第7章5 暗き者はより深淵へと沈む
――――それは、ミミがドルドゥル駐屯村に囚われて3日目にさかのぼる。
「はぁ、はぁ…ちくしょう、どいつもこいつもバカにしやがって!」
魔界の薄ら暗い森の中を、おぼつかない足取りで走る者がいた。あちこちが汚れてしまってはいるものの、それにも構わず移動し続ける。
彼の名は、ウンヴァーハ=アバング=ファルスター。地上にバランク達を送り、多額の資金をアレクス革命軍に与えた張本人である。
長らくやりたい放題の日々を送ってきた彼だが、ついにその生活に終止符が打たれてしまった。ファルスターの本家、その現当主より厳しいお咎めが、自分の父を介して申しつけられたのだ。
伝者と、およそ200人にも上る完全武装した兵士たちに自身の別荘へと乗り込まれ、あっという間に制圧されたかと思えば、ウンヴァーハ自身は父が用意した最寄りの屋敷へと強制送還された。
ありとあらゆる欲望と快楽を貪る日々から一転して、厳重な密室での激怒する親からのお説教&詰問の毎日。
もうイヤだとウンザリして、我慢の限界を迎えた彼は先日、部屋から脱走した。
そして今、ただでさえ薄暗い魔界の宵闇の中を懸命に自分の別荘へ戻らんとして、運動不足なカラダに鞭うって歩き続けていた。
「くそっ、くそっ、くそっ! なんでいきなりこんなっ、今まで何も言ってこなかったくせにっ!」
親への憤懣は大きい。ウンヴァーハがどれほど無茶苦茶な生活をしていようが、まるで放置だったにも関わらず、突然のお叱りだ。ファルスター本家からのお達しとの話だったが、そもそもなぜ今になって本家が自分を咎めるのか? それがウンヴァーハには解せなかった。
「…まぁいい。塒にさえ戻れば、なんとだって出来るんだ、勘当でもなんでもしてみろよ、ハハハ」
ファルスターという名門貴族の名が後ろ盾にあったからこそ、ウンヴァーハはこれまで傍若無人に振る舞ってこれた。しかし彼自身にその自覚はなく、己の力と財力を絶対的実力として信じて疑っていない。
思い上がったお坊ちゃん的な妄想。
そして欲望への執着が、いまだなお彼にこれまでと同じような暮らしができるものと思わせていた。
だが、ようやくたどり着いた自分の別荘にて、ウンヴァーハは現実を突きつけられる。
「………ちくしょう、親父の差し金かよ」
別荘に踏み込んできた兵士達が制圧し続けている事は想定していた。しかし別荘には彼にしかわからない秘密の抜け道が多数あり、兵士の目をすり抜けて別荘内へ入る事など余裕だ。ゆえに当面の軍資金や手駒となる者を持ち出す事など容易だと考えていた。
ところが別荘の正面では、玩具達や憔悴しきった牢にぶち込んでおいたはずの連中が兵士たちによって保護され、歓喜の涙を流している。そのうえ兵士達が別荘内の調度品や蓄えておいた金、宝石、食料やその他物資の数々を運び出していた。
さらに上層階では一部で別荘の解体作業が開始されており、基礎骨組みの柱が露わになっている。そして決定的なのが、彼が知る秘密の抜け穴の出入口から、土竜人族の土方らしき者が顔を覗かせている事だ。
隠し通路や抜け穴の数々も含め、別荘の隅々まですでに掌握されていると見るべきだろう。
ウンヴァーハは歯ぎしりして悔しがる。
「なんだ、なんだよ! ボクのものだぞ、全部、全部っ! それを、それおおぉお…!」
癇癪を起しそうになる。だがウンヴァーハは冷静さを取り戻した。荒い鼻息をつきながら、まぁいいと自分に言い聞かせるように吐き捨てる。
「ボクの別荘は他にもまだあるんだ。見てろよ親父、これはボクと親父の戦争だ!」
ウンヴァーハは後ろ髪引かれる思いでその場を立ち去る。正直運動不足のカラダはすでにヘトヘトになっていたが親への反発心をバネに、彼は別の別荘へと歩を進めた。
しかし…
「こ、ここもだとぉ!!? く…くそぅ…」
そして…
「ここも!?」
「ここもか!?」
「ここまでも!!?」
行く先々、自分の別荘すべてに父の私兵の姿があった。それも数百単位の数で。
ウンヴァーハとて戦おうと思えば戦える。兵の数が数人~数十人程度であったならば蹴散らし、別荘と己の財貨を奪い返す事ができたはずだ。
しかし酒池肉林を常とする日々は、完全に彼の戦闘力を萎えさせてしまっていた。実際に戦ったところで本当のところはどこまでやれるかは怪しく、1か所辺りに配置されている兵数は、まるでウンヴァーハの実力を見越しての数のように思えた。
…結局、彼の所有物のすべてが差し押さえられた事を知ったのは10か所目の、最後の別荘にたどり着いてからだった。
やりたい放題の日々がいきなり身一つに転落した事を今更ながらに実感し、言いようのない怒りが込み上げた。
「うがぁあああ!! なぜだ、なぜこうなった!!?」
ドガァッ!!
