閑話 魔を差された者達の明暗 ――――
…その事件は魔王城の一角で、鑑定作業に追われている最中に起こった。
「……ぅー……ん。まだ…なんか…、…ある…気がする…ぅ……」
豪奢なベッドの上。マリーは、呻くように言葉を漏らしていた。
うつ伏せたまま、ボリューミーかつ柔らかで心地よい高級そうな枕に頭を埋め、覚醒と失神のハザマに、その意識を彷徨わせていた。
「(思考をかき乱してまとまらせないこの感覚―――二日酔い…一緒…だ、な)」
とりあえず彼女は、簡単な事から一つ一つ確認して、自分に何が起こったかを思い返そうとする。
「(……全裸、だな…。ぅん…間違い…なく…)」
両手は挙げて、頭を埋めている枕を持ったまま、動かす気力はない。
だがカラダの各部に触れて確かめるまでもなかった。衣服の感覚はおろか下着の着用感すらなく、身体前面の肌は余すところなく完璧にベッドのシーツに触れている。
薄布の下、ベッド台の上に乗った敷き布団は、フカフカでカラダの凹凸に合わせて凹み、適度な反発を返す感じは、前世であった低反発マットを思い出させるものがあった。
「(………背中…は…、…上は…出て、る……けど、下はいちおー…掛け布団、が…かかって、る…)」
お尻の少し上辺りから下は、不快でない適度な重みが感じられる。一方でそれより上の背中から後頭部までは、冷たいという程ではないが、火照った身体には心地よい、しかし少々涼やかに過ぎるかもしれない空気が感じられていた。
「(……確、か…、いつもの…お茶…の、お誘、い…で……)」
魔王城に滞在中のマリーが再鑑定作業の日々に勤しむ中、知り合ってからというもの、軍人貴族の馬獣人はほぼ毎日お茶のお誘いに来ていた。
男性が女性を誘う際、相当な勇気が必要である事を知っているマリーとしては、その誘いを断るのも悪い気がして、快く受けていた。
何より仕事の最中にノドが渇いても、魔王城という場所柄、こちらから飲み物を誰かに要求するのは気が引けたし、ガジュラハシャは彼女にとって常にベストなタイミングで誘いに来てくれ、応じやすかった事も大きい。
「(……ん、で……いつも、の…よう、に……、…ぁ、でも…今回、は…)」
ガジュラハシャとの日々のティータイムはお茶とお茶菓子、そしてそこに他愛もない雑談が添えられているありきたりなものだった。
それはマリーにしてみれば仕事の合間の休憩でしかないが、自分に強い好意を持っていた彼にしてみれば1分でも長く席を同じくしていたかっただろう。ものすごく不器用で、ものすごくわかりやすくはあったものの、懸命に話題を捻り出す姿には、相手の体躯と身分に似合わず、可愛いとすら感じたほどだった。
ところが、お茶のお誘いを受け始めてより8日目の昨日、ちょっとした変化が生じた。
まずこの日、珍しくガジュラハシャが、マリーの仕事中お誘いに来なかった。だが、その日の分の仕事をちょうど終えた頃に、彼は遅れてやってきたのだ。
「(……ま、ぁ…彼に、も………、…仕事…、ある……わけだ、し……?)」
急な仕事があった、というのが遅れた理由だ。別にお茶の時間は定まっていたわけでも、当たり前の慣習となっているわけでもないのに、ガジュラハシャは生真面目にも何度も何度も頭を深く下げて、謝ってきた。
マリーとしては別に誘いに来なかったからといって怒るような事でもなければ、ガッカリしていたわけでもない。故にむしろ謝られるのは、なんともこそばゆくも、不可思議に感じるものだった。
彼の性分なのだろうが、さすがに高位の貴族でもある彼に、自分如きに頭を下げるなんて事をさせてはマリーとしても恐縮し、申し訳なく思ってしまう。
そこでマリーは、なら仕事終わりの一杯でお互いにノドを潤しませんか、と切り出したのだった。
当然断るはずもなく、しかも初めてマリーの方からお茶をしようと言われたガジュラハシャの喜びようはすさまじく、彼は一族秘伝のとっておきのお茶が先日届いたといって、わざわざ自分の部屋から持ってきたほどで――――
「(……ぁー…、あれ…だ…きっと)」
