赤い沼の魔女
深い森の奥。私はおばあちゃんと二人で暮らしていた。私たちの家は、小さな小屋。周りにある物は鬱蒼とした面白みのない自然だけ。
ひとつ印象深い物があるとしたらそれは――真っ赤な、真っ赤な、赤い沼。
『赤い沼の魔女』
おばあちゃんの言い付けで、水を汲みに行く。少し離れた川までだ。その途中に、ソレは、有る。ガタゴトとした歪な道を逸れた先。ぽっかりと口を開けたその中にドロドロと沼が詰まっている。
――赤い。
私はこの赤い沼を見る度に、得体の知れない不気味な感情に支配された。頭がグルグルとし、心がざわつく。目に痛いほどのこの赤色は、見てはいけない、在ってはならない、そんな存在に思えたからだ。理由はそれだけでは無かったかもしれない。この赤は、私のおばあちゃんがいつも着ているローブの色によく似ていた。
おばあちゃんはどうやら森の外の人間からは“魔女”と呼ばれている様であった。
初めておばあちゃんを“魔女”だと認識したのは、まだ私が幼い子供の頃。森に迷い込んだ数人の子供が、私と一緒に居たおばあちゃんを指差して“魔女”だと叫んで逃げた時。その次は小屋を訪ねた狩人が侮蔑の眼差しで“魔女”と吐き捨て出て行った時。
三度目は――おばあちゃんが、人を殺した時。
ある日、酔った風体の大男が小屋を訪ねてきた。その男は私を指差し何事かを叫び続けていた。あれは言葉では無い。私のわかる言葉では無かった。おばあちゃんは私に説明をした。「あの男は、化け物だ」と。人の形に化けた、化け物だと。私は本当だろうかと疑った。
しかし、おばあちゃんが振るったナイフで胸を一突きされた男は体から青い液体を垂れ流していた。私はその光景に悪寒を感じて、喉の奥で悲鳴が詰まってしまった。
血液は、赤い。人の血は、赤いはず。だがこの男はどうだろうか。真っ青な液体を流している。やはりこの男は化け物であったのだ。
化け物は最後に虚空に向かってこう呟いた“気持ちの悪い魔女め”
水を汲みながら、考え事をしていた私の背後で草が揺れる。振り返るとすっかり顔馴染みの青年がそこに立っていた。人の良さそうな笑顔に、すらっとした体の若い男。彼は数週間前に森にやってきて、それ以来何度かひっそりと会って話している。おばあちゃんには内緒だ。おばあちゃんは外から来た人間と関わるなと言うから。
「やあ、今日は生憎の曇り空だね」
「そうね。薄赤くて嫌になるわ」
「赤い? そうかな? 君は中々面白い表現をするね」
微笑む青年の顔をじっと見据える。
「私ね、近頃違和感しか無いの。貴方ならば本当の事を言ってくれると思うから聞くわ」
私は深く被ったフードを下ろして、自らの瞳と髪を曝け出した。
「私の、瞳と髪の色は、いったい何色なの?」
青年は一瞬、言葉に詰まったような、驚きと感嘆が入り混じったような時間を経た後、滑舌の良い明朗な声音でハッキリと答えた。
「髪は純白。瞳は左が紫。右は金だ」
その後には“とても綺麗な色だよ”と。続いていたような気もする。
私の幻聴だったのかもしれない。
しかしどの道、私は、懐から取り出したナイフで彼を刺し貫いていた。
「嘘」
「嘘つき」
青年からは、青い液体が、流れていた。ほらやっぱり。コイツも化け物だったんだ。人の姿をした、化け物。
私は赤い沼へとやってきた。川の前に放置してきた、ここに居ない青年の名前を呼んで、言葉を続ける。
「ねえ、貴方にはこの沼が何色に見えていたの」
背後におばあちゃんが立っていた。おばあちゃんは私が身に纏うローブをちらと見てから視線を落とした。
「ローブを汚してきたようだね」
私は自分の体を見下ろして、ローブに付着した青い液体を確認する。聞かれてもいないのに私は焦るように色を答えていた。
「青よ」
それは言い訳じみた響きの様にも感じられると、どこか自分の思考の遠くでそう思っていた。近寄ってきたおばあちゃんは氷の如く冷たい無表情に見えた。
「近寄らないで!!!」
「この嘘つき!!!」
「ずっと、ずっと嘘を付いていた、魔女め!!!」
おばあちゃんも、化け物だ。だって本当はおばあちゃんも私と違う世界を見ている。化け物だらけ。化け物だらけ。ねえ、人間はどこに居るの? 正しい人間はどこ?
