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Act9-213 お待ちしておりますね。

「待て、待て、待てぇぇぇ、アイリスぅぅぅ!」


 海中へと逃れていく泥棒猫アイリスへと矢を射る。


 けれど、忌々しい海水が私の矢を妨げていく。それまでの勢いを失くして、矢がぷかぷかと浮かんでくる。泥棒猫が沈んだ海面に私の矢が次々に浮かんでくる。


 それでも矢を放つことをやめることはできない。だってやめたら殺せない。「旦那様」を寝取ったあの卑しい雌猫を、泥棒猫を殺すことができない。だから矢を放つのをやめることはできない。できないのに、なぜ届かない? なぜ届かせられない?


「死ね、死ね、死ね、死ねぇぇぇ!」


 矢を番えて射る。淡々と同じことを繰り返していく。それでもあの泥棒猫を殺すことができない。あの泥棒猫の死体が浮かび上がってくることはない。それが私をより一層に苛立たせてくれる。


「姫様。もうおやめ」


「黙れ!」


 有象無象が私を止めようとする。黙らせるために拳の甲で殴りつけた。血肉が舞うが、どうでもいい。いまはただあの忌々しい淫売を殺せればそれでいいのだから。なのになぜ死なない? 私の所有物というのであれば、私が死ねと言ったら笑いながら死ぬのが道理だろうに。なのになぜ死なない? それどころか私を苛立たせるとはどういうことだ? 


「私を怒らせるということは、死にたいということだろう!? なら死ね! 死んでその罪を償え! アイリスぅぅぅ!」


 矢を番え、再び射る。けれどやはり矢は忌々しい海水に邪魔されてしまう。どうして私の邪魔をする? 私の邪魔をするな! 私にあの女を殺させろ! たとえ妹だろうとそんなことはどうでもいい! 私から「旦那様」を奪う者はすべて死んで当然だった。さぁ、死ね。死んで償え! 死を以てその罪を贖え!


「死ね、アイリスぅぅぅ!」


 泥棒猫へと向けて再び矢を放とうとした。そのとき。


「もうやめなさい、アルトリア」


 肩を叩かれた。本当なら怒りに突き動かされるところだろうけれど、同時に聞こえてきた声に、そのお優しい声に私の怒りは和らいだ。


「お父様」


 振り返るとお父様が立っておられた。お父様は困ったように笑っておられる。その笑顔が意味するものはただひとつ。


「あの泥棒猫!」


 お父様を困らせた。お優しいお父様を困らせるなど、やはりあの泥棒猫は殺さないといけないようだった。お父様を困らせるなど、何様のつもりだろうか? やはりその死で贖わせないとならない。その傲慢な考えをその死で償わせないと──。


「違うぞ、アルトリア。父を困らせているのは君の方なのだぞ?」


「……え?」


 ──お父様のお言葉の意味がわからなかった。お父様を困らせているのがあの泥棒猫ではなく、私? どうして? どうして私がお父様を困らせるのだろう? 私はただあの泥棒猫を殺処分しようとしているだけで──。


「やれやれ恋は盲目というが、君はいささかそれが強すぎる。いいではないか。少しくらいあの子を貸してあげても」


「で、ですが」


「それとも君は、君の言う「旦那様」がアイリスに惑わされてしまうと思っているのかね?」


「そ、そんなことはありません!」


「だが、傍から見ると君のしていることはそういう風に見えてしまうよ? 「旦那様」の心を縫い止めておける自信がないとみずから宣言しているように父には見えるのだがね」


「違います! そんなことは」


「落ち着きなさい、アルトリア。あくまでも父にはそう見えるというだけのことだ。だが、この父がそういう風に見えるのだから、他の者にも同じように見えるということもありえるだろう?」


「それは」


 なにも言い返すことができなかった。もともとお父様に反論なんてできない。でもそのお言葉はいままで以上に私から反論を奪わせるものだった。


「やれやれ我が娘のお転婆っぷりには困らされてしまうな。だが、そういうところも父には愛おしいぞ」


 ふふふと楽し気に笑われながらお父様は私の頭を撫でてくださった。お父様に頭を撫でてもらうのはとても嬉しいし、心地よかった。憤怒に彩られていた私の心が平静になっていく。


「大丈夫だよ、アルトリア。君の「旦那様」は必ず君の元へと帰って来てくれる。なにせこちらには「彼女」がいるのだ。なにがあっても戻って来てくれるだろう」


「……そう、ですね」


 お父様の言う通りだ。「旦那様」は必ず帰って来てくださる。なら私はそれを待てばいいだけのこと。正妻としての余裕を以て待つだけでいい。


「わかったようだね。では、そろそろ部屋に戻ろうか。甲板の上は心地いいが、潮風はあまり体によくない」


「はい。お父様」


 お父様が外套を翻しながら言われた。そのお言葉に私はただ頷き、お父様の後を追って甲板を後にした。


「お待ちしておりますね、「旦那様」」


 甲板を後にする際、お出かけになられてしまった「旦那様」のご帰宅を祈り、私は再び船室へと戻って行ったのだった。

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