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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

幸せを呼ぶ赤カビ

作者: 夕立

挿絵(By みてみん)



「実験に必要な機材は全て揃えてあります。足りないものがあれば、小さいものなら自由に買って頂いて結構。数万とかするような物を買う時は、許可を取ってもらいますが」


 ガチャガチャと扉の鍵を開け、男は部屋の中に入った。彼に続き赤城あかぎも中に入る。男が手を伸ばすと明かりが付き換気扇が回りだしたので、そこにスイッチがあるのだろう。

 入ってすぐにある机の上から一つの紙束を取ると、男はそれを赤城に渡してきた。


「これがあなたにお願いしたい実験の手順書プロトコルです。授業も持って頂きますし、結果が出るのを急ぎはしません。ご自分のペースで色々試してみてください。で、これがこの部屋の鍵です。ここに置いておきますね」


 赤いプラスチックタグの付いた鍵を男は机の上に置く。


「とりあえず説明はそんなところですかね。分からない事があればおいおいという事で。では私はこれで」

「あ、理事長」


 部屋を出て行こうとする男――理事長を赤城は呼びとめた。呼ばれ、彼が振り返る。


「何でしょう?」

「実験を始めると土日関係無しに出勤しなければならない日が出てくると思うのですが、そういう時はどうやって校内に入ればいいですか?」

「ああ、そうですね。忘れていました。後でIDカードを渡すので私の部屋に来てください。では」


 七三に分けた白髪交じりの髪を掻くと、今度こそ彼は部屋を去って行った。

 もうすぐ四月という季節だが今日は少し肌寒い。エアコンのスイッチを入れ、赤城は部屋の中を見回した。


 六畳ほどしかない狭い部屋だ。そこに所狭しと実験機材が詰め込まれている。狭くはあるが、大学よりもグレードの高い機材が揃えられているあたりは、さすが人気私立校といったところか。


 私立I学園。難関大学への合格率も良く、県内でも人気の中高一貫校だ。

 そこに、今年の春から赤城は勤める事となった。本当は教員になるつもりなど無かったのだ。赤城のやりたい事は実験だけで、煩わしい子供の世話などやりたい事の対極にあたる。

 だが、試験開発系の職場はもれなく落ちてしまい、就職浪人決定かと困っていた時に見つけたのが、ここの実験教諭募集だ。


 聞き慣れない言葉に仕事内容を見てみると、理事長の個人的実験を行う事と、少しばかり理科の授業を行う事。クラス担任はしなくていいらしい。

 なんとも赤城好みの仕事内容に、すぐに応募した。そしたら採用されてしまった。

 単純についていた。そう思う。


 椅子を引き腰掛けると、理事長に渡された手順書をめくる。


(Bカビの哺乳類への有用性の証明? また随分と大きく出たわね)


 題名は大それた事が書かれているが、どういった効果が予想されるとか、そういう事は書かれていない。まだ分かっていないのか、書いていないだけなのか。

 ある程度効果の方向性が分かっていないと実験を組み立てられないので、後者なのだろうが。


 手順書を読んだ限りだと、とりあえずはマウスの細胞を培養増殖させてBカビとやらを添加してやれば良いらしい。実に単純で簡単な実験だ。

 面白くはない。が、それでクラス担任をしなくていいというのであれば文句は無い。

 本格的な実験は翌日からにし、その日は他の職員へ挨拶周りをして赤城の一日は終わった。




 実験に必要な試薬を調整したり器具を滅菌したりで数日が潰れる。本格的に培養を始めた頃には新学期が始まり、学園にも生徒の声が響くようになった。


 だからと言って赤城の生活に特に変化があるわけではない。多少、授業や、その準備に割く時間が増えたが、空き時間にやる作業としてはほどよい作業量だ。

 培養槽インキュベータから取り出したシャーレを顕微鏡の台に置くと、細胞の成長具合を観察し写真に撮る。培養は順調で、シャーレの八割を占めるほどまで細胞が増えてきた。これなら次のステップへ進んでもいいだろう。


 温浴ウォーターバスに赤いDMEM+2%HS培地の入った瓶を入れる。それが十分温まったら、それまでの培地を捨て、温めた赤い培地を注いだ。

 手順書には、この培地に切り替える時にBカビを添加しろと書かれている。筋菅への分化を促進する工程で添加するということは、筋肉の形成にでも効果を及ぼすのだろうか。


(まぁ、やってみれば分かる事ね)


 事前に増殖させておいたカビを培養槽から取り出す。シャーレの中は寒天培地を覆い尽くすほど増殖したカビで溢れている。こんな鮮やかな赤色のカビを見たのは、赤城はこれが初めてだ。


 手順書にはカビの添加量が書かれていない。どの程度の添加量が良いのか探っている途中なのだろうか。

 正解が分からないので、添加量の異なるシャーレをそれぞれ二組ずつ制作し、培養槽に戻す。


 今日出来る事は無くなったので、机に向かい、次の授業の為の雑事を片付ける事にした。

 今までは何の変哲もない細胞培養で面白くも無かったが、明日には何か変化が見れるかもしれない。先の楽しみが出来たお陰か、退屈な教育指導案作りも少しだけ楽しく感じられた。




 翌朝、いつもと変わらぬ時間に赤城は登校した。

 土曜なので扉は施錠されている。IDカードを通し校内へ入ると、作業の邪魔になる肩甲骨まである髪を後ろで一つに束ねた。いつもはコンタクトだが、面倒なので今日は眼鏡だ。

