第1章5 御注文は何?
―――――アトワルト領、マグル村の酒場。
「それでよぉ、アイツ、こないだは随分こっぴどくコケやがってよ」
「おらぁ~、んな酒飲んでんじゃねーぞぉ? 飲むなら俺のを飲めっての、ああん? のめねーってかぁ? そりゃそうだ、俺が飲むんだからよ、んごっんごったんごっ」
「相変わらず騒がしいねぇココはよ。おぉい、マスター、駆けつけ1杯頼むわー」
「ギャッハッハッハ、なんだそりゃ。んなわけねーだろ、バッカじゃねーの、ギャッハッハッハ!」
ギシリ……、静止していたベッドが1階の喧騒に抗議するように軋む。比較的大きめのベッドの上には、確実に一人以上が包まっているであろう布団の膨らみがあった。
「んん、ふぁあぁぁ…うるさいなぁもう。こんな昼間っから盛況とか、みんな仕事ちゃんとやってるのー?」
女は何一つ身に着けられておらず、モゾモゾと動くたびに布団の隙間から肩口や背中、胸の谷間などが覗いた。
「あ~、ふぁぁ…。ん~~~~~~ッッッん! はぁ…どっちにしろ、そろそろお店出ないといけないっか、《《ジロちゃん》》一人に押し付けちゃ可哀そうだし」
布団から這い出て起こした上体を、窓から差し込む真昼の光が照らす。
ややくたびれている木造の床に、標準的な女性よりもセクシーで豊かなラインを描いた影が、片腕を上げて大きく伸び上がった。
「あ、わかってると思うけど、起きたら勝手に帰ってくれていいよ。もちろん後片付けはキッチリしといてね? 忘れたら《《次はない》》から。じゃね~」
昨日の夜、床に剥ぎ捨てられた服を手早く拾い上げ、着付けてゆく。唯一壁にかけてあった絹のエプロンを大仰に付けると、気だるそうな雰囲気が失せ、一切の疲労を忘れたようにはつらつとした表情を作り、鏡で確認する。
あっという間に着替え終えると、髪をリボンで結んでポニーテールを作りながら扉の方へと向かう。最後に軽く振り向いて、同衾者に片手をひらひら振って別れを告げると彼女は部屋を後にした。
その態度には一切の後腐れも感じさせず、男は指一本動かせぬ状態で声にならない嗚咽のようなものを彼女への返事として布団の中で上げ、もう一眠りとばかりに意識を落とした。
―――エク=セ=シャルール。
明朗快活、元気で明るいスタイルの良い酒場の名物看板娘だ。長めのポニーテールは体をひねるたびに躍動的に流れ、彼女の元気の良さを示すバロメーターとなっている。
そんな元気な彼女を見たいがためにこの酒場をひいきにしている客もいるほどだ。
「おまたせー、みんな遅れてごっめーん」
「おぉ、おそいぞシャルちゃーん」
「こっちこっち。おかわりすっから、シャルちゃん持ってきてよー」
「へへ、今日もエロ可愛いよっ、シャルちゃ~ん♪」
客の種類はさまざまだ。純粋にファンだといってくれる人もいれば、完全にエロい目線で胸元や太もも、スカートの中をチラ見するような客もいる。
「マスターも遅れてごめんねー? ……ちょっと昨日の客がハッスルしちゃってさー」
彼女が《《そういう客》》を取っている事を、普通の客は知らない。もし知ったならば、我も我もと殺到する事だろう。
マスターに対する声も当然小声で問題ないと小さく呟き頷き返すだけだった。彼の方が年上ではあるが、シャルに目上に対するような様子はなく、むしろ上下関係は逆のように思える時すらある。
「シャールちゅわぁぁぁん、お酒、も一杯~。だからさぁ~、シャルちゃんもってきてへぇ~~」
「ほらぁ、もうベロンベロンじゃないの、飲・み・す・ぎ。これ以上はダ~メっ」
おかわりどころか空いたグラスを回収され、二足歩行の狼が、そりゃないよ~と追いすがる。
酒場内はドッと笑いに満ちる、この酒場はいつもこんな調子だ。食事時にはほどよい人気と楽しい雰囲気で溢れかえっていた。
「ちゃんと仕事しなよー? でないとウチの安酒だって飲めなくなっちゃうんだからねー」