気分がおかしくなってきたのも、あのお茶を飲んで少しした後だったと、マリーは思い出す。
そして――――
「(……介、抱……し、て……、もらっ……て、……ぁー……なる、ほど…ね…)」
完全に理解にいたる。まだ気分もカラダも何一つ良くはならないが、何があって、何が起こって、そして今に至っているのかをしかと理解する。
「(ぉー…せー、き…はん…~、…って…、この世、界…に…、ぁ、った…け?)」
まずはプチ現実逃避。とりあえず気持ちを落ち着ける。といっても現実を理解したところで、マリーの心はショックを受けていたわけでも、波打っていたわけでもなかったが。
「………」
なんとなく、ほんとうに何気なくだがマリーは頭をまわし、埋めていた枕の中で右に向けた。すると視界にとんでもないものが映る。
「…………ぁ~……、……ぅ、ん…。…まぁ、…正、気…に、…戻った…み、たぃ…で…、ょ…かった………、…って、ことで……ぃぃ、んじゃ…な、ぃ………?」
ボソボソとつぶやくような声しか出せないので、はたして聞こえているかは不安だった―――全裸で床に土下座しているガジュラハシャに。
マリーの身に起こった出来事。それは世間一般で言うところの “ 強姦事件 ” である。
ガジュラハシャが振る舞った一族秘伝のお茶は、僅かながらお酒が混ざっているものだった。カラダを温め、血流を良くする事で疲労回復を促進する効果を見込んだ逸品であり、用いられている酒も茶葉も、当然一流の高級品だ。
加えて仕事終わりというタイミングであったからこそ、ガジュラハシャも良かれと思い、この特別なお茶をマリーに振る舞ったのだ。
全ては善意によるもの。
…しかしガジュラハシャは知らなかった、マリーがお酒にめっぽう弱いという事実を。そのためにたかだか小さじ1、2杯程度の微量の酒入りの茶で酩酊してしまうなど思いもしなかった。
彼女がフラフラになって机に突っ伏した時、ガジュラハシャはそれはもう慌てふためいた。だが、すぐに彼女が酔ってしまっているだけと気づいて安堵し、まだ心穏やかになりきらぬ内に、とにもかくにも彼女の酔いが醒めるまで休ませねばと、城内に割り当てられていた自室へと連れて行ってしまったのが過ちの始まりだった。
酔いつぶれた意中の女性が、自分が普段使っているベッドに横たわる姿……。しかも普段からして生真面目で、軍人たるがゆえに規律を重んじ、劣情を抑えつけてきたガジュラハシャである。加えて自室というロケーションは、彼の我慢の限界を破ってしまうには十分すぎる条件が整ってしまっていた。
「……ぅ、うう、ま、マリー殿ぉぉぉぉ!!!」
彼女がハッキリと聞こえた彼の最後の言葉がソレであった。酩酊しているとはいっても、意識を喪失しているわけではない。が、まだ酔っていただけマシだったのかもしれない。
何せ覚えているその夜の事は、とてもじゃないが口では言い表せないほどのレベルであったからだ。
「(……馬並、み…とか、いう…けど…、そん、な…レベ、ル…じゃ…な、い…。……大砲……、そ、う…ぁれ…は、……まさ、に…大、砲……)」
しかも前世の知識に頼るなら、戦車砲を5、6本まとめてグルグル回した、超絶規模のガトリング砲というイメージを、マリーに抱かせていた。
もちろんそんな規格外過ぎるものに晒されては、マリーに訪れるは苦しみの嵐だ。それが文字取り一晩中続いたのだから、いまこうして気分がグルグルになっているのも、酒に酔ったせいばかりではない事は間違いない。
むしろよく自分のカラダが壊れていないものだと、驚愕に値するくらいだ。それともあれは夢だったのだろうか? 悪い夢であったのだろうか? 少しはそれを期待したいが、互いに全裸で、しかも相手は床で土下座しているというこの状況では、残念ながら昨夜の出来事は現実であったと認めるしかない。
「………」
ガジュラハシャは黙して土下座したままだ。我に返った瞬間、おそらく途方もない罪悪感に襲われたに違いない。そして今、彼に出来る事が土下座しかないという事も、ガジュラハシャ自身を苦しめる原因となっているのだろう。マリーにはその心情が恐ろしくらいによく理解できた。
