Act9-212 ホエール
「どこだ、どこだぁ! アイリスぅぅぅ!」
アルトリアの声が海中からでもはっきりと聞こえていた。
本来は海中では声なんて聞こえないはずなのだけど、アルトリアの怨嗟の声は海中にあっても問答無用に聞こえるようだった。
妹相手にそこまでするかと思うけれど、そのするはずのないことをしてしまうのがアルトリアだった。
船からはだいぶ離れたけれど、まだアルトリアの弓の射程範囲なのか、すぐそばを射られた矢が通過していた。その光景は恐怖でしかない。
(本当にとんでもない腕前なんだな、アルトリアは)
海上に顔を出すたびにほぼラグもなく矢を撃ち込まれる。
普通はありえないことをアルトリアは平然とこなしていた。
それも逆上した状態ででもできるのだから、平静としていたらいまごろ射殺されていてもおかしくなかった。
だって俺がしていることは海上に顔を出して空気を取り込んだら、全速力で距離を取るということだけだ。
それも進行方向を変えてさえいない。平静状態のアルトリアであれば、予め顔を出すであろう馬車に射ていそうなものだけど、いまのアルトリアにはそれができないようだった。
(やはり冷静さを失わせておいてよかったよ)
ただ隙を衝いただけでは、この結果にはならなかったと思う。アルトリアを逆上させたからこそ、いまに繋がっているんだろう。
(それでもやっぱりやりすぎな気はするけれど)
アルトリアはなかなか諦めてくれない。どうしてもアイリスを殺したくて堪らないようだった。
かわいい妹だと言っていたくせに。その妹を殺そうとするなんて、どんな姉だよと思うけれど、それがまかり通ってしまうのがアルトリアの恐ろしいところだった。
『大丈夫か、アイリス』
そのアルトリアの恐ろしさを一身に注がれているアイリス。
そのアイリスはただ俺の腕の中でぼんやりとしていた。
目がどこか蕩けているというか、いままでとはまるで違うアイリスの姿になにを言えばいいのかがわからなくなってしまった。
だからこその曖昧な「大丈夫か」と尋ねたのだけど、アイリスからの返事はなかった。
返事をしないアイリスに唇を通して空気を送っていく。
傍から見れば、泳ぎながらキスをしているという意味のわからない光景にしか見えないだろうし、俺自身なんでこんなことをしなきゃいけないのかがわからなかった。
それでもいまは、いまだけはやり通さないといけないと感じていた。少なくともアルトリアから狙撃を浮けなくなるまではこのままでいないといけなかった。
とはいえ、このままだといずれじり貧になるのは目に見えている。
アルトリアからはいま理性を失っているけれど、このままだとそのうち冷静さを取り戻してしまうかもしれない。
そうなる前に起死回生の手を打っておきたいところだけど、その肝心の起死回生の手が俺には思いつかなかった。
なにせ現状は最悪だ。
海のど真ん中で狙撃から逃れつつ、どちらに行けばいいかもわからない状態で逃げ続けているんだ。これ以上の最悪はそうそうないだろうね。
(とはいえ、泣き言は言っていられないしなぁ。どうしたもんかなぁ)
アイリスに空気を送りながら海中へと視線を向けた、そのときだった。海中、それも海底の方から光るものが二つ見えたんだ。
(え?)
なにこれと思ったときには「それ」は一気に、俺とアイリスを巻き込む形で一気に浮上し、そして──。
「ぼえぇぇぇぇ!」
聞いたこともない咆哮を上げながら俺とアイリスをその背に乗せていた。
「ほ、ホエール?」
アイリスが驚いた顔をして口にしたのは、海の警備をしているという魔物「ホエール」の名前だった。
俺自身間近で見たことはない。空の上からは何度か見たことがあるけれど、こうしてまじまじと見たことはなかった。
「ホエール」の体は真っ黒だった。体は流線型だけど、頭は真四角だった。デフォルメされた鯨という感じの魔物だった。
「……助太刀いたします、神子様」
そのホエールが人語を介して言ったのは俺への助太刀だった。そしてその言葉の通りホエールは泡のような結界を張ると、一気に海中へと潜り始めた。
「逃げるかぁぁぁ、アイリスぅぅぅ!」
アルトリアが叫んだ。叫びながら弓を構えたけれど、アルトリアが射るよりも速くホエールは海にへと潜って行った。
アルトリアの矢が海中にまで迫ってくるけれど、矢よりもはるかに速くホエールは海底へと潜航していく。
アルトリアは次々に矢を放ってくるけれど、一矢たりとも俺たちにたどり着くことはなかった。
それでも延々と放たれ続ける無数の矢をぼんやりと眺めていた。
そうして俺とアイリスはホエールの背に乗ってアルトリアの魔手から逃れることができたんだ。