昼下がり。最後の客を見送ると、シャルはタブリエを外しながら店内へと戻ってくる。同時にカウンターの中で磨き終わった食器を棚に戻していたマスターが声をかけてきた。
「……大丈夫か?」
ごく短い気遣いの一言しか言わない。彼はいつもこんな調子だ。寡黙で最低限の言葉のみでコミュニケーションを終えようとする。
だがシャルは知っている。なんだかんだで彼はおしゃべり好きだという事を。
彼女はニンマリと無邪気な笑みを浮かべると、奇襲気味にカウンターに飛び込んでの抱きつきを慣行した。
「っ! …な、…あ、危ない…だろう」
「ほらほら~。まーたカッコつけちゃってぇ。私にとっちゃ昨日の事なんて《《食事》》みたいなもんなんだから、疲れてるわけないっていつも言ってるでしょ~?」
彼女が付けている酒場娘の衣装は、胸元が大きく開いていて乳房の上半分がほとんど丸見えになっているデザインだ。
前掛けを外せば当然、そのまぶしいバスト部分がお目見えする。しかも飛びついてこられたせいで顔と距離が近い。
「…む、し、しかしだ…な。その…、わかってはいる。わかって…いるとも」
マスターは顔を赤らめ、視線を逸らす。するとシャルはますます意地悪な笑みを浮かべて、その魅惑の胸の中へとマスターの頭を抱き入れた。
「むぐぅ!??」
「ぬっふっふぅ、もしかして妬いてる~? ほらほら~、ジロちゃんの細いお口をおっぱいの間で挟んじゃうよぉ~?」
「んぐぐぐぐ、|くぁはぅぁあひえぅへっ《からかわないでくれっ》!!」
マスターはいまだに彼女に振り回されるのに慣れない。こういうノリが嫌いというわけではないが、彼の性格ではどう対処してよいかいつも困ってしまうだけで、常に一方的にやられっぱなしなのだ。
―――マスター・ジロウマル。
インセクトエビル族という非常に珍しい種族で、魔界本土でもあまりお目にかからない。
インセクト系統の種族自体はかなりいるのだが、基本この系統の種族はその生態が独特な場合が多いため、異種間での混血が生まれにくい。そもそも容姿が大きく異なる分、異種カップル自体が成立しずらいのだ。
そんな中、ジロウマルはこの世に生まれ落ちる事になる。しかしそれは種族の壁を越えて愛し合った二人の奇跡という美談が付くものではなく、敵に対する処罰の結果として生を受けたのだ。
「(………オーナーには感謝の念に耐えない)」
|神話に語り継がれる大戦が過去、幾度行われたのか、もはや数えきれない。その中には敗北し、敵に捕らわれたりした者達も当然いる。
ある大戦で、神側にやたらと強い女の天使兵がいた。
神側ですら危険視したほどに残虐な殺戮を繰り返した彼女は、やがて味方に見限られてしまった事が原因で、魔界側に捕えられてしまう。
そして戦地の将が与えた刑罰、それは彼女がもっとも忌み嫌った容姿を持ち、彼女が最も好んで殺戮を繰り返した、彼女に対して特に強い恨みを募らせていたインセクト族による陵辱刑だった。
10年にも及ぶ刑罰の間、彼女が牢獄の中でおぞましさに叫び続けながら孕んだ子こそ、ジロウマルだった。
「ん? あれ、おとなしくなった?? ……もしかして窒息しちゃったとか!? ゴメン、ジロちゃん! だいじょうぶ!??」
ようやくおっぱい責めから解放されたジロウマルは苦笑いを浮かべる。不意に、心配そうな表情の彼女に、憎しみと醜悪の顔をした在りし日の母がフィードバックした。
「(………愛、か)」
いかな経緯があろうとも、ジロウマルがこの世に生を受けたのは事実だ。しかし母である彼女は、当然ながらジロウマルに愛情を注ぎはしなかった。
彼が生まれて最初に聞いた母の言葉からして “気持ち悪い! こんなゴミをこの私が産んだなんて何かの間違いだ、ありえない!!” だったのだから。
「? どしたの、大丈夫? …ちょっとやりすぎちゃったかな」
「あ、いや…自分は心配無用。だがその…こういうのはできれば控えてくれると…」