前世では頭を下げる以外の謝罪が出来ない状況など、山とあったからだ。そういう状況下においては、男は途方もなく苦しむ。
なぜならば問題解決を優先する上で、問題に対して行える事が頭を下げる事しかできないというのは、男にとっては無力であり、己が他に何もできる事がない無能であると認めざるを得ない事なのだから。
人によっては悔しすぎて涙を流す者だっているだろう。そんな事で泣くなんて、と理解できない者はあざ笑うかもしれないが、本人にとってはそれほどに苦しい事なのだ。
「………んー…、…頭…、…ぁげ、て……くれ、ません…か?」
まだ、頭もカラダもまったく冴えてはこない。だが、このまま彼を土下座させたままにはできない。1秒でも早く、この状況をどうにかしなければならない。でなければ彼は―――いや、既に遅いぐらいなのかもしれない。
「マリー殿……、誠に…誠に申し訳ございません!! か弱い婦人を我欲のままに弄ぶなど言語道断。この重き罪、我が命で償う所存なればッ!!」
「(やっぱり……)」
もしも男の経験も記憶もないただの一人の女性であったなら、おそらくは心無なくも感情のままに “ なら早く死んでしまえ ” と軽々しく突っぱねた態度を取るか、あるいは、“ 命を投げ出すのはやり過ぎだ、さすがに言葉だけの冗談だろう ” などと思う事だろう。
しかし…これが男なのだ。男という生き物なのだ。
男とは、社会や秩序というものの中にあって、孤高に戦う生き物である。どんな小さな不始末であっても、恐ろしいほどの罪悪感を抱えてしまう生き物なのだ。
そして、問題が発生してより時間が経過すればするほど、その罪悪感は勝手に膨らんでゆく。とりわけガジュラハシャのように根が真面目である者ほど、その罪悪感に取りつかれやすく、振りほどけない。
やがてその償いは、自らが支払える最高の価値を持つ物―――すなわち、自身の命で、などと考えてしまうまでに至ってしまう。
そうなると、例え当人が許しの言葉を用いたとてその心を救う事は難しい。
そして今回のこの状況は、もっと恐ろしくて厄介なものでもあった。
「(……どう、しょ……、身分差、が…)」
ガジュラハシャは高位の貴族だ。このような不祥事はまさしく大問題と言える。しかもマリーがガジュラハシャを許しても、ガジュラハシャ自身は納得しない可能性が高く、やはり命を絶つという手段に出てしまう可能性がどうしても残ってしまう。
これがもし、マリーのほうが高位の身分の者であったならば、強く言い含める事で上からの命令という形に類似した許しの言葉となり、とりあえず命を絶つという最悪の行為に走らせる事を防ぐことはできるだろう。
が、今回のケースではその逆、被害者は身分低きマリーである。
彼女がどんなに言葉を尽くしてみたところで、ガジュラハシャは己が身分や立場上から、絶対に自分を許そうとは思わないだろう。
「(………ん~…、ん~、……ん、…ま、…ぃ、っか…ぁ)」
実はガジュラハシャを死なさずに許す方法は思いついていた、それもいくつかを。だが、どの方法を選んでも、マリー自身にも一定の覚悟が必要となってしまう。
「………ん、…しょ、…と」
それでも意を決して、思いついた方法を取るべく、マリーはゴロンとベッドの上で転がった。そして、そのまま外へと――――
「あ、危ないっ!! …ふぅ…だ、大丈夫ですかマリー殿??」
彼女のカラダは、床にぶつかる前にガジュラハシャの両腕にしかと抱きとめられていた。
「……ん……、ゃっぱ…り、…まだ…ぉき、ぁがれ、なぃ…か、な……ぁは…」
軽く、本当に僅かだがはにかんで見せる。
というか、それが限界だった。まだ意識もカラダもハッキリとしないマリーには、身をひねって転がる事と、かすかに口角をあげる程度。
だが、それで十分。言葉を尽くすよりも、まずは態度と表情をもってガジュラハシャの自分に行った事に対し、さほど怒っていないし悪し様に思っていない事を伝える。