ガンッ!!
バキャッ!!!
手当たり次第に森の木々に八つ当たりし、暴れ回る。
「(生まれながらにして、ボクは選ばれた者だ!)」
バキキ…ッ
「(全てがボクのものだ! それは当然じゃないか!?)」
ドカッ!!
「(なのになぜこうなる! どうして責められる!? なぜ金も玩具も塒も取り上げられる、こんな目にあわなきゃならないんだッ!??)」
ズドォッ…ン…!!
「ぜはー、ぜはー、ぜはー……、アイツだ、あの女だ。あの女さえ素直にボクのモノになっとけば、こんな事にはならなかったんだ! すべてあの女のせいだーっ!!」
思い返してみれば、あの女を手に入れようと商人どもに依頼したのが、自分がこんな境遇に落ちる事になったすべての始まりではないか? アレがきっかけだったのではないか??
考えれば考えるほど、かなり強引ながら全ての原因は “ 彼女 ” にあるというねじまがって強引な結論にむかってゆく。
自分の悪事などこれっぽっちも顧みず、他に責任を求めるドス黒さ。その顔面には、もはや名門の大貴族の者たる品性はこれっぽっちも残っていなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ…とにかくだ…、これからどうしよう…。戻って親父に頭を下げる? ………いやいやいや、ありえないねッ」
何一つ自分が悪いとは思っていないウンヴァーハにとって、今回の仕打ちは理不尽極まりないものであり薄っぺらい尊厳も加わって、最も安全かつ安定した生活環境を取り戻せる選択肢を放棄させてしまう。
だが先立つものがまったくない。またぞろムカムカが増して癇癪が再発しそうになった、その時―――
「…ならば、我々と共にゆく気はありませぬかな、ウンヴァーハ殿?」
薄汚れたフードを深く被った怪しげな風貌の男が突如現れ、ウンヴァーハに声をかけた。
――――一方、地上でも時を同じくする頃。
領主の館の中を、重い足取りで歩を進めるアレクスの姿があった。
「………」
顔面は蒼白で、もはや命脈の尽きた死にかけの老人のように生気が失せている。
結局、何も見つからなかったのだ。あらゆる記録および書類から読み取れる痕跡のすべてにおいて、領主を突き崩すための何かがホコリ1つ分たりともなかったのだから、今現在おかれた状況は最悪極まる。
「(どうすればよい…どうすれば…)」
さすがのアレクスにしても、もはやドミニクに担がれたという事実を受け入れざるを得ない。そしてそれは同時に、とんでもない事をしでかした自分に、終始一切の正義がなかった事を、認めたくはないが認めなければならなかった。
「(その上で、だ…どうする? どうすればよい?? 今から頭を下げ、非を詫び……否、もはやそんなレベルでは済まぬか…)」
事態は自分が間違ってました、ゴメンなさいで終われるような規模ではなくなっている。領民に被害が出ている上に、不法占拠に不埒者の組織化、扇動に治安破壊と、現地政権の転覆活動である。どれ一つとっても極刑も十分にありうる重罪ばかりだ。素直に申し開きしたところで許されるはずもない。
「(どうすれば…どうすれば…、正義は…こちらにあるはずだったのに、すべてが勘違い…すべてが踊らされていた結果などと今更…)」
最悪の意味で後戻り出来なくなっているのだ。革命軍のつもりが反乱軍。自称知識人、自称有識者、自称世の中を理解している者、自称民を憂う者……
なんと滑稽か? 過去のアレクスが、使命感と正義を信じた態度と言葉のすべてが今では単なる大恥でしかなくなっている。
ガチャリ。
本来は客間であろう大きな広間一つに、これでもかと運び込んだ資料はチェックと同時に元の場所へと戻させている。そして今、その広間にはもはや数えるほどの紙の束の山が2、3積まれているだけで、それも希望的観測による特に重要と思しき書類を藁をも掴む思いで再度チェックしなおすために残してあるだけのものだ。
事実上、すべての書類はすべて目を通し終わっている今、アレクスが部屋に入ってまず最初する事といえば、絶望のため息をつく事くらいであった。
「おや大将、おはようごぜぇやす。今日は遅かったですねぇ」