母は母ではなかった。
敵の産んだ子という事もあって、ジロウマルは魔界側にもあまり歓迎されはしなかった。刑罰であったがゆえ、誰が父かも調べられることはない。彼に親と呼べる存在は、その誕生の時よりどこにもいなかったのだ。
「は~、びっくりした~。もージロちゃん心配させないでよ~?」
しかし長い半生の旅路の果てに、彼女に出会えた。
この村で酒場をはじめたばかりで四苦八苦していた最中にも関わらず、薄汚れた昆虫魔人の自分を笑顔で拾ってくれたのだ。
誰も触れることの無かった、母でさえ一度も触れた事のない醜い自分の手を躊躇なく握ってくれた、遥か年下の女性。
身寄りのない放浪生活が終わり、バーマスターとして雇ってくれたばかりか、忌諱することなくこうしてスキンシップ――いささか過ぎるが――をしてくる。
一体どうすれば受けたこの大恩を彼女に返しきれるだろうか?
「……夜のかき入れ時までは時間がある。準備は自分がしておくのでオーナーは休ん――」
「オーナーじゃなくてシャル! まったくもー、何回言っても聞かないんだから~」
そう言いながらも、彼女はおとなしく従う。その辺の適当な椅子に腰を落として、下着をつけていない胸元の乱れを直す姿に、ジロウマルは安堵した。
隠してはいるが彼女も何かと影でがんばっている事を知っている。自分に出来る事は少ないが恩に報いるため、小さくとも出来る事をしっかりとがんばろうと意気を強めると酒の在庫を確かめるべく、彼は地下の酒蔵へと降りていった。
「やってくれますね、フゥルネスはここまで用意していましたか」
報告書に目を通しながら、彼は微笑する。怒りを通して笑えてしまうほど、自らの部下が今回の戦に際して行っていた周到な準備のほどは、咎める以前に賞賛を送りたいくらいだった。
「現在、調査を続行中ですが、フゥルネス卿が答えてくれないため全容解明にはまだまだ時間がかかり…」
現在、フゥルネスは勝手な軍事行動の罪により幽閉の身だ。力を封じる鎖が全身を巻いていて、せいぜい会話くらいしか出来ない。当然それも事情聴取のためであって、本来ならば完全封印してしまってもいいくらいだ。
「かまいませんよ、急ぐ必要はないでしょう。おそらくは魔界側―――アズアゼルもまた似たような感じでしょうからね。あちらもあちらで調査に躍起になっている頃でしょう」
眺めのいい山合いの道。綺麗な自然と小鳥の鳴き声だけの、涼やかで心地良いほどほどの静寂。
比較的大きめで、座るにはちょうどいい天然石の上に腰かけるのはメガネをかけたハイキング途中と思われる優しげな男性だ。のんびりとした雰囲気をかもし出しているにも関わらずその前で地面に片膝をつけている天使は、緊張して小刻みに震えながら頭を垂れていた。
「では魔界側からすぐに仕掛けてくるような事はない、ということでしょうか?」
「ええ。そもそも私も、そして魔王も仕掛ける気はさらさらありませんでしたからね。互いの部下がこっそり準備していて暴発しあったのが此度の仕儀ですから」
なるほどと頷く天使はまだ若い。素直に自分の言を受け止めて、深く考えが及ばない分、なまじ政治的駆け引きや戦略的策謀といった事に頭を巡らせている部下よりも対話が楽でいい。
「(何より今は、遊びに来―――おっといけませんね、不謹慎でした。調査と対処が目的。堅苦しい話は抜きにしたいものです)」
ウンウンと頷く御方の様子を、天使は敬意の眼差しをもって伺っている。その後ろには礼を欠かない装飾の鎧を纏った狼男と疣蜥蜴人が控えていた。
「とにかく、まずは地上にて放たれたフゥルネスの手を、問題を起こす前に止めていく必要があります。多少は仕方ないでしょうがなるべく大事にならぬよう、地上担当のお二人にもお願い致しますよ」
「「ハッ!」」
二つの異形はその姿形とはかけはなれた、非常に男らしくも凛とした声で応える。