 休みの日ということで、いつもより身嗜みに気を使わずに済むのが気楽でいい。


 彼女しか出入りしない実験室の鍵を開け、鞄を机の上に置くと、椅子の背もたれに掛けておいた白衣に腕を通した。

 作業から一日で大した変化もしていないだろうに、柄にもなくわくわくしている。少し落ち着く為に一度深呼吸すると、培養槽を開いた。


「……え?」


 予想していなかった光景に思わずほうける。少し遅れて、漂ってきた猛烈な培地の臭いに我に返った。

 改めて培養槽の中を観察し、その異様な光景に眉をひそめる。


 培養槽の中で赤い何かが溢れていた。

 きちんと蓋を閉じて積み重ねておいたはずのシャーレはバラバラと倒れ、中からはみ出た赤い何かがドロリと槽内にぶちまけられている。

 たまに見える透明な黄色い液は培地だろうか。蓋が空いてた程度では一晩で指示薬フェニールレッドが黄になるとも思えないが、この異様な状態だ。培地内の養分を吸収しつくして老廃物を排出したのかもしれない。


 とりあえず言える事は、今回の実験は失敗だ。きっとカビの添加量が多すぎたのだろう。再度実験をやり直す為に、このゲル状の物体を回収せねばなるまい。


 ヘラ(セルスクレーパー)を使って、槽壁からゲルを引き剥がす。メッシュ状の所もあるせいで作業がやたらと大変だ。

 それでも半分ほどはゲルを回収したところで、おかしな事に気付いた。


(細胞が増えてる上に……動いてる?)


 こんな短時間で増えるのもおかしな話だが、動くというのはもっとありえない。培養しているのは唯の筋肉の元だ。信号を与える神経も通っていないのに動くはずがない。


(だけど、なんか、ここら辺がピクピクしているような)


 ゲルの山に顔を近付ける。


 ピトッ


 ゲルの一部が跳ねた。頬に着いたそれに触れると、ドロリと手にも粘りつく。次の瞬間、猛烈な痛みが赤城を襲った。


「いやぁあああっ! 痛い! 痛いっっ!」


 ゲルの付着した頬と手がありえない痛みを訴える。何が? と思って手を見てみると、ゲルと皮膚の間から血が流れてきている。

 "かぶれた"とか、"ただれた"でもなく、"怪我"だというのか。


(ありえない、ありえない、ありえないっ!)


 歯の根が合わず、ガチガチと音が鳴った。

 目の前でゲルが一気に増殖していく。バックドラフトのような勢いで増えたソレは赤城の方へ移動してきて(、、、、、、)、彼女を包もうとしてくる。


 その場から逃げようとしたが、足首まで到達したソレに抑えられ足が上がらない。結果、上半身だけ変な方向に力が掛かり、赤城はその場に転んだ。衝撃で眼鏡が落ちるが、そんな事に構っている場合ではない。

 足を引き抜こうともがくがピクリともしない。仕方なしに、手近にあるものを手当たり次第に投げ付けた。が、ソレのは障害など無いように床を這ってきて、赤城に登る。


「いや、いやっ。来ないでっ!」


 叫ぶがソレの侵食は止まらない。口や鼻孔に生臭い培地の臭いが充満する。

 赤城の意識はそこで途絶えた。



 ◆


 もう深夜だというのに明かりのついたままの実験室へ入り、理事長は中の様子をぼんやりと見た。床や培養槽の中は乳白色のゲルに汚れ、割れたガラス片や実験器具が散乱している。

 ゲルを踏まぬように室内を歩きゴム手袋をはめると、理事長は手早く袋にゲルと割れた器具を詰め込んだ。ついでに、床に転がっていた赤城の眼鏡も放り込む。


 袋に回収したものは片っぱしから湿熱滅菌オートクレーブにかけ、ゲルに汚れた場所はエタノールの原液で拭いた。その程度で死ぬカビではないと思うが、気分の問題だ。

 拭き掃除に使ったものも全て袋に詰め、最後は滅菌にかけた。


「遺体が残らないのはいいんだが、この掃除がなぁ」


 作業を続けながらぼやく。

 遅かれ早かれ彼女が喰われる事は分かっていた。カビへの餌として彼女を採用したのだから。


 この学園にはヒトを食うカビがいる。

 最初からいたわけではない。幸運を呼ぶカビと言って売られていたので、理事長が冗談半分で買って来たものだ。

 不思議な事に、それ以来学園の人気は高止まりしている。


 が、一方で問題を背負うハメになった。

 そのカビはいつのまにやら理事長の胸のあたりにも生え、除去出来なくなったのだ。普段は何の害も無いのだが、時が経つとカビはどんどん赤くなり、血の様な色になると肉を齧りだす。

 そして、ヒト一人分の血肉を喰らうと白く戻るのだ。不思議な事に、同じ株から株分けしたカビなら、どれが食べても一様に皆白くなるらしい。


 朝までは真っ赤だった彼の胸も、今は真っ白だ。


「次はまた一○年後くらいかな」


 赤城の残した荷を彼女の鞄に全て詰め込み、それを持って実験室を出る。そして、ゴミ袋に包んだそれを、学園から離れたゴミ捨て場に投げ捨てた。月曜は燃やすゴミの日だ。彼女の失踪が明らかになる頃にはすっかり灰になってくれているだろう。




 数日後、ニュースで赤城陽子の失踪が流れていたが、それを見ても理事長が表情を変える事は無かった。

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― 新着の感想 ―
[一言]  メルヘンぽいタイトルに油断してました(汗)  「幸せ」という果実(法律用的な意味でも)は、カビの生存戦略なのですね。そこが怖い、
[良い点] こいつはやばい! 子供の頃、怖くて見れなかった人食いスライムの映画を思い出しました。 たしかタイトルは『ブロブ』でした。 80~90年台は普通にロードショーでエグい映画をやっていた思い出。…
[良い点] 専門用語が、私には難しかったのですが、それが気にならないくらい怖くて面白い話でした(*^^*)
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