しかしこれで終わってはいけない。ここからが肝心なのだ。
「ん…、まだ…少し…、しんど、い……。ふー……、介、抱…して、くれま、せん…か、ガジュラハシャ?」
もしも完全に頭が働く状態であったなら、おそれ多くてとても言えなかっただろう、あえて高位者である彼を呼び捨てにするなんて。
だがこれこそが重要だとマリーは理解していた。苦しみ悩む男に必要な事―――それは罪に触れることなく簡単に遂行できる仕事をお願いする事だ、それも至極親しげに。
ネガティブの極致にある場合、心身が止まっている状態というものは非常に危険である。僅かなりともで構わないので、動いている状態であれば最悪は存外回避できたりするものだ。
そして呼び捨てに…親し気に話しかけた事で、マリーの介抱はガジュラハシャという個人に対してのみお願いされたものであり、同じ仕事内容でも彼個人にとっては一段高い価値を持つようになる。それは個人に対する信頼。信頼された者は信頼してくれた者を裏切るわけにはいかない。
生真面目な性格だからこそ、この方法が通用することを、マリーは確信していた。
「…し、しかし……わ、私は…ま、マリー殿にとんでもない事を……」
自分が許せない気持ちはよくわかる。マリーは、自分を抱えるガジュラハシャの腕が震えているのを感じてある意味、被害者が前世の記憶持ちでよかったと安堵した。
男心がわかるからこそ最悪の事態にさせなくて済む日が来るなんて、思いもよらなかったと、苦笑してしまいそうになる。
「(…じゃ、とど、め…、と、ぃ…こっ、か…)」
そう簡単に折れない事も重々承知している。
次は2択だ。片方は後々までかなり尾を引くし、面倒なもの。
もう片方は今の生活がガラリと変化してしまうが、すぐにも解決するであろう楽な選択――――そして、マリーが選んだのは楽な方の選択肢だった。
「……。次は、…ゃさしく、……ね? ガジュラハシャ」
可能な限り穏やかに、にこやかに、囁くように言葉を紡ぎ、彼の口を舐めた。馬獣人の顔カタチに対し、今の自分の状態でキチンと口付けに持っていくのは困難ゆえの妥協であったが、これで十分だろう。
彼女の選択、それは自分を凌辱した相手を許し、なおかつ異性として受け入れるという、今のガジュラハシャにしてみればぶっ飛んだ展開だ。何せ彼の理想ともいえる関係になれるのだから。
そして相手の反応は、マリーの想定通りであった。
ガジュラハシャは最初呆然とし、やがて頭から耳の先まで真っ赤になった。抱えた彼女をベッドにそっと戻し、回復するまで傍らに付き添ってくれている最中も、ずっと上の空でぼーっとした状態のままだった。
「(……ぁ~、魔王様に……、とり、あえ…ず…壊れない…身に…して…くだ、さい…って……、ぉねがい…しなきゃ、…な…~~…)」
とりあえず、馬獣人と付き合っても身が持つようにならないと―――とりあえず一難去って安堵するマリーだが、こんな事を一体どう魔王様に頼めばよいというのかと、新たな難事に悩みつつ、その身を休ませるのだった。
…同じ行為に走っても、悪意の有無でその内容と結果、そして刻まれる傷跡はまるで異なるものだ。
悪意があろうとなかろうと、経過と結果に変わりなどないだろうと考える者も多い。が、悪意とは欲の暴走であり、それは行為・言葉にも反映されるものである。
――――――その日、魔界はリヴァイアサンの貴族マハシッド家は、悪夢の夜明けを迎えていた。
「……、か……、ぅ……、ッ………」
「お嬢様ッ、お医者様をお連れに!! 早く、早くお嬢様の治療をッ」
息をつくこともできない彼女の元に、医者の腕を引いて室内に飛び込んできたのはこのマハシッド家御用達の医者である。二人は乙女の部屋にノックもなく入室するのは失礼と思いながらも、緊急事態ゆえにけたたましくドアをあけて飛び込んできた。
この家の長女たる令嬢、マハシッド=リクリーヌは乙女の証を喪失して初めての朝を迎えていた。