今回、案内役を務める彼らは普段は地上における神側の、このあたりの領土の領主たちだ。
頼もしい返事を聞いて深く頷くと彼は腰を上げた。
「(さて…、そちらはそちらで処理してくださいよ魔王殿? こちらもこちらで面倒事は少なくなさそうですし。そう遊び回ってもいられそうにありませんね、お互いに)」
―――カランカラン
まだ昼の半ばの、いつもなら誰もこない珍しい時間に入店の鐘が鳴り、シャルは軽く驚きながらも果実水から口をはなす。
急いでエプロンの後ろ紐を結びながら立ち上がると、入店者への応対に出た。
「はーい、いらっしゃいませー。…ってあれ、ミミ様?」
「こんにちは、シャルさん。お邪魔してもいいですか?」
入ってきたのはこのアトワルト領の主、ミミ=オプス=アトワルト侯だった。シャルールも面識がある。
実際、この酒場が上手くいきだしたのはミミが領主になってからであり、彼女のおかげでもあった。
こうして視察で訪れる事は前々からあった。だが、その日はいつもとは違った。
シャルは彼女達の《《格好》》に目を向けながら口を開く。
「それ、ウチの種族のだね。取り寄せたんだ?」
「ええ。いつぞやに教わって少し興味がありましたの。…いかがでしょうか?」
そう言って、彼女はその場で軽く一回転してみせた。
「すんごく似合ってるじゃない、エロカワイイよ! なるほどね、外がなんだかザワついてると思ったら、そりゃこんなエロカワ美少女領主様が視察に来たら当然だわー」
一見するといつものバニーガール基調のドレスと似たようなお召し物を着用しているミミ。
しかしその着衣は、淫魔族謹製の特殊なドレスで、本人の性的魅力を周囲に振りまく魅惑系魔法の一種が込められている。
もともとの魅力が高いほど、その者が持つ魅力を周知させる事ができるため、特にサッキュバス達が愛用しているものだ。
ミミが着用しているのは、その中でも特に上位者用に仕立てた一級品だった。
「え、エロカワ? …まぁ、似合っているのでしたら、取り寄せた甲斐があるというものですね。ありがとうございます」
「《《本職》》の私よりスゴイかもしんないよー? ね~ジロちゃんー」
しかし話しかけた方向には誰もいない。
カウンターの向こうにいるはずのジロウマルは、ミミの姿に興奮してしまって失礼と思い、しゃがんでその身を隠していたのだった。
「アハハハ、すんごい効果っぽいよ。……ふっふーん、これは今夜はジロちゃんの愚息を慰めたげないといけないね~?」
「うう~…み、ミミさまぁ~。は、はやく帰りませんか~? そ、そのようなはしたない格好は…」
「あら、イフちゃんはバニースーツなんだ?」
消え入りそうな声で、椅子の背後にしゃがみこんで身を隠していたイフーに気づき、シャルはやっほーと覗き込む。
「ええ、イフーにはいつもの格好でいいと言ったのですが」
「み、ミミさまがそのようなお恥ずかしい御姿をなされていらっしゃるというのに、私だけいつもどおりというわけには参りませんっ」
しかしながら恥ずかしくて淫魔族の衣装はどうしても着れなかったイフスは、ワラビット族の装束を借りた。
基本的に特別な効果がないというだけでデザイン的には露出性はあまりかわらない、ハイレッグのレオタードを中心に構成されたものだ。
それでもミミが着用しているものは、確かに随所に異性の性的興奮を誘う工夫が凝らされていた。
「(お尻のお肉は完全にはみ出してるし、股の食い込みもすごい…。動きやすいといえば動きやすいけど。バストも着ただけで底上げされる感じ……見た目にはコレ、GかHはあるよね?)」
もともとのミミのバストカップはE+だ。それでも十分な大きさだと自分では思っていたが、この服は着用するだけで下から乳房が持ち上げられるように設計された形状保持用の軟金属線がカップ部分に内蔵されている。
しかもそうした構造上の仕組みはバストに留まらない。