いつも寝坊してくる部下よりも遅かったとは、まるで気が付かなかったとばかりに驚いている彼をしり目に、部下の無翼の翼恐竜人は、何かの紙へと熱心に書き込みを行っていた。
「…何を、している? もしや書類に落書きなどしておるのではあるまいな?」
問いかける自身の言葉には明らかに元気がない。生真面目なほど高潔で高尚であらんとし、誇りを重んじた彼だからこそ、絶望と挫折による振れ幅は大きいのだろう。言葉こそ部下を咎めるようではあるが、その口調はもはや何もかもどうでもいいと半ば投げ出しつつあるようなものだった。
「んな事しませんって。後で叱られるのがわかっててやるほど馬鹿じゃあねぇですよ。ほら、単なる白紙でさぁ」
そう言ってピラピラと中空にはためかせて見せる一枚の紙。
白紙とはいっても、何も書かれていないわけではない。何かの用紙らしく、印刷された定型文らしきものが見えていた。
「……緊急徴収の通告書…?」
それは有事の際に、領主の許可と認可の印を持って領民に示すことで、食料などの物品を徴収する、いわば命令文書である。もちろん領主の認可のサインも印もない紙は白紙となんら変わらない。
「まったく使われてないようですし、これなら適当に暇つぶしに使ってもかまわねーかなぁーと思いやして」
確かにこうした必要に応じて後付けで書き込んで正式な公式文を完成させる類の用紙は、いつ何時使う時が来るかわからないためストックこそされてはいるものの、透明なガラスケースに束で仕舞われたまま、1枚たりとて使われた形跡はなかった。
もっともそんな緊急性の高い文書がそうそう発行されるはずもないのだから当然といえば当然だが。
「(しかもまた一つ、領主の有能さが証明されたようなものだな…)」
朝っぱらからさらに落ち込みそうになったアレクスだが、部下の落書きの内容を見て垂れかけた己の頭を途中で止める。
「…なんだこれは? 金貨1000枚……?」
「ああ、いえね? 頭の悪ぃ俺でも、これが領民どもから何かしら巻き上げるための紙だってーのはわかりやすから、こんな風に書き込んで、連中に見せりゃ楽に巻き上げられたりしねぇかなー、なんて思っただけで」
「馬鹿者! 不必要な徴収など、反感を買うだけだ! それにこれは領主の認可がなくばなんら効力を発せぬもの―――」
言い切りかけて、アレクスは言葉を止めた。
怒号を受けた部下はすいやせんと謝りつつ、防御の構えをしている。が、いつまでたっても二の次のお叱りの言葉が飛んでこず、おそるおそるアレクスを伺う。
「(…やってしまえよアレクス。考えてもみろ? いくら有能でもあんなか弱そうな女性がいつまでも領主なんて激務を務められると思うか? 多少強引でもここで引きずりおろしてしまった方が彼女の身のためにもなるだろう? それに、大事の前には多少の小事に目をつぶらなくてはいけない事くらい、知っているはずだ、躊躇っている場合か?)」
悪魔が囁く。彼の中で、自分の現状の保身と目的達成のため、強引にして最悪の正当化の方法を勧めてくる。
――――それは、すなわち偽造。ないのであれば、造ってしまえばよいという、最悪に身勝手な手段。
だが精神的に追い詰められたアレクスに、その囁きを蹴り飛ばすだけの余裕はなく、数秒後には領主の認可印のある書類を探して、そこらの資料の山を漁りはじめていた。
――――そして、ミミが囚われてより7日目の昼。
魔王はさすがに苛立ちを覚えはじめていた。うっかり表に出すほどではないが、オリス村の再襲撃への備えと、いざという時の避難経路の確保に物資の補充などを指揮していたがそれも終わってしまい、手持ち無沙汰になってしまっていたのも苛立ちの理由の一つだった。
「(ホネオはやはり優秀だな。自身のみで長たるすべての役目を担う事は出来ずとも、命令を下してもらえる者さえいればあらゆる事に対し、非常に優れた結果を出せるだろう。現場クラスの執務能力と大臣クラスの知識力…惜しむらくはスケルトンである、という事か)」
これで生命あるなにがしかの種族の者であったなら、確実に部下にスカウトしたい人材だったろう。しかしあくまで下僕の立場で創造された者であるアンデッドのスケルトンを魔王が直接徴用するのは特例でも難しい。
