Act9-304 「「刻」の終焉」
アイリスを抱えてシリウスが駆けて行く。
その姿はすっかりと見違えてしまった。身長は旦那様どころか、もう私よりも高い。けれどどんなに大きくなってもシリウスはシリウスだった。私のかわいい愛娘であることには変わらない。
(……「わぅ」か。もっとその声を聞きたかったなぁ)
シリウスはよく「わぅ」と鳴く。その鳴き声はとてもかわいらしくて私は大好きだった。
ううん、シリウスに嫌いなところはなにひとつない。
傍から見れば欠点でしかない部分も私には愛おしい。
大切なかわいい愛娘だった。その愛娘を嫌えるわけがない。嫌いになれるわけがない。
ただあの子はきっと私を嫌ってしまうだろうけれど。
(……ごめんね、シリウス。カルディアママはやっぱり悪い人みたいだね)
愛娘との約束を破らない。そう誓ったのに。その誓いをさっそく破ろうとしているんだから。悪い人じゃないわけがなかった。
私はとんでもなく悪いママだった。シリウスに愛される資格さえもない。クズという言葉はきっと私のためにある言葉なんだと思う。
平気で愛娘を騙した。たとえ心の中でどんなに涙を流したところで、あの子を騙したということは変わらない。そしてそれをあの子はきっと許さないだろうね。
だから私は悪いママなんだ。悪いママはさっさと退場しないといけない。もう二度とあの子の前に姿を現さないようにしないといけない。それが悪いママである私が、あの子のためにしてあげられる最後のやるべきことだった。
「放せ! 放せよぉ! 雌犬ぅ!」
体の下でアルトリアが叫ぶ。目は相変わらず血走っている。力は私なんかよりもはるかに強い。体力だってあれほど暴れまわってまだこんなにも体力が続くのかと呆れてしまうほどにある。
だからと言ってアルトリアを解放するわけにはいかない。この場でアルトリアは仕留めなければならない。そうしないとアルトリアはあの子だけじゃない。旦那様にも危害を加える。そうなる前に私が、悪いママである私がこの女ごと死ねばいいだけだった。
「誰が放すか、気狂い女。おまえはここで私とともに死ね」
「な、なにぃ!?」
アルトリアは困惑しているみたいだった。それとも「死」が怖いのだろうか? まぁ、無理もないよね。あれはとても怖いもの。
それが近づくときまではすごく怖い。でもそれに包まれたときは怖くはない。むしろすごく落ち着く。まるで旦那様に抱かれているときみたいで、すごく安心できる。あの人のぬくもりにあの人の香りに、あの人の想いに包まれているみたいで、すごく安心できる。
でもそれが偽りだということはいまの私は知っている。一度死んで生き返ったからこそ知っている。死は怖い。そこにいなくなるということだから。誰にも自分のことを認識してもらえないから。なにもすることができなくなってしまうから。だから怖いんだ。そしてその恐怖を少しでも打ち消すために幸せな思い出を振り返る。それが「走馬燈」と呼ばれるものなんだろうね。
きっと二度目はない。私に待っているのは明確な死だけ。でもそれでいい。あの人のためなら、この命を燃やし尽くすのは当然のことだった。
だからそれでいい。ううん、それがいいんだ。
私は私自身の命が燃え尽きることを後悔なんてしない。あの人のために生き抜いた、二度目の人生を誇りに思う。
「「刻」よ。その力を解き放て。その大いなる力を以て、すべてを呑み込み、そしてともに消えよ」
「っ!? おまえ、気はたしかなのかぁ!?」
アルトリアが叫ぶ。けれど答える気はない。冗談でこんなことをするものか。私がいま使ったのは「刻」の魔法のひとつ。
「刻」の魔法の中でも禁忌と呼ばれる魔法。その大いなる力を暴走させて、対象者ごとその周囲のすべてを呑み込み、圧縮し、そして消滅させる。禁忌中の禁忌。先代から決して使ってはならないと教えられたものだった。
でもこれくらいしないとアルトリアはきっと死なない。私じゃアルトリアを殺すことはできない。殺すためにはこの命だけじゃない。この体さえも犠牲にしないといけなかった。
「やめろ、やめろぉ! そんなことをしてなんになるって!」
「なんにもならないよ。ただの自己満足」
「な!?」
アルトリアが叫ぶ。理解できないとその顔には書いてあった。そう、理解できないだろうね。だからこそ、アルトリアはシリウスの「ママ」にはなれないんだよ。
「ひとつ教えてあげる。「ママ」というのはただの呼び名じゃない。子を愛し、その子のためにすべてを投げ打てる人への呼び名だよ。あなたのようなごっこ遊びとは別物だ」
アルトリアを見つめる。アルトリアはあがき始めた。けれど私は彼女を解放する気はない。詠唱はもう終わっている。あとは最後の小節を口にすればいい。それですべてが終わる。でもそれでいい。それがいい。私は私の人生に後悔はない。だからもういいんだ。
(さようなら)
あのときと同じ言葉を口ずさみながら、私は最後の小節を口にした。
「さぁ、行こう。「刻」の果てへ」
最後の小節とともに私を含んだ周囲が灰色の世界に覆われていく。その世界は徐々に小さくなっていく。狭まっていく世界の中で私は──。
「大好きだよ」
──最愛の娘と旦那様を想いながら精いっぱいの笑顔を浮かべたんだ。