「腰、ちょっとキツくない? あー、でもミミ様はもともと細腰だからこのくらいかー」
「はい、腰回りは大丈夫です。でも…やはりこの、お尻のあたりがちょっと慣れませんわね」
ワラビット族は他種族よりも全体的に小柄だ。といっても幼いカラダつきというわけではない。《《身体のスケールが縮小された》》ような感じなのだ。
たとえば人間種の女性で平均身長を160cmとし、各部位の採寸も平均の女性と比較した場合、ワラビット族は平均身長が148cmなのだが、各部位の採寸の平均も、人間種の女性の平均差の比率が、身長差の比率とまったく同じになる。
つまりワラビット族は、そのままスケールダウンした体躯という小柄さなのである。
「あはは、でもそれってさ? ミミ様がワラビット族の平均より、お尻おっきいって事だよね?」
そのものズバリ図星であった。コンプレックス…というほどでもないが気になっている部分を指摘され、ミミは うっ と言葉を詰まらせる。
「で、ですけど。骨格などを考えれば私のお尻は安産型ですから! けっして余分なお肉がついているとかじゃありませんから!」
キャイキャイと女子が会話に華を咲かせる酒場内。
唯一の男であるジロウマルはカウンターの中で、ミミの性的魅力に宛てられたこともあって、彼女らの会話を聞いているだけでも悶え苦しまされていた。
・
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「それで、なんでまたそんな格好で視察?」
ようやく場が落ち着いて、客席についていたミミとイフスの前にシャルールは冷えた果実水を置きながら訊ねる。
「ん~。特に意味はないのですけれど」
そんなはずはない。シャルールは過去、ミミに服の特殊効果なども踏まえて話していた。
つまりミミは異性に己の性的魅力を振りまいてしまう効果を知っているはずで、そんなものを着て男の目のあるところをうろつくのは危険だとわかるはずだ。
「そうですね……強いて上げるとすれば、これも仕事の一環でしょうか」
ニッコリと満面の笑みでそう言い切る。丁寧な言葉遣いをしている事からも彼女がここに来ているのは領主としてなのだろう。
遊びに来たのであれば、もっと砕けた言葉遣いをする素の彼女をシャルールも知っている。あるいは以前は同席していなかったジロウマルがいるからかもしれないが。
「ふーん…。ま、あまり深くは聞かないでおいた方が良さげかな」
あまり公には言えない事。
シャルールはミミと同世代っぽく会話を交わせるし、二人の見た目も人間種でいうところの15、6といった歳の頃を思わせる若さだ。
しかし実際のシャルールの年齢は、ミミの4倍以上である。その生涯において上流貴族や貴族社会に触れる機会は多くあった。
こうした会話の節々に篭った、言葉には決して出ない真意や意志を汲み取ることは、彼女の種族にとって必要不可欠な技術の一つだった。
――――淫魔族
彼女らが “種族” として認められたのはまだほんの3万年ほど前の事である。
もちろんサッキュバスという存在自体はそれ以上前からあった。だが種族として確立するまでのサッキュバス達は、愛玩・愛欲のための従者であり、よくても使い魔と同等程度の存在としか扱われていなかった。
生態的に、他者の精液を物理的もしくは間接的に精気を吸うといった形で食事とする事ができる。
通常の魔族でも似たような事が出来る者は多いが、彼女らはそれにより特化した魔族であって、独立した固有種ではなく魔族からの発展種でしかない。
それゆえサッキュバスと呼称されるようになっても、長いあいだ種族として認められなかったのだ。
しかし5万年ほど前、特に悪辣な貴族が蔓延った時代があった。その頃の淫魔は、完全に愛玩者としてなぶり者にされていた。