神と対を成す魔王という存在は魔界において、王ではなくまさしく神なのである。あらゆる部署や役割において彼に仕えたいと願わぬ者はおらず、当然立場ある貴族連中は特にその渇望たるや凄まじい。執念すら感じさせるような者さえいる。
そんなところへいかに優秀といえどスケルトンを引き入れでもしたならば…
「間違いなく、大反発が起こるだろうな…」
「? 何か問題でもあるのですか、タスアナ様?」
近くを通りかかった村人が彼の思わず呟いた言葉を聞き取ったらしく、少し不安そうな表情を浮かべている。
「ああ、すまないな。こちらの…そうだな、私の普段の職場での事を考えていただけだ。現状、この村の態勢に問題はないゆえ、安心してくれ」
そうですかと軽く会釈して丸太を担ぎ直し、去っていくワーキャットの男性の背中を見送ると、魔王は肩で息をついた。
「いかんな、この私としたことがこの程度の事で―――」
「おおタスアナよ、油断してしまうとは情けな―――むぎゅううう!!」
切り株に腰かけている魔王の背後で、妙な声真似をしながらヘンなナレーションを入れてきた部下の両頬を、振り向きざまに両手で掴んで押しつぶす。
「さてイムルンよ? 指定した期日を随分と超過して戻ってきたのだ、相応の成果は持ち帰ってきたのだろうな?」
魔王たる自分にこんなにも気安く接してくるのは、イムルンにしても魔王の凄さと地位、立場を正確に理解しているからだ。直属という現状でも十分な栄誉だが、女としては当然ながらその寵愛を頂けるのであれば更なる悦びである。だからこそ地上で行動を共にする際も、たびたび下の世話を希望するような発言をしてきている。
こうしてお茶目な真似をしてくるのも、距離を縮めるためだ。打算的ではあるが、結果を出そうと固執したものではない。弁えるべきは弁えている分、魔王にしても自分の気を引こうとする一連の言動に関して、特に咎める気はない。
「ふぉへはへふへぇ! ほんはほんほ、“へふみ” はほっへはんへふへど
(それがですねぇ! こんなものを、“ねずみ” が持ってたんですけど)」
頬を押しつぶされ、引っ張られ、苛立ちを解消するようにイムルンの顔をいじくりまわす魔王に、一枚の紙きれが差し出された。
――――ガドラ山、避難村。
「…これって、領主様の命令書?!」
その紙は、領主のフルネームが記載された、徴収令状であった。
人々はザワつく。何せその内容はというと、領主の名において全ての金銭、食料を差し出せ、というものなのだから。
「ど、どういう事だコレは!?」
「わ、わからねぇよ! …お、俺だって偶然手に入れることができたんだ」
男は山を下り、麓の様子を探ってきた若者だ。
彼によればなんとかシュクリアの町まで行くことができたものの、そこでゴロツキどもがコレをもって家々を回り、食料や金品を合法的に強奪していたのだという。
「たまたまさ、強奪してる現場で連中と住民が揉め合ってつかみ合いになっていたんだ。その時に連中が持ってたこの紙が落ちてきてさ、咄嗟に拾ってそのまま逃げてきたんだ。俺だって何がどうなってんのかって感じだよ。領主様は囚われているんじゃないのか? 奴らとグルだったって事―――」
「それはないッス! アトワルト様のようなお優しい方が、そんな事するはずないっス!!!」
シャドウデーモンが声を荒げる。確かににわかに信じがたい話だ。しかし実際に徴収を行っている現場を見てきた者がいる以上、じゃあこの紙はなんなのか、という疑問が生じる。
「…ぁ、の…それ、…見せてください」
か細くもたおやかな声が不安に荒れ始めた場に響き渡った。
「メルロさん! まだ起きては…」
「平気…で、す…。それより…」
領主の館での戦闘、そして囚われて以降のその身に起きた悲劇と一連の経過は、彼女にとって一種のショック療法となったらしい。何より自分を助けてくれたミミが身代わりになって目の前で捕まった光景を目にし、彼女の精神は沈んでなどいられないと強く立ちなおり始めていた。おかげで随分と発声がしっかりしてきている。精神面にしても驚くほどの回復ぶりを見せていた。
「(まだ無理している様子だが…本当に大丈夫だろうか?)」