私の腕を掴んだおばあちゃんを振りほどこうとして、ナイフが、グサリと、おばあちゃんの体を貫いた。
「あ…………」
私の声がガタガタガタと反響して、耳に、頭に、反響している。おばあちゃんからは、いや、おばあちゃんからも、青い液体が流れ出していた。
私は思わずおばあちゃんを突き飛ばして、揺らいだおばあちゃんの体が赤い沼に落ち沈んだ。赤い沼に広がる青は、この上無く不気味であり、目を抉りたくなるほどの光景であった。チカチカとした強烈な色合いに怖くなって、私は小屋まで走った。
軽く音を立てる木の戸を開けると、香ばしい香りが漂ってきた。おばあちゃんの作っていたシチューの香りだ。それを無視して私はおばあちゃんの部屋を漁る。
森を出て、外の町に行こう。
ふと一冊の本が目に留まる。おばあちゃんの日記であった。
【×月×日】
白い髪、左右違う瞳。この子は町の者から忌み嫌われていた。無愛想で同じくあまり人気の無いシスターである私にはよく懐いている。
なんとか教会にだけでもこの子の居場所を作ってあげたいと思う。
【×月×日】
教会に居る他の子供達と少しずつではあるが、打ち解けてきているようだ。良かった。
しかしあの子が描いた絵を見たが、どうしてあのような色で塗るのだろうか。
【×月×日】
子供たちが、あの子を気味悪がっている。不気味な色合いで塗られた絵が原因の様だ。
また空を赤く塗るのは、我々の神に対する冒涜だと大人たちも騒ぎ始めた。
この頃、異常気象に天変地異と、不作や病が続き、町人も疲弊していたのだ。鬱憤が向いてしまうのも、仕方の無い事だったのかもしれない。
【×月×日】
悲惨な事件が起こってしまった。あの子の両親が殺されてしまったのだ。
彼女はショックで、涙も出せずに、ただ両親の体を眺めていた。私が近寄って体を支えると、彼女は笑顔でこう言った。
「だいじょうぶ。だいじょうぶよ。全部パパとママが悪いの。だって二人は化け物だったんだもの。こんなに青い血を流して笑っているわ。全部、私たちが悪いの」
引き攣ったような、その声音は、すべて自分自身に言い聞かせるかのように聞こえた。
【×月×日】
私は疲れ果て眠りに落ちてしまった彼女をそっと連れ出して、森で生活を始めた。
次に目を覚ました時には、すべての記憶が消えてしまっていたようであった。
しかし彼女は色覚に異常があったのであろうか? 絵の色、両親の血の色。一連の出来事は、もしかしたら彼女が真実から眼を逸らしたいがために思い込んで実践していただけの事ではないのか?
人と違う自分自身の髪の色、瞳の色。
どうして違うだけで罵られなくてはならないのかという悲しさ、憤り。認められない両親の死。
どうしてなんの罪もない二人が殺されなくてはならなかったのかという、抑えきれない不条理。小さすぎるその体で、一生懸命に背負っていた結果なのでは無いだろうか。
いつかこの子が大きく育ったその時、来るべき時がきたら、ちゃんと話してやろう。
彼女は今までよく頑張っていた事。
そして、お前が見ている世界は――ちゃんと正しいものであるのだと。
私は、ただ沈黙していた。
頭がガンガンとして、瞼の裏に見知った教会や両親の顔が浮かんできた。
ゆっくりと顔を上げると、壁にかかった絵画が目に入った。
空と、海。
――青い、色。
「魔女は、私だったんだ」
みんなは化け物なんかじゃなかった。化け物は私の方だった。
だってほら。
私は傍らにあった果物ナイフを手に取り、胸に突き刺した。パタパタッと床に落ちたのは青い液体だった。
あの沼はほんとうは、どんな色をしていたんだろう、ねえおばあちゃん――
-end-