同じように容姿に優れ、しかし強さがそれほどでなかったワラビット族や愛猫人族といった種族なども同様に酷い目にあっていたが、彼女らは程なくして種族保護の名目で悪質な強欲貴族や商人が次々と摘発された事で救われた。
しかし悪人達は逃れるように保護対象になかったサキュバス達をより多く取引するようになっていく。
彼女達にとっての最悪の時代は、それから2万年近くもの間続いた。売買ルートが地下にもぐってしまった事もあって長期化してしまったのだ。
だが外より助けが訪れる前に、彼女らの内より救世主があらわれる。
偉大なる救世主―――サッキュバス達のために淫魔族という種を確立したばかりでなく、魔王より永遠の命を授かった特別な存在として現在も彼女達を導いている。
しかし、現在でも彼女達は貴族や上位者に仕えている。無論、その役目は過去の時代より変わらぬものである。
唯一の違いは正当な代価と個の権利、そして選択の自由が与えられ、職業として成り立っている事である。
エク=セ=シャルールもまた、過去には上位者の寝床を温めていた経験があった。
それも1年や2年ではなく何百年もの間である。しかしそれは正当な雇用の上であり、母の言いつけでもあった。
現在の淫魔族はあえて上位者の愛玩を享受する道を、生涯に一度は通るのが当たり前になっている。
そうする事で淫魔族として生きてゆくために色欲という武器を研ぎ澄ますのである。
「(領主様っていうのも大変そうだなー。ママも苦労してたんだろうけど、私は性に合わなさそーだな~)」
シャルールは気になっていた。ミミが何を考えているのかまでは不明だが、少なくとも何か狙いがあっての事なのは理解できる。
「あんまり無理しちゃダメだよミミ様? まだ若いんだから」
「子ども扱いされるほど、若いつもりはないのですけれど、フフッ」
種族によって寿命も成長過程も異なるため、姿形は一人前でも、中身は一人前ではない種族はいる。
たとえば龍族は成人は1000歳が目安とされているが、実際は200歳頃には大人とまったく変わらない体格になるし、シャルール達の淫魔族などは8歳で成人となり、早い者ならば5歳で成長が止まって寿命まで老いる事なく、ほぼ見た目が変わらずに一生を過ごす。
有知性不定粘液体族にいたってはもはや見た目で年齢を想像することは完璧に不可能である。
このようにその容貌にて年齢が判別しづらい種族は確かに多い。しかしミミ達ワラビット族のような獣人は、比較的人間種などに近い――寿命の差ゆえ、その間隔は長いが――一定の安定した成長過程を踏む種族だ。
つまり見た目でおおよその年の頃を想像できる。そして他種族であるシャルールからみても、ミミは本当に大人と子供のちょうど境界線にある年頃なのだ。
「(あー、心配なんだよね~。確かにさー、可愛いし、カラダ付きは完璧大人だし? でも、でもな~)」
まだ少し、ほんの少しだけ子供が無理して大人になろうと背伸びしている雰囲気が残っている、そんな感じなのだ。
あどけなさという可愛さではなく、一人前の美貌からくる可愛さではあるのだが、そこに混じって微妙に漂ってくる本当にもうチョビッとだけ大人になりきれてない感じが、シャルールの心配する理由だった。
「あ、そうでした。本日は少し、シャルさんにお願いしたい事があるのですが」
酒場の一日で一番賑わう時間、それは夜。
昼間のミミ達との雑談の時間が楽園にいるかのような多忙さに、シャルはカウンターと客席を止まることなく行き来していた。
「はーい、お待ちどうさまっ。果実酒とミースフのはさみ焼きねっ!」
「おーい、こっちのつけイモはまだかー?」
「もうちょっとまってねー! 今もってくからー!」
空いた皿とグラスを器用に両手の上に重ね上げると、急いでカウンターへと戻る。するとちょうど出来立ての湯気と香りをたてている新しい料理が並んだ。
「……ディップポテト2皿、ワイルド牛のロースト3皿あがりだ、持っていってくれ」