実際、頑張らなくちゃ、という奮起の思いが今の彼女を支えている部分はある。それでもこの村に運び込まれて以降の静養の日々は、その身の疲労と怪我だけでなく、心の傷もまた順調に癒してくれていた。
「………」
ランプの明かりのせいかもしれないが、紙の文面に目を通していく姿にも、どこか生気が戻りつつあるように見える。
「な、何かわかるのか?」
沈黙が耐えられなかったのか、村人の一人がしびれを切らして問いかける。だがメルロはまだ答えない。かわりに答えたのはメルロを運んできた内の一人、ハーフドラゴマンの男だった。
「彼女は領主のお嬢様に仕えていたんだ。少なくとも俺たちよりはわかるはずだ、少し静かにしていよう」
その言葉に追従するように他の者達がしびれを切らした村人を軽く睨む。村人が小さな声ですみませんと答えながら萎縮しはじめるのとほぼ同時に、一通り目を通し終えたメルロが、軽く頭を上げて安堵するようにふぅと息を吐いた。
「…心配…なぃ、です…。これは…領主さまが書かれたものとは…ちがぃ、ます…」
一気に場の緊張がほぐれていく。次に彼らが思うのは、すなわち連中が強奪を円滑に行うためにでっち上げた物だという考えだが、その前に一人が待ったをかけた。
「ちょっと待ってくれ。それが偽物だって結論付けるのはどうなんだ? 囚われの領主様に無理矢理書かせたセンもあると思うんだが」
「む…確かに。だがその場合だと領主様が連中とグルではない事は確実で、さほどの問題でもないのでは?」
「領主様に関しては問題ないだろうさ。でもその紙の効力となると別じゃないか? 無理矢理書かされたにしたって、こんな命令を出したなんて後で大問題になっちまうんじゃないか??」
特に、この令状を信じ込んだ者達や実際に徴収を受けた者達が領主へ不満を募らせかねない。だが村人達が再び騒ぎはじめた時、メルロが突然机の上にあった水入りのコップを手にとって――――紙にかけた。
「!!? な、何を??」
「メルロさん一体??」
驚く人々を前にして、メルロは静かになるのを待ってからゆっくりと口を開いた。
「まず…、筆跡は…真似ては…ぃます…けど、領主さま…のと違ぃ、ます…。そして…領主さまの…書かれる、正式なもの…は、紙が…普通のとは…違うん、です…」
そしてメルロは、濡れた紙をゆっくりとテーブルの上に置き、その紙面を指さした。
「あっ!?」
「インクが…い、いや文字が?!?」
「な、流れ出して……め、メルロさんこれは一体?!」
―――――オリス村。
「おー、キレーに流れちゃいましたねー」
イムルンの言う通り、紙面の上の文字は濡らした部分が見事に流れてしまい、まるで最初から何も書かれていなかったかのような綺麗な白紙へと戻った。
「この用紙は書き手の魔力をわずかばかり吸い取る。もしこれを書いた者が領主であるならばその魔力を吸い取り、用紙に文字を固着させて消させないものなのだ。そして公文書や令書用の用紙は全て責任者…つまりこの場合、この地の領主の魔力をあらかじめ吸収しており、それ以外の者がたとえ魔力を込めて文字を書き連ねたとて受け付けない。容易く…」
魔王は言いながら、さらに水をかけてゆく。文面はすべて綺麗さっぱり消え去り、痕跡すら残すことなく、元の何も記入されていない状態へと戻った。
「水で流れ落ちて文字は消えてしまう、というわけだ」
説明を聞きながら用紙の変化を見ていたオリス村の村人達は、思わず感嘆の声をあげた。
「マグル村で、領主に仕えてるっていうゴブリンに会いまして、領主もこの方法で届いた正式な書類の類はきちんと調べてたって言ってました。まず間違いなくこの文書は領主以外の者が作成した――――」
「偽造物、というわけだな。やれやれ…連中、よほど余裕がないのか?」
「そのゴブリン―――ドンって言うんですけど曰く、暗がりの連中ならこうした偽造行為も躊躇なくやるだろうな、って言ってましたねー」
イムルンの言葉を聞いて、魔王は思わずほくそ笑んだ。
「公文書偽造など、随分と幼稚でわかりやすい罪を犯してくれるものだ。まぁいい、愚かな行動に出てくれればそれだけこちらも動きやすくなる。いくらでも理由がつけられるからな」