だが、愛に満ちた素敵な夜を越えたのでもなければ、破瓜の痛みに苦笑いを浮かべて相手と笑いあえる気持ちの良い朝でもない。
モデルのように美しい肢体は無残にも血と体液に穢れ、彼女の呼吸は限りなく不安定で、素人目にも明確に生命の危機にさらされている酷い状態で、全裸のままベッドの上に転がっていた。
「こりゃいかん! 君、お湯を大量に用意を! それ常備品でも構いません、ありったけの消毒液と傷薬を持ってきて! あと清潔なシーツも用意して!!」
「ハイッ!!」
医者の指示を受け、この屋敷のメイドが飛ぶような勢いで部屋を出てゆく。医者は男性であったが、ジェンダーの倫理を気にしている場合ではなく、躊躇なくリクリーヌの柔肌に触れた。
「生命力を維持せねば…<生命が大地に根差す!!>」
娘である彼女の命の危機に際しても、両親が駆け付けないのには理由がある。今、屋敷の玄関を出たすぐのところで、彼女の両親は一夜をかけて大事な娘を穢すどころか無茶苦茶にした張本人を見送っている最中なのだ。
「なんと酷い…。このような無体な真似がなぜ出来るのか、どうやら噂は本当だったようだ」
医者はちょうどそいつが出てくるのと入れ違う形で屋敷に入ったので、その元凶たる者を見ている。そしてそれは、世間でも嫌な噂のある人物としても著名な男であった。
―――ウンヴァーハ=アバング=ファルスター。
傍流なれど、あの名門ファルスター家に連なる高貴な者。しかし、気に入った娘を無理矢理に囲い込んでいるという黒い噂の絶えないという、家名にそぐわぬ後ろ暗さを見せている人物でもある。
しかもそれらは自らの劣情を晴らすためだけでなく、暴虐の限りを尽くした果てに死に至らしめては捨てているなどとも……
そこまで家名に泥を塗るような真似はさすがにしないだろうと言われていたが、医者は当人と、そしてこの患者の状態を直接見るに至り、そうした風聞は間違いではないと確信していた。
事の起こりは、リクリーヌが学園の地上支部より夏季休暇として帰郷した際、実家に来客としてあの男が訪問していたのが悪夢の始まりだった。
リクリーヌ自身は、また親から卒業はまだかと急かされ、家のための勝手な縁談話をまくしたてられる憂鬱な夏休みの幕開けであったが、いざ帰ってみると斜め上の展開が待っていたのだ。
「…お、お嬢様。お静かにこちらへ! ……なるべく音を立てませぬように」
実家の玄関の前で迎えてくれたメイドが、やたら怯えた様子でリクリーヌを裏口へと案内した。自分の実家なのに、なぜ玄関から入ってはならないのか? と不思議に思った彼女だったが、疑問はすぐに解消された。
「現在、ファルスター家の方が旦那様を訪問なされておりまして…言いつけで、お嬢様が帰ってきた際には、その…先方に気付かれぬようにとの仰せでして」
言葉をそのまま受け取った場合、名門貴族のお目汚しになるので不出来な娘の存在を隠させようという風に聞き取れてしまうだろう。
しかし、貴族社会では言葉そのままの意味で受け取るは衆愚の極みであり、実際にメイドが仰せつかっているところには含まれた意味が見え隠れしている事を、リクリーヌは即座に察する。
語る彼女の表情、口調、態度…指先から眉の動き、メイド服のフリルの一部の揺れ方まで、全てが語る言葉の真の意味をくみ取る材料である。
「……嫌な類のお客様、…ファルスター家の……まさか」
リクリーヌは思わず自分の両肩を抱いて軽く震えた。
あの家格を気にする父が、本来ならば兼ねてより自分の縁談を武器に家格を上げようとしているあの父ですら、相手にして警戒し、娘をまるで隠すかのように指示を出すほどの嫌悪を感じさせる名門家に連なる者など、一人しかいない。
「噂で伺った事がある程度ですが…まさか、来客というのはウンヴァーハ=アバング=ファルスター…」
メイドが怯えたようにコクリと頷く。何かされたわけでもないだろうにこの怯えようは、世間の噂がよく当てはまる人物像であったという事なのだろうと、リクリーヌは推測し、そして冷や汗を流した。
―――なぜ、そんな者が、当家に、何をしに、きたのか?
