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Act9-171 歪む視界で駆け抜けて

 本当にこの人はずるい。


 どうしてわかってしまうんだろうか。どうして私の心の中にここまで踏み込んで来られるのだろか。そしてどうしてこんなにもここちよくなってしまうのだろうか。


 あぁ、わかっている。わかっているの。ティアリカには任せると言った。もう会うつもりもないとも言った。けれどダメね。どうしてもダメ。この人の姿を見ただけで体が勝手に動いてしまっていた。後ろから声を掛けてしまっていた。……もうできないとわかっていたはずだったのに。


 わかっていたはずだったのに、気づいたときにはいつものように声を掛けていた。「蛇王エンヴィー」としてではなく、「ただのレア」として声を掛けてしまっていた。


 私の覚悟なんて、この人の前では一瞬で吹き飛んでしまった。いつもこの人はそうだ。私の決意も覚悟もすべて受け止めたうえで笑い飛ばしてくれる。私のような化け物を愛してくれている。それがただただ嬉しく、そして愛おしい。


 そんな愛おしいこの人を裏切る。張り裂けそうな痛みがある。それでも、それでも私は「蛇王エンヴィー」を捨てることはできない。いやしてはいけない。それが私が抱える「契約」だった。「契約」のためであれば、私は愛するこの人でも殺さないといけない。いや殺すしかなかった。


 だからこそ後ろにいた。本当は声を掛けず、気配を殺して首を刎ねるつもりだった。「旦那様」は強くなられた。それこそ信じられないくらいに強くなった。


 それでも私には勝てない。この人が私に勝てるのはベッドの上でくらい。それ以外の場所で私がこの人に負けることはない。


 そのうえでの不意打ちとなれば、まず間違いなく殺せる。殺せるはずだった。いや殺さないといけない。殺してあげることが愛情の証だった。ほかの誰かにこの人を殺させるくらいであれば、私のこの手で殺そうと思った。


 ティアリカには任せていた。任せていたけれど、やっぱりダメ。私以外の誰かにこの人を任せるなんて嫌。そうするくらいなら、そうなるくらいならこの手で息の根を止めてあげようと思った。そして返す刀で自刃しようと思っていた。みずから死のうと思っていた。「ただのレア」を殺そうとしていた。


 でも、ダメだった。


 姿を見た瞬間からもうダメになった。殺そうと決めていたのに殺せなくなってしまった。殺せる気がなくなった。いや、殺せるわけがないと思ってしまった。


 あぁ、本当に私はこの人を愛しているんだと言うのがわかった。わかってしまった。殺せるわけがない。殺していいわけがない。


 だって私は──。


「レア、どこまで行くの?」


「ふふふ、秘密ですよ」


 振り返りながら、人差し指を唇に当てた。それだけで「旦那様」の頬がほんのりと紅く染まった。でも私はそれ以上に紅くなっているだろう。


(あぁ、やめて。やめてくださいまし。その目で、その声で、その想いを私なんかに向けないでください。それだけで「蛇王エンヴィー」でなくなってしまう。「蛇王エンヴィー」になれなくなってしまいます)


「旦那様」を見るだけで私は「蛇王エンヴィー」としての私ではいられなくなってしまう。


「ただのレア」としての私になってしまう。この人の女である私にしかなれなくなってしまう。


(本当にひどい人。ひどくて、ずるくて、でもとても温かい優しい人)


「いいところに行きましょう。きっと「旦那様」も気に入ってくださいますよ」


 ふふふと笑いながら私は顔を反らして正面を見つめる。視界は歪んでいた。歪み切った視界の中で私はただ思った。


(あぁ、あなたを誰よりも愛しています、旦那様)


 心の中にある大きな想い。その想いの大きさを感じながら私は歪んでいく視界のまま、ただどこまでも走り続けたのだった。

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