
だけど、いまだけは関わらなきゃいけないんだ。
だってこの拗らせ野郎、いま贄の娘と抜かしたんだ。つまり私のパパを贄と抜かしたんだ。
私の大好きなパパをバカにしてくれたんだ。
苛立たないわけがない。
腹を立てないわけがなかった。
でもこの男はそんな私の反応さえもどうでもいいと思っているようだった。
「……少し見ない間に成長したのかね? それとももともとそっちが本来の姿かな? まぁ、どうでもいいがね」
「……私はどうでもよくないんだよ」
「なにがだね?」
「……あんたいまなんて言った?」
「うん?」
「私のパパをなんて言ったかと聞いているんだよ」
竜王ラースを睨み付ける。
だけど竜王ラースはつまらないものを見ているかのように、私を完全に見下しながら言った。
「贄の娘と言った。そなたのパパとか言うあの小娘はしょせん贄よ。少々活きのいい贄にしかすぎぬ。その贄に惚れぬくのだからな。まったくバカな妹を持つと困るものだ」
活きのいい贄とバカな妹──。
私のパパを、私の大好きなパパとレアママをもののみごとに愚弄してくれるものだ。たかが人の分際で。ずいぶんと調子に乗ってくれるものだった。
「……殺されたいのか、貴様?」
「うん?」
「我に殺してほしいのかと言ったのだ! たかが「七王」の分際で! この我を怒らすとはな!」
苛立っていただけだった。でも気付いたときには苛立ちは怒りになっていた。レアママの血の臭いを纏いながら、私のパパを愚弄するこの男に怒りが燃え上がっていく。
いけないとは思う。
落ち着けとも思う。
先代も「落ち着け」と制止してくれている。
でもダメだ。
わかっている。
わかっているけどダメだ。
わかっていてもダメだ。
こいつだけは、この男だけは私の手で息の根を止めないといけない。
たかが人という括りの中で「最強」と謡われている蛙の分際で、この我に喧嘩を売ったのだ。
つまりは殺してくださいと言ったようなものだった。
加えてこの男はレアママを手にかけた可能性もある。レアママの血の臭いを纏っている時点でなんらしかのかかわりがあると言ったようなものだった。
重罪だ。パパを愚弄し、レアママの死に関係しているというのであれば、この男は重罪確定だった。これがもしレアママを殺したのがこの男だったとしたら、その罪はよりも重い。
いや、重罪なんてものじゃない。極刑だ。
「よいか、竜王ラース。貴様の罪はその命でしか償えぬと知れ!」
叫ぶと同時に人化の術を解いた。いや、自然と解けてしまっていた。この身に宿る怒りが私を「我」に変えてしまった。
「ほう、これは」
「し、シリウスちゃ──」
あの男が目を剥く。対して腕の中にいたアイリスさんが声を上げる。いまのままでは。この人までもを巻き込んでしまう。この人を巻き込むのは忍びない。そしてレアママを、レアママの体をこれ以上傷つけたくなかった。
だからアイリスさんをそっと下ろすと、「レアママの体をお願い」とだけ言った。
アイリスさんは動揺しながらも頷いてくれた。
動揺する紅い瞳には、人の姿ではなく、巨狼の姿になった我が映し出されていた。
『継嗣──このバカ者が!』
先代が怒っていた。
怒りながらも泣いているようだった。
でも仕方がないの。
この男は許せないのだから。
私のパパを愚弄したこの男は許すことができない。
「さぁ、罪を償え、愚か者が。この我「零の座の神獣」ロード・シリウスの断罪を受けよ!」
お腹の底から吼えた。
怒りを孕んだ咆哮を私は天に向かって放ち続けたんだ。