嫌な予感以外感じるものがなさすぎた。
そして、そんなリクリーヌの嫌な予感は、完全に的中する。それは裏口から入り、こっそりと2階の自分の部屋に戻って、しばし旅路の労を癒さんとくつろいでいた時に起こった。
ノックもなく、無礼にして傲慢な丸っとした獣が、リクリーヌの私室に堂々と入ってきたのだ。
「おぉぉ、噂どおりの美人じゃあないか」
「!!!? …な、なんですか、貴方は!?」
「なんですかはないだろう。ボクはウンヴァーハ、あのファルスターの一族の者だぞ、無礼だろ!」
無礼は貴方の方です、と言いかけてリクリーヌは言葉を飲み込む。仮に、ウンヴァーハが高位の貴族であって、自分より下位の者相手であったとしても、相手の家やまして私室にあってはお客人であり、礼儀としては家主や部屋主に敬意と品位を払って下出に出るのが当たり前の作法である。
しかしウンヴァーハは、リクリーヌをして一目でそうした貴族社会の常識を何一つ知らない愚者である事を理解させるほど傲慢かつ不遜な態度で歩み寄ってきていた。
「わ、私になんの御用でしょうか?」
「なぁに、このボク直々に、噂が本当か “ 品定め ” してやろうというだけの話だ。光栄に思えよな?」
そういって舌なめずりし、股間の蛇をうねらせる。その様子だけで “ 品定め ” とやらがどういうものか察するに不足はない。
リクリーヌは逃げるようにベッドの上を後ずさりしたが、すぐに壁に追い詰められる。
……そして、悪夢の夜が、幕をあけた。
その夜、マハシッド家には悲痛な叫び声がこだまし続けた。それはうら若き乙女の破瓜の痛みを訴えるものではない。命の危機を訴える苦痛の叫び声だった。
しかし、名家には逆らえないと両親は握り拳を震わせながら耐え、妹は聞いた事のない麗しの姉の恐怖に満ちた泣き叫ぶ声に、怖れ震えてメイド達と身を寄せ合いながらその夜を過ごした。
そして暗闇が明けて今―――
「くふふ、なかなか良かったぞ、お前の娘」
ウンヴァーハは満足気に笑う。だが気分が良いのは彼のみであり、見送りに出たマハシッド家当主はもちろんの事、その横にいる執事も、そしてウンヴァーハの護衛の兵士ですら沈痛な表情を抑えるのに必死になっていた。
「そ、それは何よりで…」
「まぁ、妹は勘弁してやる。お前の家も跡取りがなけりゃ困るだろうしな。…そのかわり!」
ウンヴァーハはビシリと指先を突きつけた。
「姉の方は、学園が卒業したらボクによこせよな。たっぷりと可愛がってやるんだ、ハハハハ! よかったな、このボクの妾に娘を差し出せるんだ、お前は幸せものだぞっ」
遥か年上の、正式な貴族位を持つマハシッド家当主に対し、貴族位すら持たず、ファルスターという家名のみで偉ぶるウンヴァーハは、気分良くマハシッドのお屋敷を後にした。
ウンヴァーハが今回マハシッド家に足を運んだのも、今囲っている奴隷に飽きてきた際に、たまたま出かけた町で一言程度耳にした、マハシッド家の娘が美人という低俗で不確定な噂のみで気まぐれに起こした行動であった事が後に判明する。
そんな気まぐれな色欲という魔が差し向けられた当のリクリーヌは、この日より丸々10カ月以上もの療養を必要とし、もちろんこの年の昇級試験には合格できず、皮肉にも卒業が遠ざかる。
卒業すれば、あの悪夢が毎日もたらされる日々が来る。命は短く、そして両親は抗えないだろう。
先の件も、まだ幼い妹に手を出すぞと脅された両親が、苦渋で自分にウンヴァーハを押し付けたのだと知った時にはさすがに苦しい気持ちになった。
結果として、自分が犠牲になって妹を守れたのは幸いではあったものの、それでも名にこだわり、名に逆らえぬ自らの両親への反感は覚えずにはいられない。
「(これも報いなのかもしれない…けれど、それでも…あまりにも…)」
酷過ぎる。
あるいはあのゴブリンの先輩もこれほど苦しい想いをしていたのかもしれないと考える。だがそれも言い訳だと、今の自分の境遇を自分自身で納得させるために利用しているだけだ。
リクリーヌは療養中、その嘆きの葛藤をずっと繰り返した。
たった一晩で内も外も弄ばれ尽くした身体は、医者の尽力もあって傷一つない綺麗な状態まで回復する。しかし、弄ばれた事実は変わらず、そんな事をしでかした張本人に、目をつけられたのもまた変わらぬ事実。
リクリーヌの将来はさらに深い暗闇に閉ざされ、一切の光明は差さなくなり、地上は学園支部に戻った時には、その瞳は暗く沈んでしまっていた。