「りょーかいっ! じゃ、こっちは洗っといて。あ、あとワイン2本とグラス4つに、フライボーとキューボックサラダおねがい!」
「わかった、ワインはすぐに出しておこう」
料理5皿を両手いっぱいに持って再びシャルールは客席のほうへと向かってゆく。その背を一瞥してワインを出す準備に入ろうとワインボトルを手にしたジロウマルはふと注文客の卓を伺った。
見かけない顔―――村の外から来た余所者――に、何かひっかかるものを感じたからだ。
「……まさかな」
万を超えるその昔、もう忘れかけていた懐かしい匂いというべきか、雰囲気というべきか? ハッキリと思い出せもしない感覚に捉われる。
しかし彼は気のせいだろうと、事も無げに止めた手を動かしはじめた。ボトルとグラスを小さなお盆の上に乗せ終えた頃、シャルールが新たな洗い物と共に戻ってくる。
「じゃ、これ持ってくねっ。料理のほうもよろしく~っ」
ジロウマルが持ち込まれた食器をシンクの方へと運ぶのを横目に見ながら、彼女は客のテーブルへと近づく。
そのとき、ふと聞こえた彼らの会話の一端―――
「……に、違いありませんよ、ここの……は。私が保障いたします」
フードを深くかぶった男は、タイトルのない本を取り出しながらこれまた怪しい雰囲気の、粗暴そうな男達を相手に抑え気味の声で話をしている。
「ミミ=オプス=アトワルト。噂どおり……間違いなく……、でしょう……」
聞き捨てならない言葉に彼女の心は激しく揺れた―――だが
「おおーい、シャールちゃーん! 注文はやく取りに来てくれよぉー」
「あ、はーい! 順番ねー! すみませーん、ワインとグラス、お待たせしましたー」
彼女は注文品をテーブルに置くとすぐさま踵を返す。連中が何を話しているのか気にはなるところだが、多忙な夜の酒場が足を止めるのを許してくれない。
シャルールは何か不穏な…嫌なものを感じながらも、それ以上を知る事はできなかった。
――後記――
このエピソードの前に、実はミミ達がこの村までやってくる最中のエピソードを当初は挟もうとしてました。
でもまだ全体の文量の配分なんて小賢しい事を考えていた時期なので、バッサリカットしてしまってます。
ちなみにミミたちが着てきた衣装に関する部分は、後にチョロッと閑話にて触れています。
村までの道中で戦闘があったのですが、その辺は機会があったら改めて加筆するかもしれません。
(というか、個人的には結構戦闘シーンを描写したいですね)
戦闘シーンって、状況描写が多くなりがちなので、ついつい文字数を奪ってしまうので、
夢中になって書いてると、あっという間に何千字にもなってしまうんで、なかなか悩ましいのです。
悩ましいといえばこのエピソードにて出ました、ある意味もはや定番ともいえる淫魔族のキャラ、
シャルールもこの場にて設定を少しお披露目。
『エク=セ=シャルール』
・サキュバス。女。
・見た目年齢16歳。実年齢ヒミツ
・スリーサイズ:T160 B90(F) W56(UB68) H84
・淫魔族、いわゆるサキュバスの女性。
・長めのポニーテールに、愛想をふるまう明るい笑顔が魅力的な酒場の看板娘。
・見た目にはミミと同等の若い娘のように思えるが、実年齢はメリュジーネとあまり変わらない。
・ミミの領地に酒場を開き、マスターを別に雇用し、自らはオーナーの立場にあるが、表向きは酒場娘のように振舞っている。
・愛称はシャル。
・彼女からすれば、インセクトエビル族のジロウマルの容姿はカワイイもので、周囲の目を気にするほどのことはないらしい。
※サキュバスは族長の命で誰もが一時期、貴族等の愛妾を務めるといった修行時代があり、
シャルールはその修行時代に、本気で生理的嫌悪感を抱く容姿をしていた大貴族ブーゼ(超巨大なハエ男)の愛妾を20年間つとめた事もあり、その経験のおかげで並みの女性達が嫌悪するような相手も平気。