なんなら連中が魔界側の本土地上すべてにおよぶ重大な愚行を犯していた、とでも誇張して解釈し、巨悪に仕立て上げてしまうのも良いかもしれないなどと魔王は考える。
そうすれば自分が直接動いたとて別段おかしなことはなくなり、妥当な理由となるし、この地の領主たるアトワルト候に迷惑もかからない。だが…
「まぁ、そこまでもっていくにはもっと悪どい真似をしてもらわなくては、現状ではまだ強引に過ぎるか…。ともかくだ、まずはマグル村とやらへ向かうとするぞ」
だがイムルンは、ふと不思議そうな顔をする。
「途中のオレス村はどうするんです?」
ここ、オリス村からマグル村までの道の途上には敵が支配しているオレス村がある。無論、二人にとって通過する事は造作もないが、退屈を口にする魔王ならばてっきり暴れていくと言い出すものと彼女は思っていたのだろう。
「今は無視だ、道すがらひと暴れするのも魅力的ではあるがな。このオリス村と違ってアトワルト領中心に近い。下手な行動はまだ慎んでおくべきだな」
オリス村を襲っていた連中を殲滅して数日。普通ならば二の次が差し向けられてもおかしくないはずが、今をもって敵の再襲来がないということは、位置関係上まだ敵の動きや目が届いていないか、そもそも仲間が滅ぼされている事に気付いていない可能性もあった。
しかしイムルンの話によれば、オレス村の兵力もそう多くは見えず、よくて5、600程度ほどにしか気配を感じなかったという。それを聞いた魔王は、単純にオリス村へと割く戦力が不足しているものと考えた。
しかもマグル村においても敵は蹴散らされたという事であれば、敵側のアトワルト領北部に残存する戦力は、オレス村にいるその5、600ですべてという事になる。
「(事をおさめるという点でいえば、これを直接叩くのもアリではある…だが、あまり目立って戦う事は避けるべきか…ええい、我が身、我が地位がもどかしい)」
残念ながらオリス村の面々からは攻勢に打って出るほどの人員は出せない。防衛と、周囲の警戒が限界だ。となれば、反乱軍という敵に対する現地の有志は自力で敵を撃破したマグル村より募る方がはるかに良いだろう。
「マグル村の者達からも話を聞きたいし、その…ドン、だったか? 面白そうな人材もいるようだからな。今後の展開を考えてもだ、あちらからオレス村へと打って出る方が何かと良さそうだ」
あくまでもアトワルト領内にゆかりある者の手で、この反乱騒ぎをおさめる必要がある。部外者の介入は、それとわからぬ範囲におさめておかなければならない。でなければ反乱騒ぎの後が面倒になる。
「(やれやれ、フラストレーションが溜まるなコレは。歯ごたえのある戦いなど、もう何年ご無沙汰だ? ……いや、それは贅沢というものか)」
ハッキリと言ってしまえば、自分と互角に渡り合える相手など神の奴しかいない。だが互いの立場上、お遊びでも軽々しくドンパチするわけにもいかない。
魔王は欲求不満である――――そして、だからこそわかる事があった。
「…それで聞いておきたいのだが、お前はなぜそんなにハツラツとしている?」
イムルンの表情も態度もいつも通りだ。しかしごくごく僅かな差を、魔王は見逃さなかった、ほんの砂粒一つほどの、満たされたものを感じているフシがある事を。
「!? …い、いやー、なんの事ですかねぇ~、あは、あはは―――ふぎぃ~、はんへんひへふははひほぉっ、ひんひゅうひほひんへぇひゅうひょひゃっはんへふははぁっ(勘弁してくださいよぉっ、緊急時の人名救助だったんですからぁっ)」
頬ばかりか今度は両耳までも引っ張って虐める。抜け駆けのお仕置きだとばかりに後ろ髪の一部を一房掴んで左右から前に引っ張ってくると、鼻の舌で結びつけた。
「なんれすかコレー!? ちょ、無視して行かないでくらはいよぉっ」
一通りいじりまわしてとりあえず満足したのか、魔王はそのままオリス村の外へ向かう。今一度、ホネオが書いてくれた簡単な地図で村や町の位置、そして街道を確認して呟いた。
「では行くか」
歩幅は普通だ。しかしイムルンを容赦なく置いてきぼりにしてもかまわないスピードで進んでいく。その後を、イムルンが結ばれた髪をほどきながら慌てて追いかけていった。